【コラム】自分めがね

投稿日:2021年3月4日 更新日:

陽岳寺は臨済宗、禅宗という宗派のお寺です。仏教のはじまりをつくった人は、お釈迦さま。わたしたちと同じように苦しみ悩む彼は「自分めがね」を外しました。なにごとも自分の思い通りにはならないのに、思い通りに考えるため苦しみ(ドゥッカ)を得てしまう。生まれてより「自分」というめがねをかけていることに気づいたのでした。お釈迦様は2500年前から私たちに「自分」というめがねをはずすことをすすめます。

「自分めがね」をはずしたあとの自分とは、自分で思っているような自分ではなく、他者とのつながりのなかに生きている。私ではない、のでもなく。私はいない、のでもない。このわたしとは、多くの他者、亡くなられた方々も含めて、多くの考えを含んで、亡くなられた方も(意識、記憶、こころのなかに)生きている集合体であるということです。

「自分めがね」にはたくさんの種類があります。昨年より地球上のひとびとほぼ全員がかけた「自分めがね」がありました。「新型コロナウィルス感染症」めがねです。

わたしたちはいま「新型コロナウィルス感染症」というめがねをかけて生活をしています。外出前に鏡でマスクをする自分を見るとき、せきをしている他人を見るとき、このコロナめがねをかけ直しています。コロナめがねをかけているため、ドラマを見るときに「現代が舞台なのだから、コロナもあるだろうし、なぜマスクをしていないのか、密だな」と思ってしまうこともあるでしょうか。コロナめがねの影響といえるでしょう。

「朱に交われば赤くなる」ということわざがあります。いい意味でも悪い意味でも環境や他人に影響を受けるという意味です。もともとまわりが赤い世界にいたならば、透明であることにも気づきませんし、ピンクにも、濃い血色にも気づきにくいでしょう。

右だ左だとあおりたてているメディアに触れ続けることは、気づかないうちに自身を赤くして、メディアめがねがかかっていることとなります。政府批判を小気味よく感じたり、メディアによく出る地方自治体の長の言動に首肯するのもそのめがねのせいです。

視野狭窄をうむ自縄自縛のめがねですから、本来つらいはずなのに取らないのはなぜか。

その方が楽に感じてしまうからです。見たくないものを見ないままにできますし、まわりに生活する人間たちがそのめがねをかけているからです。戦時中の、バブルの、失われた二十年のめがねなど時代ごとのめがねもある。YouTube陰謀動画などのエセ情報めがねもある。人は多くのめがねをしたまま行住座臥、生きていますから、ひとつ増えても気になりません。完全に自分の一部、いや自分そのものになってしまう。

しかし、ほんとうは、どこかで他人に自分にすなおになる場所、めがねを外すタイミングが必要です。

仏教でいうならば、お墓参りか、お仏壇で手を合わせること。亡き人の眠るお墓の前で、目をとじ、手を合わせる。故人をしのぶ。すると自分を離れて見ることができる。今までこれほど多くのめがねをかけていたのか、つらいはずだ、と。

お墓参りによって、ひと本来の、とらわれのない生き方、やわらかなものの見方、仏心(ほとけごころ)を思い出すことができると思うのです。

春秋の年2回のお墓参りの機会とは、あるべくしてあるのでしょう。

 

仏教界にも有名な仏教めがねがありました。「自力」めがねや「他力」めがねです。しかし、この二元対立をも離れるようにもなりました。

臨済宗の盤珪永琢禅師は「我宗は自力にもあづからず、他力にもあづからず、自力他力を超えたが我宗である。」と言われます。

時宗の一遍上人は「自力他力は初門のことなり。自他の位を打ち棄てて唯一念仏になるべし。」と言われます。

自分の力でなんとかしようとする動きの自力と、阿弥陀如来の誓願にお救いいただく他力。

『信心銘』に「慎んで二見に住する勿(なか)れ」とあります。どちらかに依るのはものの入りであり、どちらかしかない!と思うことは避ける必要がある。

このわたしが坐禅をする、お念仏・お題目・御宝号を唱える、お念仏という呼び声を唱えされている。そんな自力他力から、坐禅が坐禅する、念仏が念仏する、といういいまわしの超自力・超他力の先。自力の結果と、他力がきわまった先は不二である、と盤珪禅師、一遍上人は仰っているようにも思います。

自力他力をつきつめると、自分めがねの外れた「ありのまま」の世界が見える。「ありのまま」とは、なにもしなくていい怠惰な「ありのまま」ではないようです。

陽岳寺は臨済宗、禅宗、自力です。さいの角のように独り歩む、という言い回しがあります。独り歩むわたしとは、多くの他者、亡くなられた方々も含めて、多くの考えを含んで、亡くなられた方も生きている集合体であります。

それならば墓前にて多くの亡くなられた方の心をくみ取る、想いを致す必要があるでしょう。そして折を見て、故人を前にして、しっかりと地に足をつけて立つ姿を見せる必要もあるように思うのです。(副住職)

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