【コラム】不要不急

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お暑うございます。コロナ対策でお部屋から出ない。暑さ寒さも彼岸までと申しますが、あと約2ヶ月もあります。暑さと新型コロナウィルス感染症の影響で出かけるに出かけられませんが、熱中症にはお気をつけください。だるいわけではないが、胃がムカムカする、食欲がない。もしかしたら熱中症かもしれません。体温を測ってください。おひとりで動けないなら、どなたかにご連絡を。部屋を涼しくして、服装をゆるめて、扇風機に当たりましょう。冷たいお味噌汁や経口補水液をいただきましょう。生きるために大事なことであり、迷う必要のないことです。そんな日常を、それだけのことを、ただ行うことが大切なのだと禅門では申します。

しかし「いや違うよ」と言われると迷ってしまうものです。禅問答も同じです。

先日、友人のお坊さんから書籍『不要不急 苦境と向き合う仏教の智慧(新潮新書)』をいただきました。宗派をこえて10名の著者があつまり、「不要不急」をテーマに文章が書かれています。著者のひとりでもあるその友人、細川晋輔老師は本のなかでこのように記しています。

「不要不急という言葉が、まるで禅問答のように私に重くのしかかっていたのです。」

禅問答とは、禅の心理の実証へと導くための問題です。善悪、白黒といった二元対立を超えて悟りへ至るための道しるべなのですが、昨年わきでてきた「不要不急」も禅問答のようであると細川師は言うのです。自分が大切だと思ってしていたことが不要不急として取り払われた、わたしの人生の柱とはなんだったのであろうか。

昨年の令和2年度おせがきのお知らせに、こうありました。

「うつらない、うつさないためには、不要不急の外出を防ぐこと。三密(密封空間にいる、密集する、密接する)を避けることだそうです。」

「不要不急」必要でないこと、急を要しないさしあたって用のないこと、と辞書にあります。当時、なにが不要でなにが不急なのか、と自問自答した方も多いはずです。わたしもそうです。不要不急な外出とは?いままで会社に行っていたのは、遊びに行っていたのは。不要不急の行動とは?飲食?寄席などの娯楽?法事や葬儀?

答えは、はっきりと「不要不急は無い」。不要なものなどありません、急がないものもない。そう分かっているのに、「いや不要不急はありますよね」と喧伝されました。不要不急として、お店は閉めさせられました。お酒の提供は制限させられています。閉めさせられているのも、制限させられているのも、実際の理由とは「感染拡大へ多大に寄与する可能性があるから」。本来無いものを「不要不急が有る」としてまで理由を言い換えたのはなぜか。それは(感染拡大へ多大に寄与する可能性がある)人とのふれあいをしないでください、そのようにストレートに言えない意気地のなさでしょう。

不要不急なことなど無いと分かっているけども、有ると建前を言った。しかし、その「有る」に多くの方が悩まされ、振り回されました。

第二十七則「不是心仏」

無いに決まっているのに、有ると言われて悩んでしまう。似たような状況を示している公案があります。

臨済宗においてよく読まれる本のひとつ『無門関』(公案集/問題集/故事集)の第二十七則「不是心仏」にこうあります。

本則(今回のテーマ/問題文):
南泉和尚、因に僧問うて云く、還って人の与に説かざる底の法有りや。泉云く有り。僧云く、如何なるか是れ人の与に説かざる底の法。泉云く、不是心、不是仏、不是物。

【本則意訳】ひとりの僧侶が南泉和尚にきいた、「それにもかかわらず、人々のために説かれていない仏の教えがありますか」。南泉和尚は言う、「有る」。「人々のために説かれていない仏の教えとはなんですか」とその僧はきいた。南泉和尚は言う、「心でもなければ、仏でもなければ、物(衆生)でもない」。

禅の語録『碧巌録』にもこの「不是心仏」の説があり、人物の役割が違います(問う僧が南泉和尚で、こたえるのが百丈涅槃和尚)。

ひとりの僧侶が聞く「それにもかかわらず、人々のために説かれていない仏の教えがありますか」の「それにもかかわらず(還って)」には、2500年前の仏教のはじまりとなった人お釈迦さまが説かれている内容があり、さらに大乗仏教の経典や解説があり、と仏教の大きな運動をふくんでいます。それにもかかわらず、まだあるのだろうかと問う僧侶です。

散々と説き尽くしているとは思うのですが、それでも、まだ、説かれていない特別な仏の教えがあるだろうかと、和尚に聞くのは「無い」という答えを僧侶は期待しているのでしょうか。しかし、誘うかのように南泉和尚は「有る」と言います。

有るというならば、ではそれはなんですか!と僧侶はさらに問うのです。ひきこまれた修行僧に対して、和尚は「心でもなければ、仏でもなければ、衆生でもない」とガツン。

禅の特徴を「不立文字、教外別伝」と示すことがあります。手紙や文章などの文字を立てない、こうだよああだよと教える他に別で伝える、ということです。文字面や、言葉にて情報の伝達や表現はするけれども、それは伝えたいことを伝えるための手段でしかない。「心でもなければ、仏でもなければ、物(衆生)でもない」ものとは、心でもあり、仏でもあり、衆生でもある。南泉和尚は二元対立を用意することで、二元対立をこえた境地を示したのでしょう。

◆日常底:暑さに気を付けてお過ごしください

「不要不急が有る」と喧伝することで、いやいや不要不急なことなど無い。さらに、不要不急の有る無いを超えた境涯へ、日本国民を至らしめんと発破をかけられた昨年の私たち。しかし、人間なかなか迷うものです。それならば、定期的に、今一度、なにが不要でなにが不急なのか?と禅問答「不要不急が有る」にて、すこし立ち止まり、自分自身に問う必要があるかもしれません。

答えはわかっています。不要不急があると言われたら、必要至急が立ちます。特に遊びや余白などの不要不急だと言われるようなものごととは、生きるために大事なことであり、迷う必要のないことです。特にエッセンシャルワークなどの必要至急だと言われるようなものごととは、生きるために大事なことであり、迷う必要のないことです。必要至急と不要不急のあいだも、生きるために大事なことであり、迷う必要のないことなのです。

しかし本来、必要至急も、不要不急もそもそも無い。

なにかをしてもダメだし、なにもしなくてもダメだと言われて、悩むのは当然です。でも本当の答えをわたしたちは分かっているのです。朝起きて、顔を洗い、ごはんを食べ、仕事をし、夜寝るという日常なのですから。

うつらない、うつさないためには、不要不急の外出を防ぐこと。三密(密封空間にいる、密集する、密接する)を避けることが求められる日々です。どうぞ暑さに気を付けてお過ごしください。(副住職)

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