【コラム】仏心(ほとけごころ)を出す:主人公

投稿日:2020年2月1日 更新日:

【コラム】仏心を出す:主人公

「あれから何年」という振り返りは、まさにその時自分は何をしていたのか…と思い出すこととなります。

阪神淡路大震災から25年。

当時小学生だった私にとって強烈に印象に残っているものとは、住職が使い捨てカメラで撮影してきた写真です。1995年1月17日の明け方5時46分、その時間で止まった時計。がれきに埋もれた町。当時の私にとって、同じ日本で起きていながらも、遠い場所での出来事だったのです。みなさんはいかがでしょうか。仕事、親戚やご家族、関係していましたでしょうか。ボランティア元年とも言われます。檀信徒の皆様のなかには、直接お手伝いに行かれた方や、支援物資をお送りになられる方もいらっしゃいますでしょうか。

三ノ宮駅前の市庁舎ちかくに、いまでも追悼の灯がともされています。

 

数年前、仕事で神戸に行きました。本番の前日3月11日に現地入り。三ノ宮駅地下街で昼食を済ませて、どうしようかと考え…追悼の灯前で東日本大震災の慰霊のため黙とうでもしようかと考えました。

同じことを考える人はいるものです。どうやら南三陸にも追悼の灯があり、午後2時46分、中継を繋いで、一緒に黙とうをしようと人々が集まっていたのです。

なかなか中継がうまくいかず、その場にいる人たちは自然と「あれから何年」と振り返っていました。阪神淡路大震災のときにボランティアに助けられたこと、地震があると今でも当時を思い出すこと、東日本大震災のときには自分たちの番だ!と手ずから助けに行ったときのこと、二度の新潟県中越地震のこと、等々。

◆支援物資に貼ってあった《サイズ表記》

とある男性の話す内容が、私の胸に残りました。

「震災はインフラが止まります。電気、ガス、水道。洗濯もできません。わたしは阪神淡路大震災で被災したが、支援物資のなかに新品の洋服があった。これがとても嬉しかった。そこで東日本大震災のときには、私も支援物資とともに洋服を送ろうと考えた。

なにが嬉しかったか。洋服そのものも嬉しかったが、なにより送ってくれた方の気持ちが嬉しかった。避難所生活で身も心も疲れているなか、新品の洋服が配給されたといえども、自分にあうサイズなのか?などと調べるのもおっくうだった。しかし、とあるカバンに紙が貼ってあり大変助かった。《170cm、80kg、男性用》という目印があった。すぐにサイズが私にぴったりだと思った。

後になって気が付いたのです。送ってくれた人は、わずらわしくないようにしてくれたのだと。気に掛けてくれていると。そう思えたとき、心がこう、じんわりと、したものでした。それで、東日本大震災のときに、同じことを自分もしたのです。いまでは、こうして毎年、黙とうの会に参加しています。」

 

支援物資なのでとにかく必要なものをたくさん詰め込もうと思うところですが、その発送者は違ったようです。使いたい人がすぐ使えるように、受け取った人が洋服を求める人へ届けやすいように。この品物が届いた先でどのようなことが起こるのか、想像をなさったのでしょう。

◆「思い」は見えないけれど

東日本大震災のあと、テレビでは企業が自粛した結果、AC広告機構のCMばかりが放送されていました。その一つに、詩人の宮澤章二さん作で、ごま書房新社が出版している『行為の意味―青春前期のきみたちに』という本の中から省略、変更された詩が使われていました。

「こころ」はだれにも見えないけれど
「こころづかい」は見える
「思い」は見えないけれど
「思いやり」はだれにでも見える

たしかに「こころ」「思い」は見えません。精神的な動き・働きとは目に見えるものではないからです。

その「こころ」「思い」とは、「こころづかい」「思いやり」として表にあらわれることがある。さらにその「こころづかい」「思いやり」に接して、人は「こころ」「思い」をすくい取ることができるのだ。男性の独白に、この詩を思い出したのでした。

 

〈慰霊と復興のモニュメント:希望の灯〉前で、多くの人々が集まり一緒に黙とうをしました。

日常のなかで、とんでもないことが起こります。とくに凄惨なことです。震災、紛争、事件事故、伝染病、そしてわたしにとって近しいあの人が亡くなる。

しかし、時が経つと忘れられてしまう。忘れるとは良い面もありますが、人は懐かしく思い出す時を持たなければならないのではないか。ほんのすこし蓋をあけて、ガスを抜くように。あれは自分にとってなんだったのか、あれはあの人にとってどうだったのか。

ただでさえ忙しい毎日です。あふれる思いを持てあまさずに、少しずつ汲み取る機会を持たなければ、「こころ」「思い」を遣うこと、やることができなくなってしまうのでは、と思うのです。心が乾いてしまう。

◆主人公!ハイ!という手段・目的の一如

臨済宗においてよく読まれる本のひとつ『無門関』(公案集/問題集/故事集)の第一二則「岩喚主人」にこうあります。

本則(今回のテーマ/問題文):
瑞岩和尚、毎日自ら主人公と喚び、また自ら応諾す。すなわち云わく、惺々著。諾。他時異日、人の瞞を受くることなかれ。諾、諾。

【本則意訳】瑞岩和尚は毎日自分で自分に対して「主人公!」と呼びかけては、自分で自分にハイ!と返事をしていた。目が覚めているか?ハイ!いつ何時も他人から誹りを受けるなよ?ハイ!

 

瑞岩和尚の一生とは、毎日主人公への参禅でした。悟る前も、悟った後も、主人公ただひとつ。ここでいう主人公とは、主観・客観、善悪、自分・他人といった二元対立のない、無我のこと。あとから覚えた知識、信仰、思想、哲学といった分別以前の無心を指します。

ここを仏性:仏の性質といい、わたしたちはみな仏心のなかにある。ひとはみな仏である、と臨済宗では申します。

瑞岩和尚は毎日自分で自分に対して「主人公!」と呼びかけては、自分で自分に答えていた。無心、無我をよびさます声掛けを欠かしませんでした。

悟ったからといって止めることもなく、呼びかけては応じる形だけをしていればいいと怠けることをしなかった。

主人公!ハイ!の呼びかけとは無心・無我を感応する手段でもあり、仏行の具体化された姿そのものでもありました。

◆仏心(ほとけごころ)を出していく

支援物資から「こころ」「思い」を受け取ることは出来るけれど、サイズ表記の一手間が、より身近に「こころ」「思い」を想起させた。ではこの「こころ」「思い」とはどこからやってくるのか。

主人公ではないか。仏心ではないか。

毎日、主人公!ハイ!と叫んでは応える瑞岩和尚のように。

毎年、神戸三ノ宮の追悼の灯前での黙とうの集まりに参加する人々のように。

仏心(ほとけごころ)を表に出さなければ、「こころ」「思い」を汲み取ることに気づけなくなり、「こころづかい」「思いやり」も見えなくなってしまう、見せることもできなくなってしまう。

黙とうとは目を閉じるだけでできますが、段々とおざなりになるかもしれない。そこで、日時を決めて集まり一緒に黙とうする。仏前で手を合わせる。お墓参りをする。お塔婆を建てる。ご法事をする。食事会をする。

目に見える形で行動をする、物を残すとは、「こころ」「思い」を拾い上げる上でとても大切なことなのでしょう。(副住職)


〇正門から清澄通り側の万年塀の工事が完了しました。隣接寺院の壁面との連接部分が割れていたことから建て替えと相成りました。設備等に限らず、お気づきのことがありましたら遠慮なくお教えください。

●毎月第2・4金曜日19~20時、ゆったり寺ヨガ。会費1500円、レンタルマット300円。[2月14・28日。3月13・27日]

●お寺ゲーム部:2月16日(日)12時半~17時半(途中入退室OK・申込不要・参加費自由:仏様にご挨拶ください)□17時~なむなむタイム(般若心経をお読みします)
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