【コラム】よき祖先となるには:平常是道

投稿日:2021年10月7日 更新日:

先日、友人のお坊さん(浄土真宗本願寺派僧侶 松本紹圭師:外部リンクnoteに飛びます)が翻訳した書籍『グッド・アンセスター:わたしたちは「よき祖先」になれるか(あすなろ書房)』を読みました。ポリオワクチン開発に成功した研究チームジョナス・ソークたち。ソークは自らの人生哲学をこのような問いで表したといいます。

「私たちはよき祖先であるだろうか」

 このような人生哲学とは、「わたしにとってこの世に生きる喜びとは」や「快楽とはちがう、人間の幸福とは」を想う、深い問いです。

加えて「自分はどのような時間観をもって生きているのか」があぶりだされる問いです。そして同時に、いまを生きているのは「だれ(時間を旅する主体)」とたずねられているように思います。

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◆どこまでが「今」で、どこまでが「わたし」

「時間観(かん)」とは、時の流れをどのように認識しているかを示します。

ひとつには「時間軸(じく)」と言うと、過去から現在へ、さらに未来へと直線的に時が進んでいくイメージになります。たとえるならキリスト教などの創造神が世界をつくったので始まりがあり、有限である。不可逆で、反復不可能。

「円環的時間観」と言うと、円を描くように時が循環するイメージとなります。たとえるなら、春が来て、夏秋冬、そして春が来る。昼が来て、夜が明けて昼になる。芽が出て、成長し、花開き、結実し、枯れ、種が落ち、次世代が萌芽する。神羅万象のなかに無数の周期サイクルを見出す。

円環を振り子のように考えたり、直線のなかを円環がぐるぐると回ることで前に進んでいくように考えたり、と時間観は様々です。

さて「今」この一瞬一瞬のいのちとは、いつからいつまでの長い期間と思われますでしょうか。

そもそも「わたし」とは、どこからどこまで広く含めるでしょうか。わたし個人、家族、地域、社会、国、地球、宇宙、世界?

ここを考えたならば、生きる喜び、一時的快楽ではない、一番深いところからくる純粋な幸福について、なにかが得られるかもしれない。

仏教は刹那という超短期、劫という超長期の視点をもっています。今回は、とある公案から、いのちの時間と存在の広大さを、人生の歩みになぞらえる「道」をヒントに考えてみたいと思います。

◆平常心是道

臨済宗においてよく読まれる本のひとつ『無門関』(公案集/問題集/故事集)の第十九則「平常是道」にこうあります。

本則(今回のテーマ/問題文):
南泉、因に趙州問う、如何なるか是れ道。泉云く、平常心是れ道。州曰く、還って趣向すべきや否や。泉云く、向わんと擬すれば即ち乖く。州云く、擬せずんば争か是れ道なることを知らん。泉云く、道は知にも属せず、不知にも属せず。知は是れ妄覚、不知は是れ無記。若し真に不疑の道に達せば、猶太虚の廓然として洞豁なるが如し。豈強いて是非すべけんや。州言下に於いて頓悟す。

【本則意訳】
趙州がある時南泉和尚に「道とはなにか」と聞いた。南泉和尚は「平常の心が道だ」と答えた。「それではどのようにそれに向かえばよいか」と尋ねる趙州。南泉和尚は「向かおうと努めれば道から離れる」という。趙州はさらに尋ねる「もし努めなければ、どうして平常の心が道だと知り得るのでしょう」。南泉和尚は「道は知に属さないし、不知にも属さない。知は妄想で、不知は無記。もし本当に不疑の道を体得するならば、それはちょうど太虚が廓然として限りのないようなもの。そのときどうやって道に是非の違いを分けようとするだろうか」。この言葉に趙州は頓悟した。

 

趙州の問う「道」とは、仏道のことです。仏道といっても難しいことではありません。私たち、それぞれの存在ということです。

お茶をする人でしたら見たことがあるかもしれません。『平常心是道』の禅語出典のひとつです。馬祖道一の示衆にも出てくるそうです。

仏の教えの究極、真理とはなんですかと尋ねられ、「平常心是道、それに向かおうとすると道から外れるぞ」と答えた南泉和尚。「では向かおうとしないなら、どうやって平常心是道と知り得るのか」と問われ、「知るとか知らないとかではない。わたしは知っている!というのは妄想であり、知らないとは無記(言う必要がない)だ。そこを疑いなく体得せよ。こっちが正しいとか、間違ってるとか、是非の分別の入る余地はない」

趙州はそれまで散々に工夫を重ねてきました。平常心是道と言われ、還って趣向すべきや否や!だからどうやって分かれというのか!と必死に問うたことでしょう。だからこそ、南泉和尚に・ことばに・問答に、頓悟。すぐに、ただちに不疑の道を体得したのでした。

 

平常心とは、日常のおだやかな何も起こっていない時が大切だ…ということを言いたいのではありません。ありのまま、勉強もなにもしないでぼーっと過ごす日常が続けばよいと言いたいのではありません。

こころを亡くすと書いて忙しい日常においても、活発にこころを働かせる心が平常心で、そのこころで生きている姿が道だというのです。

最終目的地のように「仏」を遠くに置くのでもない。スタートがあってわたしはいま道半ばにいてゴールが遠く向こうにある、という直線的な道だけを想像しないのです。置かれたその場所その場所でほとけ心を発揮していく。

始め有るものは必ず終わり有り、と申します。転じて、終わりがあれば始まりもある。そもそも終わりも始まりもないけれども、便宜上スタートとゴールを設定する。ふりだしがあって上がりがあり、また始まるのです。小学校卒業とともに中学校入学のように。つまり直線ではなく、円のように繋がっているのが道である。

さらに進んで、円の道も便宜上です。もっと進んで「・」点だと。この足元の現在地点を仏でいることが道である、と平常心是道は示します。しかし「・」点とは、足元で立ち止まっている点ではいけないとも示します。

『信心銘』にもあります。「円なること太虚に同じ、欠けること無く余ること無し。(圓同大虚、無欠無餘)」。ほんとうのことは、道とは、どこにも欠けていないし、余っていない、満ち満ちている。からっとしている(太虚の廓然として洞豁なるが如し)。○の円のようにぐるっとまわってスタートに戻る輪郭部分ではない。◯のふちをとりはらった、すなわち「 」です。この「 」が体得できるか。ここに向かおうという時点で背いてしまうのは仕方ない。「 」を示すために、円相がある。しかしフチがないと、◯がないと、さししめすことが難しい。しかししかしフチや◯が見えてしまうので引っ張られてしまい、背いてしまうぞと。是非に執着せず、随所に主となることを南泉和尚は丁寧に説いたのでした。

直線だろうが、円だろうが、振り子だろうが、変わらないのが禅の仏心なのです。

長期視点にも、自分を含む範囲の広さにも振り回されず、かといって忘れず「いま・ここ・わたし」の人生を発揮せよと言うことができます。

◆よき祖先となるには

ひとは幸せを求めます。今の幸せは大事です。しかし、今の幸せだけを追いかけても、ままならなさが繰り返されるのは間違いない。
健康?仕事?会社での肩書?でもいつかは老いる、体力が落ちる。定年になる。居場所は明け渡していかなければならない。かならず、その”今の幸せ”はなくなっていく。
では孫や子の世代まで。次や、次の次の世代の幸せまでを自分のこととして考えれば妥当でしょうか。

財は一代の宝と言います。自身の子どもや孫たちの保護者として家族のために何か残したいと思うものです。不確実な世の中で、経済的な相続は安心感を与えてくれますから。

ただ、私たちの子孫をふくめて人類が22世紀以降も生き残り、幸せに暮らすことを祈り願うのであらば、子や孫よりも未来を想う必要があるかもしれない。私たちの視野を広げることと、未来まで幸せが続くための手段を考える必要がある。

「いま」を過去や未来と分別をもって分けることは大切ですが、それだけではいけないようです。

視野を広げるとは、「いま」が過去と未来と地続きであり、過去もなく未来もない。過去が今であり未来が今であると腹落ちすること︎。それでいて過去は過去と学び、未確定の未来を想い、いまを懸命に生きるしかないのではないか。平常心是道です。

「今」「わたし」とは、どこから、どこまででしょうか。
「いま・ここ・わたし」を調えることを禅宗はよしとします。坐禅などがそうです。

そして、この「いま・ここ・わたし」と、何世代も前の過去をしっかり区別して考える。分別を超えて、故人を偲び、「いま」の私にそのいのちを引き継ぐ。

何世代も先の未来をしっかり区別して考える。分別を超えて、未来を想い、後から来る者のために、「いま」のわたしの行いを考える。

過去も大事、未来も大事、だからいまも大事。・・・なんてことはありません。することは変わりないのです。
ただし、分かっているかどうか。南泉和尚のいうように、知識として、妄想として、分かっているということではない。
たとえばSDGs。「SDGs」という言葉を企画書に入れ込めば企画が通るから入れる、流行に乗れるだろうから入れる、といった知識として妄想としての分かっている・・・ではない。地でいかなければならない。ひとつでなければならない。
祖先とひとつでなければならない。

よき祖先となるには?長く広い視点をもって、いまを生きたいものです。(副住職)

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