【コラム】厄落とし厄払い

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3月1日(日曜日)、東京マラソン2026が開催されます。マラソンコースがお寺の前を通ります。当日は、交通規制があります。

【コラム】厄落とし厄払い

陽岳寺では厄払いや厄落としの祈祷法要を受け付けています。お近くの方が依頼をなさる、インターネットをご覧になってお電話をされる方がいらっしゃいます。
「厄年」とは、性別や地方によって異なるようです。人が一生をすごす中で体力的、家庭環境的、または社会的に、さまざまな転機を迎える時期「厄年」。体調不良を迎え、災難が起こりやすい時期であろうとして忌み慎まれています。
そんな厄年に当たっては、神仏の御加護により、災厄から身を護る、除けるために、日本の神社仏閣に参詣をするのです。

◆神仏を前にして祈る

いのりとは「神や仏との内面的な交わり、懺悔(さんげ)、感謝、救済や願望の達成をお願いすること」であり、内容として「感謝」「懺悔」「請願」の3つがあります。
この3つすべてを心の底から行うことは難しい。それはなぜか。人間は弱いからです。ままならなさに振り回され、思った通りにいかないことこそ思った通りである。そのように腹の底からよくよくうなずく必要がある。それが神仏への祈りの基礎であり、厄災が役割へとかわる合図となる。
人間は弱いからこそ、「感謝」「懺悔」「請願」が祈りとして神仏にささげられ、「ありがとう」「ごめんなさい」「どうぞよろしくお願いいたします」という言葉となって、神仏という鏡からこの我が身にはねかえってくる。であるからして、厄払い厄落としの法要とは、「感謝」「懺悔」「請願」の三位一体のもとに行われます。

◆「感謝」「懺悔」「請願」

お願いをしたのだから、と、あとはよろしく、と言われても神仏は受け付けません。
「厄」には「苦しみ、災い、生涯に一度は体験するもの」という意味があります。
長い人生には要所要所で節目があり、肉体的、社会的にも様々な変化による区切りがある。生まれ、年を重ね、病み、亡くなっていく。生老病死の節目にあたり、あらかじめ心の準備をおこたらないように、と古人は「厄年」という習わしを考えたのでしょう。現実的に身体を動かし続けては、この身をいたわること。健やかな空気のもと、こころのしなやかさに水を与え続ける必要がある。請願、こいねがうとは、行い続けることだ。願い続けること、誓い続けることです。
厄をはらうには、おとすには、よけるには、この現世において、ありがとうございます、めったにないご縁であったことを認める必要があります。感謝。なにもした覚えがないのに、おかげさまでと感謝されることもあれば、いろいろ手を尽くしてあげたのに、なにも御礼も言われないことがある。
ごめんなさい、と謝る必要もある。つぎつぎと襲いかかってくる不幸や災難に対処してゆかなければならない。ほかのことなど考える余裕がない。いたらなさ。どうしようもなさを私たちは抱えている。ここを明らかにする必要があるのです。それが、ありがとう、ごめんなさいの2つの言葉だ。

◆3つの不思議に感謝をする

それでは厄年の方も、厄年ではない方も、この護寺会便り上で、「感謝の行」をします。円覚寺管長横田南嶺猊下が日曜説教にて毎回行なっている内容です。

厄災を役割に替えるのです。この文章を音読しつつ、実際にやってみましょう。

両方の手を、胸の前でぴたりと手を合わせて頂いて、背筋を伸ばし、あごをひき、肩を楽にして、すこしうつむきます。ゆったりとした、細長い呼吸をします。吸って、はいて。すって、はいて。

そうして、まず、この自分が生まれたことの不思議に手を合わせて感謝をいたします。父と母がいなければこのわたしは生まれませんでした。父の父母、母の父母、ご先祖さまがたがいなければ、この私は生まれません。新たないのちが生まれるという、自然の摂理がなければ、生まれてくることはなかったのです。……両親からこの命を頂いた、この不思議に想いをめぐらせ、ありがとうと感謝をいたします。地面をふんでいる両方の足の裏。両手をそえている、胸のあたたかさ、心臓の鼓動、呼吸の出入りを感じます。生きている不思議を感じます。

そして、今日まで生きてこられたことの不思議に感謝をいたします。赤ん坊としてこの世に生まれおちた時には私たちは何一つできませんでしたが、親をはじめとしたいろいろな人々のお世話になってきました。この社会やまわりの人たちがいなければ生まれ、人の道を歩むことはできなかった。そのおかげさまで、今日まで生きてこられた。……この今日まで生きてこられたことの不思議に、思いをめぐらせありがとう、と感謝をいたします。一瞬一瞬の奇跡の連続のなかに私の歩みがあるのだと、右の手のひらと、左の手のひらのそれぞれのあたたかみを感じます。

最後に、今日いまこうして、周りの方々とめぐり合うことができた、このご縁の不思議に感謝をいたします。父母の恩・衆生の恩・国王の恩・三宝の恩。様々な恵みが与えられている、この私。様々な依存先を持っているからこそ、私が私として存在している。受け止めたくないこともある。はらいたいこともある。落としたいこともある。その、おかげさまをもちまして、私がいるのです。……この事実の上で、私の人としての人生の道は続いていくのだと感謝をいたします。どうぞこれからも、私のからだ、わたしのこころよ、保っていってくださいね。無茶をすることもあるけど、ごめんなさい。いたらないところもあるけれど、よろしくおねがいします。ありがとう、ありがとう。

ゆっくり手を戻します。おなおりください。ありがとうございました。皆様のお役に立ちますように。(住職)

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