伊達治家記録~葛西氏とその家臣団-奥州葛西氏史への側面考(高橋克弥氏より)

投稿日:2000年1月1日 更新日:


伊達治家記録

慶長18年3月10日戊辰。
向井将監殿忠勝へ御書を以って、船の義に就いて、仙台へ大工共を下され満足し玉ふ、殊に御案内衆一人相添らるの由、御念の義別して祝着し玉ふ、将又御在所の紅花二百斤並に菱喰三羽進ぜらるの旨著さる。是は、公、南蛮国へ船を渡さるべき由、内々将監殿と御談合あり。因って其御用意のため船を造らしめらる。
4月丁巳小朔日己丑。
南蛮人楚天呂(ソテロ)より、公、南蛮へ船を渡さる義に就いて、書状進上す。因って御返書遣さる。
内々御床敷存候処、具仰蒙一々披見申し候、船の義に付而、内々御肝煎りの段、承届、誠添次第候、
一、南蛮え遣申候使者の事、此以前申し付け候者、但来月は、早々仙台え罷り下さり可く候間、カヒタンにも承合、今一人も相添え申す可きかと存事候。
一、船につみ候荷物之事、はや手前之分は大形用意到る候、カヒタン手前之外、将監手前に三百こほりの有る可由候、其外、世上よりつみ度と申来分四五百こほりも御座有る可しと申す候間、其元御心安可く候、何様、此中御目に懸かって、様子申承可き候、御念に入り被り切々御心付之段、添存候、恐恐謹言、
卯月一日    政宗御書版
ソテロ
将監は向井将監殿忠勝なり。南蛮に船を渡さる事、最前より、将監殿へ御談合なり。故に将監殿よりも荷物相度さる用意あり。

4月5日
公、駿府へ御出として、江戸御発駕。

4月9日
駿府に着。

4月19日
駿府戸御発駕。

4月21日
晩、江戸御屋形へ御着。

8月13日
南蛮人二人召寄せられ、近日南蛮へ船を渡さるに就いて、様子等を相尋らる。因って向井将監殿へ御書差進せらる。

9月6日
向井将監殿より書状並に黒船御祈祷の御守札、進せらる。黒船は南蛮へ相渡さる船なり。

9月15日
此の日、南蛮国へ度さる黒船、牡鹿郡月浦より発す。支倉六右衛門常長並びに今泉令史・松木忠作・西九助・田中太郎右衛門・内藤半十郎・其外九右衛門・内蔵丞・主殿・吉内・久次・金蔵(以上6人氏知らず)と云者差遣さる。向井将監忠勝殿家人十人ばかり、南蛮人四十ばかり、都合百八十余人、其の外商買人等共に同船に乗る。船中に商買荷物数百個積めリ。此の時、数年、本朝に逗留せし楚天呂も帰国す。

公、向井将監殿と相議せられ去る此より黒船を造らしめらる。…公義御大工與十郎及び水主頭鹿之助・城之助両人を、将監殿より差下され、彼船を造る。…船、横五間半・長十八間・高十四間一尺五寸あり。帆柱十六間三尺、松ノ木なり。又弥帆柱も同木にて造る。九間一尺五寸あり。今度、公、南蛮へ船を渡さる事、其地の様子を検察せしめ、上意を経て攻取り玉ふべき御内存なりと云々。(この治家記録は鎖国以後の四代綱村の時の編纂なので、幕府を考慮した表現になっている)

元和4年8月21日
南蛮人楚天呂より書状進上す、志如呂(宣教師ガルベスで、江戸の大殉教で殉教する)大広間に於いて御目見え、蝋燭15、葡萄酒1進献す。

8月23日
向井将監殿忠勝へ御書を以って、先年南蛮へ遣し玉へる御舟、呂宋へ廻り、且又将監殿より遣されし船頭死去の由なり、因って今度呂宋へ御早飛脚遣せ被の旨、仰進せらる。御書左に載す。
先日者、御状慥相届候、先年南蛮江遣候舟、呂宋江廻申之由、貴殿被遣候上死去之由、扨々無御心元候、然者今度呂宋江早飛脚遣申候、於様子者、可御心安候、急候間、先早々申入候、惶謹言、
松陸奥守 政宗 御書版

8月23日請う
向 将監様

元和6年9月7日
向井将監殿へ、鮭一尺充進せらる。

9月23日
土井大炊助殿へ御書を以って、当秋支倉六右衛門等南蛮より帰朝に就いて、品々仰進せらる、左に載す。
急度令啓候、先年南蛮へ、向井将監申談、舟を遣申候時分、江戸に数年逗留被仕候ソテロと申南蛮人渡被申候、其刻公方様よりも南蛮へ御音信為御具足御屏風十と遣せられ候、其砌拙者内之者遣申候、奥南蛮へ参るに付而、七八年逗留御座候而、漸当秋ルソンよりの舟に帰朝仕候、ソテロ事はキリシタン堅御法度の由、ルソンにて被及□先々延慮之旨候而、彼地に逗留之由申来候、南蛮よりの御返事も御座候由申来候、御前苦しまず候者、来年ルソンより帰朝仕度く候由申し越しせられ候、如何は御座有る可し候哉、御報に依る返事仕度候、其の為態申入れ候、恐惶謹言。
松平陸奥守  政宗御書版
土井大炊助様
☆仙台市宝文堂発行、平重道監修、《伊達治家記録》より。貞山公とは、伊達政宗の法名。

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