「二重価格」という言葉をご存知だろうか。「国内の人々と、国外の人々と、居住地によって入館料が違う」といった工夫のことだ。
たとえば現代日本においては、京都市は市バスや地下鉄に関して市民優先価格の実現を検討しているという。
さらにふみこんで「三重価格」にしてはどうかという意見を聞いた。京都府内の納税者、日本国内の観光者、そして外国人観光者、と3つのレイヤーにより価格を変えてはどうかと。
なるほどたしかに、円安ブレが止まらないことはどうしようもないところだ。国内と国外でレイヤーを分けることは差別ではなく、区別だろう。
さらに、観光客か在住者かでレイヤーを分けてみれば……地元店舗の利用がなければ、地元住民への“還元”はなく、ただ単に混雑するだけで、いままでの歴史や文化への「フリーライド」つまりタダ乗りになる。不公平感がいなめない。
「税金で維持されているインフラや公共施設、地域社会に根ざした寺社仏閣の利用」という観点でみれば、三重価格はフェアであろう。
◆陽岳寺はどうか
陽岳寺は、インバウンド観光客や、団体や法人に対して、座禅会や写経会などの体験や研修をも行っている。門前仲町駅ちかくの観光寺社仏閣が拝観料という形で経済基盤の支えを得ているように、陽岳寺は檀信徒寺院、禅の信者寺院として活動することで、禅の考え方を未来へつなげる働きをしている。
このウェブサイト、陽岳寺YouTubeチャンネルや公式LINEチャンネルなどのSNS活用。そして、毎月のお寺のお便りによって情報を発信し続けている。それはなぜか?持続可能な形の模索である。形にとらわれないことを仏教は説くが、情報を手に入れるためには、どうしても必要なのだ。情報が手に入れば不必要になる。
仏教も同様である。禅の教えを伝えるのに、建物はいらない。仏教を「たしかにそうだな」と思えれば、不要なのだ。ただ、もちろん、そうはいかない。青空教室では安心して坐禅もできないし、人も集まれないし、腰をすえて供養もできない。
布施は見返りを求めない、それが仏教の精神である。禅の心である。なぜこの精神をお寺や僧侶や仏教や禅体験は薦めるのだろうか?それは当然、生きやすくなるからだ。拝金主義といったその時代、その地域・世間・社会でしか通用できない「生きていく軸」しか持たない人間は弱い。たとえ信念をもって生きていても、その心情を貫きとおしたとしても、最終的にはその時代、その地域・世間・社会にふりまわされてしまうことだってある。であれば、ブレない「生きていく軸」を持つことだ。
建物がなければならない。……わけではない。建物はいつか朽ちてしまう。
しかし、建物は必要だ。集まれない。残せない。
お墓がなければならない。……わけではない。墓石はいつか朽ちてしまう。
しかし、墓石は必要だ。集まれない。残せない。
仏像がなければならない、……わけではない。木像も石像もモニュメントもいつかは朽ちてしまう。その形が正しいのだ、ととらわれてしまう。
しかし、像、アイドル、象徴は必要なのだ。なぜか?分からなくなる。伝えられなくなる。立ち戻れなくなる。
必要だが、不必要で、必要だが……(永遠と続く)。ここを陽岳寺檀信徒に皆様とも分かちあいたい。そして、仏教の精神、禅の心をブレない「生きていく軸」として、仏教を世界の真理として、胸に抱いていただけるように精進を続けたい。
◆生きたお寺、生きた仏、生きた宗教
陽岳寺は、祈祷寺・観光寺・檀家寺と寺院を3つのレイヤーに分けたとしたらば、檀家寺である。有縁無縁の方のための公益法人である。葬儀や法事といった法務、お墓参り、人生相談などなど……以外にも副次的に提供されうる。
インバウンド観光客や、団体や法人に対して、座禅会や写経会などの体験や研修を行ってはいる。絵の御朱印をおかきする。禅体験のイベントを開催する。飛び込み的なイメージで、ウェブサイトや公式ライン、そしてメールにて「お母さんの1周忌をお願いしたいのですが…」とご依頼をいただく。陽岳寺Youtubeチャンネルの動画をご覧いただく。
陽岳寺境内墓地の檀信徒以外の方もご活用いただいている現状がある。
やらないことは簡単だ。
なぜこのように、日本人の精神性を支えるような「見えざるインフラ維持」活動をしているのか。それが禅の心だからだ。
たしかに二重価格、三重価格、とレイヤーごとに分けることは、檀信徒や有縁無縁の方々への納得感の醸出に必要だろう。宗教者として住職の私自身「フリーライド」タダ乗りになってしまうことを忘れてはいないし、お支えいただいている檀信徒や有縁無縁の方々も同様にここを分かっている必要がある。
「儀礼空間として、生きたお寺」「ブレない軸を共に学ぶ、生きた宗教」であり続けるためにどうしたらいいのかを考えている。(住職)