モンセ・ワトキンスをご存じでしたか?(井戸光子氏より寄稿)

投稿日:2003年12月24日 更新日:

日本文化を深く愛したスペイン人女性で、21世紀を目前にした2000年11月25日、横浜市の病院で癌で亡くなりました。45歳でした。

モンセはスペイン人を母に、英国人を父に、1955年にバルセロナで生まれました。小津安二郎の映画に魅せられて1985年に来日、スペイン通信社の記者として働きました。そして当時、大挙して来日していたラテンアメリカからの日系人問題に熱心に取り組み、そのレポートを『ひかげの日系人』(彩流社、1994年)にまとめました。
その後乳癌を患い、手術を受けた後、同通信社を辞して鎌倉にルナ・ブックスを設立、宮沢賢治や島崎藤村、太宰治など、日本文学の世訳に心を傾けました。これまでに14冊を出版しています。5年あまりの間に14冊の翻訳ですから、その仕事ぶりがどんなものであったか想像していただけると思います。翻訳ばかりではありません、日系人問題も追いつづけ、最後の仕事となったのが、日本に根を張りつつある日系人社会の現状をとりあげた『夢の行方』2000年、現代企画室)でした。

モンセは170センチはあろうかという立派な体躯で、くるくるとよく動く目を持っていました。鎌倉市内の純日本風家屋に住み、鎌倉彫りを習い、易経の勉強をしているかと思うと、ぬかづけを作り、日本酒の晩酌を楽しんでいました。禅の修行に行っても、夜中にこっそり抜け出して、墓地の一番奥まったところにある墓石に腰をおろして酒を飲んでしまう、そんな女性でした。
結婚も離婚も、仕事の仕方も生活様式も、すべて自分の意志で選び取る、そして一度決めたことは誰がなんと言おうと実行する、ある意味では大変な頑固者でした。乳癌の手術後もほとんど定期検診は受けず、いつ、どこに転移しても、それが自分の人生、それが寿命と、割り切っていました。
だからこそ、ひたすら走りつづけたのだと、今になって思います。しかし人の痛みを、身に滲みて感じとれる暖かい心の持ち主でもありました。日本社会で弱者の立場におかれた日系人をおいつづけたのも、モンセならではのやさしさの証左です。

日本とスペイン語圏の相互理解のために、その命を燃焼させたカタルーニャ人女性、モンセ・ワトキンス。そういう女性がいたということを、Amics読者の皆様に知っていただきたく思い、この一文を書きました。モンセの本も、是非読んでみてください。
読後感を彼女に伝えられないのは大変残念ですが、angelitoになったモンセはきっと天国で喜ぶことでしょう。(日本・カタールニャ友好親善教会 会報AMICS 2000年冬号)

~ルナ・ブックスの出版物およびモンセの著書については下記をご覧下さい。~
http://www.jca.apc.org/gendai/(現代企画室ホームページ)

陽岳寺には、小津本家の墓があり、安二郎のお父さんお母さんお兄さん達が眠っています。昭和初期の小津家を知る人は少なくなっているものの、小津家が、安二郎という人を世の中に出したことは事実です。この深川に生まれたことによって、彼の映画の多くの部分を占めることも事実です。そんな彼の映画を見て、日本に来る人いました。彼がいなければ、ワトキンスも日本に来ていないかも知れないことを考えて、敢えて、著者に了承を得た時、「モンセは小津の映画が大好きでした」喜んでくれました。

-監督小津安二郎, 陽岳寺コンテンツ

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