【コラム】愛別離苦

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新型コロナウィルス感染症の影響で、病院や介護施設に入ってしまってからというもの、なかなか面と向かって会うことができない…と伺います。分かってはいるものの、それでもつらいものがあります。
なにかお話しできる内容はないだろうか。そんなことを考えて、この文章をおつくりしました。

「かの人のことをむねの奥で思い、ことばをかける(愛語)」ことをおすすめいたします。

愛する者と離れる苦しみ、別れる苦しみ。
自分自身の手ではどうにもできない病、老い、社会状況が原因となる「苦しみ」がある。
この「ままならなさ、ままならないこと」を仏教では「苦(ドゥッカ)」と言います。
四苦八苦という四文字熟語があります。営業で仕事を取ってくるのに四苦八苦した、などと使います。大変な苦労をする意味です。
四苦八苦とは、そもそも仏教の言葉です。人にとって、とくに四つ、さらに言えば八つの「ままならないこと」があるという分類です。

  •  生老病死(しょうろうびょうし):生まれ、老い、病み、死ぬ苦しみ
  •  愛別離苦(あいべつりく):愛する者との離れる、別れる苦しみ
  •  怨憎会苦(おんぞうえく):恨み憎む者と会うかもしれない苦しみ
  •  求不得苦(ぐふとっく):求めているものが得られない苦しみ
  •  五蘊盛苦(ごうんじょうく):身体と心を形成する五つの要素から生じる苦しみ

◆ひとの目を気にして苦しんでしまう

「ひとはみな苦しみを抱えて生きている」と、仏教のはじまりの人、お釈迦さまは看破されました。人の道とは、ままならなさ・苦しみを理解し、受け止め、乗り越える以外ないではないか。人間のありようの因果の道理に対する無知こそが苦しみの原因である、と言うのです。
であるならば、人の生には「四苦八苦」というように、私は私だと思えばままならないものばかりであるという自覚から出発すればいい…と。私は私だと、われわれがわれわれの根拠に執着しすぎるから苦しむのだと仏教は述べます。
諸法無我とはいうものの、そんなわれわれの根拠はどこにあるのか。お釈迦さまは「行い」にあるといいます。
『ブッダの言葉~スッタニパータ(第三大いなる章、九 ヴァーセッタ)』にこうあります(中村元 訳)。(バラモンとはインドにおけるカースト制度の階層のことです。身分は生まれによって決まるのではなく、行為によるのだと)

生れによってバラモンなのではない。生れによって非バラモンなのでもない。行為によってバラモンなのである。行為によって非バラモンなのである。[スッタニパータ 六五〇]

そのため「悪を作さず、善い行い」をすすめます。お釈迦さまの言葉として残されている、『法句経』にこうあります(友松円諦 訳)。

ことばをつつしみ
意(おもい)をととのえ
身に不善(あしき)を作さず
この三つの形式(かたち)によりて
おのれを きよむべし
かくして 大仙(ひじり)の説ける道を得ん
[法句経 二八一]

 これには「だれに何と言われようと、」が前置きにつきませんでしょうか。
「だれに何と言われようと、」善悪の戒めを持って生活する。「だれに何と言われようと、」めちゃくちゃなことをしていいわけではない。
もっと詳しく言えば「だれかがわたしを見ているかは関係なく、わたしの行いをわたしが見ている」。
愛する人との別離。憎み嫌う人との出会い。あれがほしい、手に入らない。わたしのここが気に入らない。年をとってしまった、この病はなんのせいか。四苦八苦をみれば、苦しみのおおよその原因とは他人が関係しているように思うことができます。
あの人は健康で若い(自分はそうでもない)、あいつは良いものを持っている(わたしは持っていない)、あの人はもういない(昔はいた)、あの人と関係がないときは気楽だった。
この内実を見れば、苦しみの原因は他人との関係とは言いつつも、「どのようにまわりから見られているか・自分で見ているか」「他人、自分の目を気にしている」がきっかけのようです。
他人や過去との比較。子どものころから、大人になり、老いてまで、死してまで比較する。くらべることは必要ですが、行動の指針の第一にしてはいけないようです。比べるものさしを、自分ではどうにもできない他人や過去へ任せてはいけない。そもそも比較することなどできないのに比較しようとするので苦しんでしまうようです。内なる目が外へ向かいすぎている。

◆愛別離苦:大切なひとを胸の奥で思う

愛別離苦。この苦しみをのがれるにはどうすればいいでしょうか。依存する愛着をしないことともに、「愛する」とはどういうことか考えることはどうでしょうか。
解決策として、愛することをしない、自我を殺す、他人との人間関係を断つことはちがいます。世捨て人になれば人間関係の苦しみが生まれないので仏教に適う、とは間違った論理です。

「だれかがわたしを見ているかは関係なく、わたしの行いをわたしが見る」、まずは自立です。「愛する人」がどのような人だったか語るだけではなく、「愛する」について考えてみる、語ってみることではないか。

たとえば「愛する人」にたいし、どのような言葉をかけるかを考える。愛語といいます。
慈しみの言葉をかけるとしたら。
あわれみの言葉をかけるとしたら。
ともによろこぶ言葉をかけるとしたら。
短所と向き合い、とらわれのないこころに触れるような言葉をかけるとしたら。

愛別離苦の愛するとは、渇愛ではなく、大切にするという意味です。
なぜ大切なひとになったのか。それだけの出会いがなければ、ただの他者が大切なひと、愛する人にはなりえない。
別れ離れる苦しさや悲しさ。ひとは相手の他者の悲しみを完全に理解することはできない。まして本人にすら、なぜ自分が泣くのか悲しみを理解できない。
しかし、思うことはできる。思うよりも深く、胸の奥で「念じる」ことができる。親がこどもの無事を念じる。子が親と同じ年齢になって思慕する。あの人だったらどうしたかと念ずる。
人という生き物は、頼まれていないのに大切なひとのためになにかをしたいと考えます。ときには「しない」ことをするときもある。会わないことも愛することです。そのとき、会わない相手を胸の奥で思っているのは間違いありません。見えない相手に声をかけている。人がだれかを念じるとき、ままならない苦しみを自分自身で癒しているのかもしれません。

「かの人のことをむねの奥で思い、ことばをかける(愛語)」ことをおすすめいたします。(副住職)

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