伏見義民と本所深川(日本医師学会会員 猪狩明美氏より)

投稿日:2001年1月1日 更新日:

地下鉄東西線門前仲町から清澄庭園方面に道をとりますと、ちょうど中間に陽岳寺があります。陽岳寺は寛永14年(1637)に向井左近衛将監忠勝によって開かれた臨済宗の寺です。
天明伏見義民と本所深川は、実は深い繋がりがあるのです。
徳川時代の伏見(現京都市伏見区)は、京・大阪を結ぶ交通の要衝であり、経済的にも豊かな商業都市でした。小堀家は二代目に茶人として有名な遠州がおり、27年間も伏見奉行を務め大名に列せられました。

六代目政方(まさみち)は明和7年(1770)若くして伏見奉行に任ぜられ、最初のうちは善政を行いました。しかし、しだいに側近の誘惑にのって悪政を行うようになりました。思い余って、天明元年5月28日、侍医水島幸庵が諌言したものの、聴き入れられず幸庵は自刃して果てました。
天明5年(1785)伏見奉行小堀政方の悪政に耐えかねた京都伏見の町人七人衆の代表3名[文殊(もんじゅ)九助・丸屋九兵衛・麹屋(こうじや)伝兵衛]が幕府に直訴するために江戸に上りました。奉行の追手を逃れ、陽岳寺に逃げ込んだ三人は住職照道和尚に助けられます。が、高齢の伝兵衛は重病に陥り、病死。9月26日九助・九兵衛の二名で寺社奉行の松平伯耆守の奉行駕籠に向かって決死の直訴をしました。ついに小堀政方は罷免せられ、領地没収となり、伏見町人の一応の目的は達せられました。が、伏見では関係した者二百余名が厳罰に処され、4人が牢死。直訴した九助・九兵衛も再吟味のため江戸送りとなり、取調べ中に牢死しました。その二人の遺体を引き取り、伝兵衛の遺体と一緒に懇ろに葬ったのも、陽岳寺の照道和尚でした。三人の墓は今も「伏見義民の墓」として陽岳寺内の本堂の前にあり、常にお参りがあります。

ところで、医学史的に述べると、小堀政方の別の面が見えます。天明3年(1782)6月25日に伏水刑場で奉行の侍医の橘南谿と京都の医師の小石元俊らが平次郎を解剖しました。平次郎は銭五百文を盗んだため打首刑ににされて、その遺体を侍医に下げ渡したのは政方でした。政方は実証的医学の理解者ではあったのです。このとき画家の吉村蘭洲らが写生した解剖図鑑が『平次郎臓腑』であり、六十二図からなり、各臓器の形状・色沢・重さなどを注記し、また病理学的所見も記載されている我国の解剖学史上極めて重要な史料です。しかし、当時の伏見町人の住民感情からすると、解剖は不快に映りました。伏見騒動を綴った「雨中のカン子」でも、この解剖を政方の罪状の一つに掲げています。

伏見義民の勇気ある行動も幕府にとっては公にはしたくない事件でした。時代は移って、明治20年、百年祭を機に京都伏見御香宮神社(近鉄桃山御陵前駅より徒歩5分。貞観4年(862)9月境内に清泉が湧き出し、この水が香しく病にきくことから、御香宮と称す)境内に義民の記念碑が建設されました。以来毎年5月18日に義民祭があります。このとき伏見義民顕彰碑の碑文を書いたのは勝海舟でした。勝海舟は本所で生まれ育ちました。(生誕の地:墨田区両国4-25-24両国公園)(揺籠の地:墨田区緑4-21-2)。
江戸っ子の照道和尚や勝海舟にとって、義のために死をも厭わぬ伏見義民の潔さは、大いに共感できたのでしょう。

本記事は平成11年7月1日発行のJMC全医協連ニュースN0.73よりの転載です。

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