謹賀新年、【えんぴつ写経のすすめ】苟に日に新たに、日々に新たに、また日に新たなり(大学)

投稿日:2023年1月1日 更新日:

あけましておめでとうございます。今年も、新年を迎えられたこと、何よりもお喜び申し上げます。年頭にあたり陽岳寺各家檀信徒の家門繁栄、子孫長久、諸災消除、万福多幸を祈念申し上げます。

令和五年正月

【えんぴつ写経】新年の誓い

円覚寺の横田南嶺老師も鉛筆で写経することをおすすめしています。

写経と聞きますと、筆ペンや毛筆をイメージされる方が多いかもしれません。しかし、鉛筆、万年筆、ボールペンなどで写経をしても大丈夫なのです。ガラスペンでの写経会を開催していらっしゃるお寺もあります。使い慣れたえんぴつで、こころ静かに削ってからのち、書写する。できれば5Bくらいの濃い柔らかい鉛筆で、写経用のノートや手帳などに書いてみてください。

えんぴつで書く写経をおすすめしております。初回は、仏教のはじまりとなった人、お釈迦さまのお言葉を法句経から。前回は禅語でした。今回は1月にふさわしい内容です。

◆えんぴつ写経:新年の誓い

・苟(まこと)に日に新たに、日々に新たに、また日に新たなり

出典は、四書五経のひとつ「大学」から。

中国 殷の湯王が洗面器に刻んでいたと言われる言葉です。顔を洗う、手を洗う、口をすすぐたび目にする訓戒でしょう。

この言葉の「新たなり」の意味をどのように受け取りましょうか。2つの受け止め方をご紹介いたします。読んだあとになぞり書きをしてみてください。

1◆上求:向上心をもって生きていこう

昨日より今日、昨年より今年、そして明日、来年へ。ひとつ「新しい気持ちになろう」。「向上心を持とう」と受け取ることができます。

新年を迎えるに当たってふさわしい言葉だなと思っております。

新年の誓い。日記に書く、家族や会社の朝礼で抱負を述べますでしょうか。

誓い、願い、祈り、をヒトはします。人間以外の動物はしないでしょう。では誰に対して、なにに対して誓うのでしょうか。

誓い、たとえば夫婦の誓いがあります。「幸せにすることを誓います」と。

神前式なら、創造主たる唯一神に誓う。日本のカミに誓う。仏前なら先祖に誓う。人前式なら、あつまってくれた人たちに誓う。

唯一神に誓うことはかなり重い行為です。懺悔もありますが、破ったときはおそろしい。仏教も懺悔はありますが、戒めというよき生活を送るためのエンジンを、調える日常的なものです。ヒトは間違う生き物ですが、神は神との約束違いを許しません。

仏教の約束・誓いとは絶対的なものに頼らない分、自分・覚悟が求められます。先祖に誓う。お盆には亡き先祖が帰ってくる、草葉の陰から見守る、そんな感覚も求められる。

どちらにしても重い。ではそのような「誓い」をヒトがする理由とはなんでしょうか?

「一日の計は朝にあり、一年の計は元旦にあり」、このお正月によく言われる理由はなんでしょうか?

ひとつには、抱負を持つことは大切だからではないか。大人とは日々、現実を見定め、反省し、仕事を真摯に取り組むことが求められます。周囲から求められることもあれば、自分で自分に課すこともある。であればこそ新年に請け負いたい、抱えたい目標を掲げられるのは大人の証拠となるかもしれません。周囲には信頼感や安心感も与えます。

ひとつには、掲げられる目標達成が難しいからではないか。依頼心、頼る心をもってしてまで、なんとかしたい目標がある。達成したい気持ちはある、しかしもしかしたら…そんなときに後押ししてくれる絆がほしい。

山もあれば、谷もある。それでも新しい気持ちをもって事に臨みたい、向上のこころでいたい。その宣言が「苟日新、日日新、又日新」であります。

2◆毎年、毎日、毎瞬、が新たなり

昨日と今日は地続き、寅年から卯年へも地続き。そして明日、辰年へと向かっていく。時計やカレンダーの表記上では続いています。ただ、今日という日は今日しか来ない。この今という瞬間が過ぎゆき、次々と今が来ると言えるのです。つまり「一日一日は全く新しい」この事実を鑑みれば、今回の言葉は「瞬間瞬間が新しいことに気付こう」と受け取ることもできます。

今日という日は残りの人生の最初の一日。まことに真実です。この真実に気づくことを、繰り返して述べているとも言えます。

山もあれば、谷もある。これから先の道を眺めてみれば、上り坂だ下り坂だ、ぬかるんでいる、平坦だ、と調べがつきます。しかし歩んでいく一歩、その一歩だけを見つめてみれば違いがあるでしょうか。比べれば違いますが、「歩む一歩」だけ見ればどうでしょう。ただただ新しい一歩でした。

四十九曲り 細山道を
眞直ぐに通らにゃ 一分たたぬ

これは、市井で言われることばから禅意を感じる言葉「世語(せご)」のひとつです。

ふもとから山道を眺めます。くねくねした山道だなァと見えているけれども、ジグザグには歩きません。いざ登るときは一歩一歩前に足を運ぶだけで、その運びはくねくねしていない。くねくね道をまっすぐ進んでいる。

山道は思ったとおりにいかないため迷わないように気をつけて、と準備はする。しかしやることはひとつと分かっていて、それは地に足つけて進んでいくのみである。この世語は禅の道を教えてくれています。

つねにすべてが新しいのであって、そもそも古いも新しいもない。ここを踏まえていたい。即今只今のこころでいたい。

その宣言が「苟日新、日日新、又日新」であります。

◆向上心と無心

前者は向上心、後者は無心と言い換えることができそうです。

日々新たなり。古い家電は捨てて新しいものに買い換えよう、のように、気持ちを入れ替えようということではない。

過ぎていったことは事実として受け止め、未来は未定であると知り、目標をかかげる。達成を目指して精進を重ねる向上心。

今という瞬間瞬間から見れば、過ぎるも来たるも、そもそもない。過ぎていった事実、予定は未定、にとらわれる可能性すらもない無心といえないでしょうか。

よろしければ「苟日新、日日新、又日新」のなぞり書きと、あわせて新年の抱負を書いてみてください。(副住職)

 

-お寺ブログ, お知らせ, 住職のつぶやき

Copyright© 臨済宗妙心寺派 長光山陽岳寺ホームページ|虹の彼方に , 2024 AllRights Reserved Powered by micata2.