【コラム】底を見る

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「もうワクチンを接種されましたか」と、雑談のタネとして聞くことを躊躇することがあります。その理由は、ワクチン接種にも選択の自由があるから、ではありません。副反応の重さなどから、いのちを落としたり大変な状況になってしまう方がいらっしゃるかもしれないからです。止むを得ず接種できない状況の方がいらっしゃるかもしれないからです。

我が子は6歳になりますが、感染症の予防接種を毎年しています。おかげで感染症にかかったとしても重症化していません。しかし、感染症の予防接種をしていない子は、予防接種をしている子のおかげで、その感染症にかからずに済んでいる。この事実をうけとめると、児童が予防接種を受けるのは必至だろうと思いつつも、ご家庭によっては止むを得ない事情などもあると考えたら…。まして親自身が接種するのではなく、親が子に接種させるかどうかを決めるのですから、子の体調がすぐれなければさらに悩むものです。

では、どこを根拠にするか。医学論文やデータをもとに判断された医療の内容は、一定の正しさが見込まれ、日々新しくなっています。予防接種も同様です。輸血や接種による感染症罹患の可能性もあり、重い副作用もあることも鑑みつつ…。

ただし、デマを根拠にした判断はいけません。YouTubeの有名インフルエンサーやテレビの御用学者・コメンテーターが言ったから、新聞に書いてあったから、友人の友人の医学博士がこのサプリを飲めば大丈夫と言ったから、とは、ただ彼が言った意見にすぎない。彼が言った意見の根拠はどこにあるのか、思惑は、妥当性はどうか、有意性をうたうけれどもその検査方法は答えありきなのでは。底をよくよく見る必要があります。

その意見を受けるわたしたちの口も「謝罪して撤回する」人間の口であり、意見が出ます。底をよくよく見る必要があります。

この護寺会便りも同様です。口から出ることばは斧にもなり、寄って立つよすがにもなり、さらに過ぎればハラスメントや遵守すべき命令になってしまう。

現実とは、何が起こるか「わからない」「言い切れない」ものの、インフルエンサーやコメンテーターなどは断定していきますので、小気味好く聞こえます。本当はへたなことを言えないはずなのです。それなのに断定していくのはなぜか。持っていきたい答えへ導く演出をしたいからでしょう。わたしのこの断定も、持っていきたい答えへ導きたいからです。かといって何も言わないわけにはいきません。

意見の表現方法である、口から出ることば、身体で動く行為、心に思うこと。これらについて、人が人として生きていくならば、気をつけなければならないことです。

 

少し長いですが、コーサラ国王パセーナディのことばです。(第III篇第1章第4節愛しき者:「神々との対話」中村 元訳)

〜。身体によって悪行を行い、ことばによって悪行を行い、心によって悪行を行う人々がいるが、かれらにとっては自己は愛しからぬ者である。〜。愛しくない者が愛しくない者に対してなすことを、かれらは、みずから自分のためにしているのである。それ故に、かれらにとって自己は愛しき者ではないのである。
だれでも、身体によって善行をなし、ことばによって善行をなし、心によって善行をなすならば、その人々にとっては、自己は愛しき者である。〜。愛しき者が愛しい者のためになすことを、かれらは、みずから自分のためにしているのである。それ故に、かれらにとっては自己は愛しいものなのである」と。〜。

 お釈迦さまは彼の言葉に同意して答えます。

もしも自分を愛しいものだと知るならば、自分を悪と結びつけてはならない。悪いことを実行する人が楽しみを得るということは、容易ではないからである。
死に襲われて、人間としての生存を捨てつつある人にとっては、何が自分のものなのであろうか。かれは、何を取って、行くのであろうか。何が、かれに従うものであろうか。-影がそのからだから離れないように。
人がこの世でなす善と悪との両者は、その人の所有するものであり、人はそれに執って[身につけて]おもむく。それは、かれに従うものである。-影がそのからだから離れないように。〜。

 

「愛しい」とは、渇愛の愛ではなく愛好の情、大切であるという意味です。

お釈迦さまの「(死に襲われて、)人間としての生存を捨てつつある人」とは、生まれ老いて病み死んでいく状態でもあり、「(究極の満ち足りることのない苦しみによって、)自分を見失いつつある人」という意味ともとらえてみます。

仏教の人の行動原理とは、自己を大切だと思うことを理由として、身体によって善行をなし、ことばによって善行をなし、心によって善行をなすと上記にあります。善悪とは仏教的なもので、社会的なものではありません。仏教的な悪とは、ひとつには「ものごとは変化しないと考え、満足したら楽しいことに楽しみを見出し、絶対はある思い込み、不浄を浄とする(四不顛倒)」こと。

なにげなく行なっている日常茶飯事とは、自分を愛しいと思うから行なっていることか、自分を愛しいとは思っていないから行なっていることのどちらかに分類されるようです。

「もうワクチンを接種されましたか」のことばを発するとしたらどちらでしょうか。そこに、なごやかな眼差しと笑顔、話の流れや所作、思いやりの心はあるでしょうか。人からよく見られたいからでしょうか。底をよくよく見る必要があります。

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