【コラム】もぬけのから

投稿日:2020年11月8日 更新日:

臨床心理学者 河合隼雄氏が、「儀式」について書いていました。(産経新聞1997/1/9)

そこ(=儀式)に参加する人間の生き方全体がそこにこめられているとき、深い意味をもつ。~中略~
本来、儀式というものはどこか合理的に説明し難いようなところがあるのは、人間の知的な面のみではなく、感情も身体もすべてをこめて関与させるための工夫が、そこに秘められているからである。全人的なかかわりのない儀式は、文字どおり「もぬけのから」である。
このように考えると、現代においては真の儀式が非常に少ないことに気づくであろう。ほんとうに儀式を行おうとすると、各人の工夫や意気込みが必要になる。そして、子どものときからそのような儀式に参加してきたか、こなかったかは、その人の人生観に相当な影響を及ぼすのではなかろうか。~中略~
現在は核家族のところも多いと思うが、「わが家の儀式」の創造について考えてみられてはどうであろう。 

河合氏が、倫理の筋が通ることと儀式との関係について思うところを述べた文章です。

たとえばお正月の習慣。そんな習慣は無意味である・面倒なものとして受け止められてしまっていて、合理的に考えて廃止していいじゃないかと世間の声に聞く。しかし、なにもかも合理的で便利なものばかり追求していいのか。ひとの心とは合理的、便宜的にはできていないだろう、と言うのです。

もちろん儀式万歳というわけではありません。「一般に儀式ばる人は、内容の貧しさを形式によって補おうとする傾向が強い。」とピシャリ。耳に痛いです。儀式のカタチをやればいい、というわけではないことが分かります。

参列者なしで陽岳寺が法要を一任して行う『代理 年回忌法要』は、お頼みされますとお寺から報告のお手紙をお送りしております。

河合氏の言うように、儀式には各人の工夫や意気込みが必要ですので、お寺に頼んでおくだけではなくて、生活のなかにおいてお仏壇やお写真の前等で故人にお心を向けていただくことが求められます。

生活のなかにおいて、です。禅や宗教とは、生活のなかでこそ輝きます。そんな全人的なかかわりをもって行うものとしては、職人的な仕事もありますでしょうか。

 

臨済宗においてよく読まれる本のひとつ『無門関』(公案集/問題集/故事集)の第八則「奚仲造車」にこうあります。

本則(今回のテーマ/問題文):
月庵和尚、僧に問う、奚仲車を造ること一百輻、両頭を拈却し、軸を去却して、甚麼辺の事をか明む。

【本則意訳】月庵和尚が僧に問う。「車づくりの名人である奚仲はたくさんの輻(スポーク:車輪の軸と外側の輪とを結ぶ、放射状に取り付けられた多くの細長い棒)をもつ車をつくったという。だがもし車の前部や後部、輪や胴体を取り去り、心棒も取り除いてみたらば、それはいったい、どんなことになるか」

 

台車をつくる名人の故事を利用した公案です。名人 奚仲は厳しい技能的修練を積み、良い台車をつくることができるようになりました。その技は素晴らしいのですが、その技(が形として見えるもの、ここでは車)を取り去ってしまうとなにが残るか、と月庵和尚は問います。

厳しい技能的修練を経てのちの、厳しい技能的修練以前のところを見よ、と言うのです。軸などを取り去る、という記述は、車の実相を超えることを示唆しています。

名人 奚仲は、車を造るときは無心です。しかし車を造っていないときはどうでしょうか。車を造るときは、全人的なかかわりをもって、感情も身体もすべてをこめているかもしれない。では、本人の実生活はどうか。造車から、実生活にその本質は染み出しているだろうか、汲みだしているだろうか。

生活のなかの特殊な一面にのみ限られた無我夢中・三昧・無心になってやりきることは、禅や宗教の無心には足りません。

護寺会便りにえらそうなことを書いていますが、わたしの実生活はどうだろうか、ということです。全人的なかかわりをもって儀式を行うことができているか、仕事ができているかが求められるということです。

お寺としては、そのお手伝いをどのように成していくかが求められると思うのです。その人の人生観に相当な影響を及ぼす、日常に繋がるのですから。

儀式や仕事といったものごとには、前段・中段・後段があります。中段は内容です。

「分かりやすいようにお願いします」と、平成より住職は日本語での法要をお勤めしています。お施餓鬼も、お葬式も、ご祈祷会も、ふだんの法事も、日本語での法要です。

日本語が本当に分かりやすいかと言えば、そうでもありません。日本語の内容すべてが分かりやすければいいわけでもありません。これからも精進していきます。

前段と後段。前段には、法要を勤めるにあたり、当日までの成り行きと、直前のお話があります。

落語には「まくら」があります。これからする噺の導入であったり、ただ笑い話であったり。落語の予備知識のない人にとっては、なぜこのようなことを話しているのかなと疑問に思うかもしれない内容です。場を温めている笑い話を、関係ないじゃないか時間のムダだと思うかもしれません。

しかし、分かっている人にとっては、場を温めているのだな、この噺をするのかな、落語本編も楽しもうと思いながら聞くのです。聞く側も、話す側も、感情も身体もすべてこめて関与する「まくら」もふくめて、落語は儀式といえるでしょうか。

年回忌法要とは落語ではありませんが、法要をはじめる直前にあたり、「まくら」としてお話をした方がいいかと思うのです。意気込みを乗せやすくするためにです。

・・・お勤めのお時間としては30~40分ほどで、前半で般若心経を、後半で世尊偈をお読みします。どちらも観音さまのお経です。宗派によって特に大事にするお経が違いまして、臨済宗は特にこれというものがあるわけではないのです。陽岳寺本尊は十一面観音菩薩さまです。そんな観音さまのご縁もあり、さらにいえばご本尊とお位牌が並んでいます故人をも観音さまとしてもお祀りしたい。草葉の蔭から見守るという言葉もありますが、亡き後もわたしたちの人生を見守る伴走者としたい、であるならば私たちはしかと生きている姿を見せなければなりません。そんな想いをもって2つのお経をお読みしたいと存じます。・・・

「もぬけのから」ではいけないのです。(副住職)

◎毎月第2・4金曜日の夜7~8時、ゆったり寺ヨガを行っております。時間前に準備をして、リラックス時間をお過ごしください。会費1500円、レンタルマット300円。
[年内は11月13・27日、12月11日]

◎市童のらくご、夜7時半より。木戸賃 予約1500円、当日1800円。(高座と客席のあいだに透明ビニール幕があります)
[11月10日(火)、12月18日(金)]

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