【コラム】法事後のはなし(1):お月さまが見ている

投稿日:2022年1月1日 更新日:

あけましておめでとうございます。年頭にあたり陽岳寺各家檀信徒の家門繁栄、子孫長久、諸災消除、万福多幸を祈念申し上げます。

【コラム】法事後のはなし(1):お月さまが見ている

「こうやって親族やきょうだいが集まる機会はなかなか無い。冠婚葬祭のときくらいだ。」とは、よく聞く言葉です。

人間関係、しがらみとは、わずらわしさを感じます。面倒です。本当に困ることもある。しかし家族間、親族間の仲が良ければよいのです。集まるという行為・機会のためにこそ、冠婚葬祭はあるとも言えます。ともに悲しみ、ともに喜ぶことを進んで行うのが私たち人間です。

◆法事の理由:供養、誇り、自信、思い出、そして悟り

人が亡くなって、いかんともしがたく、何かを行ってきたのが人類です。その中身を見てみます。法事をする理由とはなにがあるのでしょうか。

ひとつ、今回の回忌があたりました故人のご供養のためです。故人を指定して、ご読経、ご回向させていただきました。

ひとつ、喪主の誇り、施主の自信、孫や子どもたちへの記憶を残すためです。こうして集まることができた、法事を執行できたことも素晴らしい。

ここで、わたしはもうひとつ、悟りのため、と申し上げたい。

「悟り」といわれると一歩引いてしまうかもしれません。格式高く言えば大層なこととなります。が、あぁそういうことか!という「気づき」と言われればどうでしょうか。

2500年前、お釈迦さまは世の真理を悟られました。世界共通の事実に気づきました。

お釈迦さまのお悟りほどではないにしても、私たちは私たちなりに、処世術や世の真理、こういうもの、という気づきを持っていませんでしょうか。

よかったらご家族でご自身の気づきについてお話しをして、分かち合う機会を取っていただきたいものです。

◆悟りとは「実はこれが大切なものだったんだ」となくなるまえに気づくこと

さて、法事をする意味とはひとつには悟りを得るためと申し上げました。

仏教では、人に伝える方法・気づきを与える方法として、いろいろな“たとえ話”をいたします。気づきとは、なにかがきっかけで、自分自身でそうか!と明らかに分かることです。

わたしがここでお話するたとえ話は、とある悟りについての言説。

その言説とは、悟りとは「実はこれが大切なものだったんだ」と大切なものを失うまえに気づくこと、というもの。

失って気づく大切さ。なくして分かるありがたさ。なくす前に気づきたいものです。

たとえば健康。あれだけマラソンで走っていたけれどもヘルニアになってしまった。もう動くこともままならない。夢中で楽しんでいたけれども、じつは走ること、健康に自信を持っていたんだ。

たとえば貯金。定期預金にまわしたので額面が減った。不思議な喪失感や不安がざわざわ。じつは普通預金通帳の貯蓄額に安心を感じていたんだ。

ほかには、たとえば友人とのなにげない会話。ひとりの時間。パートナーの存在。SNSのわたし。子どもや孫の成長。株価の一喜一憂。趣味、嗜好品。朝起きて、夜寝ること。食べて、飲んで、出せること。

◆転ばぬ先の杖、依頼心、頼みの綱、これがあれば

あれがわたしの生きることを支えてくれていたんだ!と失ってこそ気づくのは、頼みの綱がそこにあって当然だ、些細なことだ、と気にも留めていないからでしょう。

こころに大きな穴が開いたかのよう、というたとえは、私の土台の地盤沈下を表しています。あって当たり前の基礎がなくなったのです。定期的に、自分を支えてくれている基礎の確認、メンテナンスや地盤固めをしたいものです。いつか必ず、さまざまな危機的状況が、この私に起きるのですから。

そんな危機的状況とは病気か、老いか、執着か。

まだまだコロナ禍は続きます。先行きは不安、暗雲が立ち込めています。いやコロナなどなくとも、そもそも、すぐ目の前の先が明るく見通しがいいだなんてことはないのかもしれません。未だ来ない明日を経験した者はいません。今日只今とは、わたしの人生のなかの最先端なのですから。

わたしはいま**歳です。自分の人生の道を歩んできたけれども、これから、どちらに進んでいけばいいのか。後も先も分からない。手探りで進むしかない。

まるで月明かりのない夜道を歩くようなものです。そこで人間は発明をしてきました。街灯、懐中電灯。多くの頼りを持つことで、ひとつが消えても大丈夫、不安をぬぐいさってきた。

 

「自立」とは、依存しなくなることだと思われがちです。そうではない。「依存先を増やしていくこと」こそが、自立なのです。

…とは小児科医 熊谷晋一郎先生の言葉です。

たくさんの灯りをもって、周囲を照らしたい。点検やメンテナンスもいたしましょう。

しかし、いつかは自身の灯りの電気が切れるときがくる。若くして病にかかる。離ればなれになる。できなくなる。あるのが当たり前だと執着していたので、塵が風で飛ぶかのような目の前の事実を受け止められない。

街灯が、懐中電灯が、ふっと灯りが消えて、まさに目の前が真っ暗になるときがある。

そんなとき。街灯はまぶしい、光源を直視できないほどに懐中電灯は照らしてくれる。周囲が明るいことに慣れてしまった明順応の目には、急な漆黒はとんでもない事態です。

東日本大震災のあと、自粛や計画停電で灯りの消えた街並みが思い出されます。そんな中ひときわ明るかったものがありました。月です。

◆人知れず照らす月

暗い夜に、人知れず、大地を照らしてくれているもの。夜空に浮かぶ月。

雨や、雲で隠れることもある。昼間であれば太陽の光に見えないときもある。月明りとは心細く、当たり前すぎてなんとも思っていません。しかし、暗さに慣れてきた目にはありがたい。雲に隠れていても、月の存在を感じていたい。

わたしたちは夜空に浮かぶ月を、ずっと見あげながら夜道を歩くことはしません。月光を信頼して、月の存在を意識せず頭の隅において、一歩一歩を踏みしめ踏みしめ進みます。

月の有難さに気づいたのなら、たまには夜空を見上げて月に感謝をしたいものです。

月を「故人」と言い換えてみます。草葉の蔭から人知れず見守ってくれているあの人。ふだん忙しく生活している中で月を見上げることはない、強く思いを馳せることも滅多にないかもしれない。日食や月食、お月見、きれいな満月といった特別なときによくよく見つめることがある、くらいかもしれません。それでも月は照らしてくれている、故人は向こう側から見守ってくれている。

であるならば、盆暮れ正月両彼岸のお墓参り、年回忌や年中行事などの仏事・法事、朝や夕方のお仏壇へのお声がけ。できることであれば、忘れないでいたいものです。

◆忘れても忘れても

しかし、そうは思っていても、できないときもある。忘れることもある。月の美しさに気づいたとしても、翌日には忙しさに打ち消されてしまう。

実はこれは大切なものだった、と気づかない。気づいた時には失せた後で、もう二度と繰り返すまいと覚悟する。それでも、すぐ忘れてしまう。

もちろん忘れることも一種の救いです。「諸行無常」とは、よいことも、わるいことも、無駄になることではない。そもそも人間には、よいことも、わるいことも、うつりかわる。すなわち、囚われることはできない「救い」だと見出したい。

大切だったと気づいても忘れてしまうのが仕方ないのだから、生きているうちに気づきを得たいのです。何度もこの悟りの機会を得ておきたい。それが繰り返し訪れる回忌、法事・仏事、お墓参りや朝夕のお仏壇へのご挨拶の意味のひとつなのではないか。

故人を偲ぶ、懐かしく思い出す。まだ失われていない頭に残っている記憶を頼りにいたしましょう。つまりご存命のかたに話を聞いたり、ご家族でお話をしたりいたしましょう。覚えていることを書き記してみませんか。記憶に、記録に、残しておこうではありませんか。

本日はお参りいただきまして、ありがとうございました。(副住職)

  • 陽岳寺YouTubeチャンネルを続けています。お仏壇やお写真の前で、一緒に読経できるようご用意しています。法話や、月2回オンライン坐禅会も。
  • 市童のらくご[2022年1月21日(金)、2月17日(木)、3月17日(木)、4月15日(金)、5月11日(水)、6月16日(木)]開場19時 開演19時半/木戸賃:予約1500円 当日1800円/備考 マスク着用を願います。体調の悪い方はご遠慮ください。開催時間変更等はウェブサイトをご覧ください。(→www.yougakuji.org/ichido_no_rakugo

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