【えんぴつ写経】禅語その1

投稿日:2022年7月10日 更新日:

円覚寺の横田南嶺老師も鉛筆でお写経することをおすすめしています。(→ 【一口法話:第五十二回】お経の力 – 鉛筆写経のすすめ –

写経と聞きますと、筆ペンや毛筆をイメージされる方が多いかもしれません。しかし、鉛筆、万年筆、ボールペンなどで写経をしても大丈夫なのです。ガラスペンでの写経会を開催していらっしゃるお寺もあります。使い慣れたえんぴつで、こころ静かに削ってからのち、書写する。5Bくらいの濃い柔らかい鉛筆で、写経用のノートや、手帳などに書いてみてください。

えんぴつで書く写経をおすすめしております。前回は、仏教のはじまりとなった人、お釈迦さま。その言葉に近いと言われる法句経のひとつをご紹介しました。今回は禅語です。漢詩で自身の悟りの境涯を示しつつ、「無心」の発生条件を教えてくれています。

相手と自身へ敬意を払い、自然や動物や道具と対等な関係で、ひとつになっているときってあるよなぁと思っていただければ幸いです。

◆えんぴつ写経:禅語その1

空手にして鋤頭をとり、歩行して水牛に騎る。人橋上より過ぎれば、橋は流れて水は流れず(善慧大士語録)

書き下し文を用意しました。漢文ですと、「空手把鋤頭 歩行騎水牛、人従橋上過 橋流水不流」となります。

意訳「なにも手に持たずに鋤をとり(畑を耕し)、歩いていながら水牛に乗って揺られている。わたしが橋の上を渡っていると、橋は流れて水は流れていない」

禅語として聞かれるこの漢詩を残したのは5〜6世紀の中国にいた、善慧大士(ぜんね だいし)または傅(ふ)大士と言われる在家の方です。

在家とは出家者ではない修行者という意味です。善慧大士は農仕事をして生活しながら、その名のとおり善知識:人々を仏教に導く僧侶・友人ほどに修行をする方だったそうです。

在家の方だからこそ、実生活の出来事から自身の境涯を示す特異な例が今回の言葉です。

橋を歩いて向こう側に渡る。スコップのような農具である鋤を使い、懸命に畑を耕している。自宅と畑との行き帰りは水牛に騎乗しているのでしょう。ゆったりと揺られて帰宅する善慧大士の姿が目に浮かびます。

通常であればこうですが、この漢詩はおかしい。当たり前な日常を不思議な言い方をしています。ここに妙があるようです。

この漢詩は、無為自然とこのわたしがひとつになる。無心におこなう感覚を、日常の動作をとおして表現しています。

◆空手把鋤頭:鋤になり、畑になる

農具を使ってひたすらに耕しているとき、農具と一体になったかのような感覚を得る。鋤を持ちこうやって身体を動かしてこうやって土に挿す、を頭で考えて…と作為に作為を重ねて農作業に勤しみます。一心に農作業をするなかで、土を起こす知識・技術や作物を多量に生産したい欲望:人為がどこかへ消えさり、作為のない状態:無為自然と一体になる。天地いっぱいの仏心との同体という境涯を示しています。

ほうきを持ったら掃除三昧。フライパンをふるえば料理三昧。えんぴつを持てば勉強三昧。もちろんなんでも三昧として認められるわけではありません。道具など相手へ敬意を払い、使ってやってる…ではない対等な関係が前提です。めちゃくちゃに振るえば農具は壊れ、土地も荒れる。耕す行為が、耕作民としての私と、畑を生む。これが縁起という対等の関係です。

道具など相手への敬意、縁起:対等な関係あってこそ無心は生まれる。しかしさらに同時に、この漢詩が表現したいことは、自分への敬意もなければならない、ということでしょう。このことを「畑を耕す」説話が教えてくれています。

仏教のはじまりとなった人、お釈迦さま。彼が畑を耕す農夫に尋ねられます。

「わたしは耕して種を播いてから食事をする。あなたも耕して播いてからご飯をいただくと言うが、あなたが耕作しているのを見たことがない。わかるように話してください」

そこでお釈迦さまは言いました。

「信仰は種子である。苦行は雨である。智慧はわが軛と鋤とである。慚は鋤棒である。意は縛る縄である。念いはわが鋤先と突棒とである。身体をつつしみ、ことばをつつしみ、食物を節して過食しない。わたくしは真実を草刈りとしている。柔和がわたくしの軛を離すことである。努力はわが駄牛であり、安穏の境地に運んでくれる。退くことなく進み、そこに至ったならば憂えることがない。この耕作はこのようになされ、甘露の果報をもたらす。この耕作を行ったならば、あらゆる苦悩から解き放される。」(第1章第4節 田を耕すバーラドヴァージャ:「ブッダのことば~スッタニパータ」中村 元訳)

 どれだけ手間を惜しまないか、日々の仕事の大切さです。家庭菜園や花を育てることでも分かります。このような毎日の自身のこころの畑(福田)の耕作を、ひとりひとりが行うようにお釈迦さまは勧めるのです。

ここでいう農作業はたとえです。善慧大士の漢詩はこの故事をふまえていると思うのです。理想である自然とひとつになるには、自身に敬意を払え、こころの畑を耕せ。こころの畑を耕すのに鋤はいりません、空手で結構なのだと。

◆歩行騎水牛:牛になり、景色になる

後世『十牛図』という牛を悟りの表現・たとえに替えて、十の図と漢詩で禅の道を表す入門書が作られます。その内容とは…

牛の足跡を探し、牛の姿を見つけ、つかまえようとし、ついに飼いならした。牛に騎って家に帰ることも当たり前。いまでは牛のことをすっかり忘れていて、自分のことも忘れてしまった。なにも無いということさえ無いところから、もとの日常に戻った。まさに花は紅、柳は緑色です。そしてわたしは牛(悟り)をおもてにも見せず・縛られず、会う人会う人を安らかにするのである。

 やっと気づいた悟りを使いこなし、忘れ、とらわれない。当然俺が俺が、も無い。悟りの臭いもさせない、いままでのありふれた元の世界へ戻ったと思ったらば、仏教にも執着せず人々を安心せしめている。

そんな禅の道を『十牛図』は十の絵と漢詩で表現しています。

歩行騎水牛。牛を使っているのか、使われているのか。どちらでもよいのだと。牛に乗って景色と一体になっている。使う道具:鋤から、他己のある牛に対象が移ります。牛を通して自然と一枚になっている。

◆人従橋上過 橋流水不流:橋になり、水になる

さらには命のない、感情のない橋に対象が移ります。橋を通して自然と一枚になっている。

橋の上に立てば、上流から下流へと水が流れる。橋に主体性を持たせてみれば、橋は橋の下で川を流している、となります。そんな橋の上から川を眺めるとは、牛に騎乗して悠々と帰宅、と同じです。橋となって水を流しているのか、水となって流れているのか。どちらもでよいのだと。無為自然とわたしがひとつになる。

「○○になる」を越えての超然一体とは、相手と自身へ敬意を払い、自然や動物や道具と対等な関係で、ひとつになる無心です。(副住職)

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