【えんぴつ写経】法句経その3

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《住職の一言》

おせがきは、東京江東区・墨田区・葛飾区の臨済宗寺院のご住職をお呼びしての法要です。檀信徒の皆さまもご予定を合わせてご参加いただき、誠に感謝申し上げます。人数変更や急なご参加、遠慮無くご連絡ください。

銀行振込いただいた方で、本堂に参列される方はご参加の旨お知らせください。

【えんぴつ写経】法句経その3

『陽岳寺 護寺会便り』となり、今号でちょうど300号となりました。こうして続けてこられましたのも、読んでくださる皆さまのおかげです。ありがとうございます。

じつは300号分すべてが僧侶による文章かと言えばそうではありません。護寺会便りでは、寄稿を募集しております。何号かは陽岳寺檀信徒のお力によるものです。

始めること、終えること、どちらも難しいものです。もっと難しいことは続けることです。さらに難しいことは、「続いていく」という状態まで軌道に乗せることでしょう。

◆法句経その3

仏教のはじまりとなった人、お釈迦さま。その言葉に近いと言われる法句経のひとつをご紹介します。友松円諦氏による訳、法句経182です。

意訳「人が生まれるということは大変なことだ。いつか死ぬものの生きていくということは滅多にないことだ。正しい法を聞くことは大変だし、みほとけがこの世に出現することも滅多にないことだ。」

◆大変なこと

もちろん、死ぬことも大変なことです。生まれるも、老いるも、亡くなるも滅多にないことだ、奇跡といってよい、大変なことなのだ、と事実を述べています。

ここには色がありません。たとえば誕生に対して「君は望まれて生まれてきた」と色を付けない。ただ事実として、滅多にないことだとしている。

たとえば聖書では「光あれ。~。そのようになった。」とあるように、世界の存在を認める絶対者がいる。一神教ではヒトが生まれた意味や、生きる希望を指定してくる。あなたは神の前にいるという生きる意味を指定されて、助かる人もいれば、嫌がる人もいる。

仏教における世の真理の範囲は「滅多にないことだ」までであって、そこからはヒトの行為の領域です。「(滅多にないのだから)精一杯生きよう/自分だけが得をしよう」はヒトの行為。そんな行為によって人となりは作られる。

「生まれ落ちることも大変で、生まれたあと生き続けることも大変だ」は世の中の構造を説明しているのみ。色をつけるなとも言いません。ただ「滅多にない、という基本」は間違えないように、と申します。

◆生きる意味とは生きることそのもの

滅多にないという基本。たとえば「縁起(つながりの中に自分は存在する)といった世の中の仕組み」は絶対普遍の真理であり間違えないように、と。そういった正しい法を聞くことも滅多になく、体現するみほとけとこの世で出会うことも滅多にないと言う。

毒親だとかブラック企業だとか、そんな繋がりが嫌だというなら離れればいい。ただ、わたしとは繋がりの中に存在する、という真理自体は否定しない。

私の生きる意味とはなんだろうか?と考えることは大切です。自分らしさに繋がります。ただ、これが私らしさだと固定してしまっては外れたときに苦しんでしまう。私らしさとはつながりの中で見つかるからであり、変化していくのですから。であるならば、私らしさが云々の前の、色をつける前のものの見方を分かっていることだと法句経は教えてくれています。

それを悟りと言う、気付きと言う。

それを否定しないように良い習慣を保つ実践を戒めという。良い習慣が「続いていく」という状態まで乗せることは難しい。

そんな大前提があると気づくことは滅多になく、こうして考える生物“人”に生まれることも滅多にありません。

◆餓鬼(がき)

それを否定する生き方が悪趣、悪道と言われます。ひとつが「餓鬼(がき)」。

嫉妬深い、物を惜しむ人。欲しい欲しい!とそんな志向性の強い人がころっと堕ちる世界……飽くなき姿と表現される。この志向性・こころのベクトルをまず認めて。避けるべし、と自覚したいものです。

5月第3土曜日「おせがき」は、私たちの中の餓鬼も供養せんとする法要です。(住職)

1637年陽岳寺は創建されました。滅多にないことです。2037年には400年であり、あと13年です。「続いていく」ことはなんと難しいのでしょう。多くの方々とのご縁をいただいており、大変有り難いと存じます。法句経、えんぴつでなぞり書きをしてみてください。

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