【コラム】鳥は飛ばねばならぬ

投稿日:2017年4月1日 更新日:

お彼岸の法要、お通夜お葬式や年回忌などの法要を、陽岳寺では、お経と日本語が混じり合ったものを行っています。
臨済宗の法要をしっかりと行うため、貴賤なく区別なく、どのような時・人であっても、お経はお経としてお読みしております。
しかし、考えてみればすべてが平等ではないようです。子どものお葬式と、おじいちゃん大往生のお葬式では空気や意味合いが変わってきます。昔と現代では言葉づかいも変わってきます。
であるならば、違うところは違うままにしたい。
仏さまとしてのお名前である戒名・法号が違うように、お葬式の内容も変えたい。
お経は平等に同じものをお読みするけれども、聞いている人・問いかけている人・法要の主人公である先に逝った家族、親しい人たちは日本人なのですから、法要は日本語がよいのではないか。平成にはいってからの、住職の工夫です。

お通夜。故人と静かに寄り添い、お別れをするために過ごす最後の夜。
この時間とは、故人について語り合うことで、故人の想いを分かろうとし、共有し、忘れていたことを思い出そうという意味もあるようです。
翌日の葬儀以降、形あるものとしての身体は無くなるわけですが、一体どこへ行ってしまうのか。
子どもが相手ならば「お空でネンネしているのよ」と言いましょうか。火葬場の煙突から煙が出ていたならば分かりやすいのかもしれません。
一体どこへ行ってしまうのか?この問いに、ある詩が答えてくれているのではないか。そう思うようになり、お通夜にてお読みしている詩があります。
円覚寺の横田南嶺老師が法話の時にお読みになっていました。
詩人、坂村臣民。多くの詩を残していらっしゃいますが、『鳥は飛ばねばならぬ』という詩があります。

鳥は飛ばねばならぬ
人は生きねばならぬ
怒涛の海を飛び行く鳥のように
混沌の世を生きねばならぬ
鳥は本能的に暗黒を突破すれば
光明の島に着くことを知っている
そのように人も一寸先は闇ではなく
光であることを知らねばならぬ
新しい年を迎えた日の朝
私に与えられた命題
鳥は飛ばねばならぬ
人は生きねばならぬ

鳥は飛ぼうと思って飛んでいるわけでもなく、鳥が鳥であるために飛ばなければといった強迫観念にも追われず、ただ飛ぶだけです。
この詩の鳥とは私たちのことです。聞いている我々はまるで渡り鳥のように、どこからかやってきたのです。
そして鳥が飛ばねばならないように、私たちは生きねばならぬ。ただ、これからも生活をしていくのだ、ということ。
さらに亡き人がどこへ行くかも分かりません。渡り鳥の飛ぶ先が分からないようにです。

陽岳寺のお通夜お葬式では、故人のお名前とともに、付される戒名・法号を、声を掛けるように何度もお呼びします。
そのとき、お戒名の枕詞のようにある言葉が「新帰元」または「新帰真」です。
新しく元、真に帰る。
どこから来て、どこへ行くかは分からない。人は“分からない”という人智を越えた大いなるものに帰って行く、旅立っていくのだ、ということの言葉です。
先に逝った親しい亡き人に対して、また今という時間を生きている私たちに対しても、大事なことを詩「鳥は飛ばねばならぬ」は語りかけてくれているように思っています。

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