【コラム】自身の王として

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地球上のさまざまな場所で、内戦や紛争の続く地域があります。震災があります。新型コロナウィルスをはじめ、感染症によって苦しむ私たちです。陽岳寺檀信徒の皆さま、世界中の人々のご自愛祈念申し上げます。平穏無事の安心をもって生活できますように。そして、三界十方の有縁無縁の諸霊みな同じく仏心を発揮せんことを。

◆勝つもの怨みを招かん

紛争解決と犠牲者のために祈ります。私たちもテレビや新聞などを通して、心に波風が立っています。家をなくした人々、あって当たり前の未来を見出せなくなった子どもたち。あの人は、あの子は私なんだ、と不安にかられます。課題解決のためであろうとなんであろうと戦争とはいけないことなのです。

国同士の戦いに関連したさまざまなエピソードが、仏教にも多くあります。

パセーナディ王とアジャータサットゥ王との戦い。パセーナディ王は善き朋友と仲間を持っていましたが、あしき朋友と仲間をもつアジャータサットゥ王に破れてしまいました。

敗戦したパセーナディ王は苦しい夜を過ごすでしょう、と弟子たちから市井の様子とともにこの事実を伝えられたお釈迦さまは言います。

勝つもの 怨みを招かん
ひとに敗れたるもの くるしみて臥す
されど 勝敗の二つを棄てて
こころ寂静なる人は
起居ともに さいわいなり(法句経二〇一)

 心が悩まされているとなかなか寝付けないことがあります。どうしても人という生き物は、ああしたら?こうしなかったらば?と二つに分けて考えてしまう。その至らなさ、そして勝ち負けへの執着心を超えるようにしなさいと勧めるのでした。

◆掠め掠めらる(かすめかすめらる)

そののち、パセーナディ王とアジャータサットゥ王は再び戦います。しかし今度はパセーナディ王が勝ち、アジャータサットゥ王を捕まえました。パセーナディ王は言います。

「アジャータサットゥ王は叛逆無道にして、ほしいままに悪意をおこし、わが国に攻めいった。もともとうらみなくして自分からうらみを生じ、もともと争いなくして自分から争いを起こした。〜。しかし彼のことは、軍を奪ってから解放しよう」。このことを弟子たちから聞いたお釈迦さまは言います。(『仏教聖典〜阿闍世篇 第212節 掠め掠めらる』、友松円諦 訳を意訳します。)

 自分の想いに気づいている気づいてないに関わらず、わたしたちは自分に利益があると考えて、他人(のもの)を掠めとろうとする。
掠めとろうとするとき、私たちはその他人や利益があるという思考に自分の行動原理や人生を縛られてしまう。本当の自分を見失ってしまっている。
愚かな状態でいる人は、その(悪い)結果が出るまでは、これは道理なのだ、自分の考えは正しいのだ、と思ってしまっている。しかし、その悪いことを成したとき、どうしても苦しみを得る。満たされない、こんなはずではない、もっと欲しい、自分は正しいのに、と。
まわりのひとや自分自身を傷つけることは、この自分を傷つける性質をもっと呼び寄せることにつながる。
まわりのひとや過去の自分と比較して優れていることのみを良いことだと決めることは、比較して優劣をつける性質をもっと呼び寄せることにつながる。
まわりのひとや自分を非難したり、見ないふりをしたり、見下すことは、非難・無視・見下す行為を良いことだと認めてしまい、そのような性質をもっと呼び寄せることにつながる。
まわりのひとや自分を怒り・むさぼり・愚かさから悩ませることは、怒り・むさぼり・愚かさで本当の自分を覆うことにつながる。こうして悪い刺激への反応・言動・行動によって悪い循環が生まれていってしまう。
仏の教えを聞く者を攻撃してはいけない。しかし仏の教えを聞く者は攻撃されても怒り・むさぼり・愚かさにふりまわされてはいけない。攻撃をするものには悪い結果が生まれてしまうだろう。しかし、攻撃をされた仏の教えを聞く者のなかで怒り・むさぼり・愚かさにふりまわされたものには、さらに、悪い結果が生まれてしまうだろう。
耐えることはうらむことより優れている。善は不善より優れている。優れている者たちは、苦しみの原因を理解し、悪い循環を断つ方法をまわりと共有する。真実を言う者は、真実を軽視する者より優れている。(拙意訳)

 ひとは自己に利あるあいだ ひとを掠めとるなり ひとの掠めとるときに 彼はひとに掠められて ひとを掠めとるなり 愚人は悪の(結)果を実らざるあいだは ことわりと思えども 悪の実るとき はじめて苦悩をうくるなり
ひとを殺せば おのれを殺す者をまねき ひとに勝てば おのれに勝つ者を招くなり ひとをそしる者は おのれをそしるものを招き ひとを悩ます者は おのれを悩ますものを招くなり かくして業の輪はめぐりて かれはひとを掠めて ひとに掠めらるるなり
婆羅門を うつなかれ されど婆羅門は これに怒りをもつなかれ 婆羅門をうつものにわざわいあれ されど うたれて怒るものに さらに わざわいはあれ
忍辱はうらみにまさり 善は不善にまさるなり まさる者はよくほどこす 真誠をいう人はあざむく者にまさるなり(日本語訳原文『仏教聖典』友松円諦 訳)

◆諸悪莫作

パセーナディ王は、これよりも前に、王とは、法によって治めるとは、など学んでいます。

アジャータサットゥ王は、これより前に、あしき法を説く者と親しんでいました。

欠点や過失を指摘されても聞く耳を持てるときは少ない。他人が、自分が「聞く耳をもたない」状態にあるとき、どうすればいいでしょうか。

そもそも、わるいことをしないように努めること。それでもしてしまうのが私たちであると知り、定期的に、懺悔の機会を用意すること。

恨みはどこからやってくるか知ること。恨みは、分けることから始まる。自分と、自分のものではない!と分けること。

某国は分かれており、それより前からそれぞれ独立の道をたどっていました。いや我が物だ!と自分と自分のものではない2つに分けることは、自分以外のあり方を認めないことです。

自分以外のあり方を認めるとは、とても難しいことです。異宗教を信じる人、異国の習慣を色濃く生活に見せる人、異なる性自認や性のあり方を持つ人がこの街にいる。実はすでに自分がそうです。家庭内でも、まったく同じ、ということはないのですから。

◆衆善奉行

人は、それぞれ、自分自身の王です。この身体、精神という国を法によって治めています。自分の人生という道を、整備しています。その道が、ほかの道と交わることもある。悪いことはせず、良いことをせよとお釈迦さまは言います。それが平和の、幸せの道だからです。

そもそも、良いことをしようと努めること。墓や仏壇などを清め、花を供え。水を換え、香をたむけ、手を合わせる。近しい人から順番によく挨拶し、よく報告し、よく願い、よく祈ること。その言葉を、胸を開いて、自分自身が聞くこと。

3月には春のお彼岸です。無心が平和を導きます。お参りください。(副住職)

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