【コラム】因陀羅網

投稿日:2023年9月2日 更新日:

仏教には、さまざまな仏さまがいらっしゃいます。臨済宗ではそれぞれを敬うべき尊格として手を合わせます。陽岳寺本堂のお仏壇に本尊 十一面観世音菩薩、脇侍 地蔵菩薩・毘沙門天を中心として。阿弥陀如来、薬師如来、虚空蔵菩薩、如意輪観音、四王天、十六羅漢などが並んでいるようにです。

さて葛飾柴又といえば、帝釈天。帝釈天はインドラ、因陀羅(いんだら)とも申します。因陀羅の住む宮殿を飾っている網が「因陀羅網」で、ネックレスのように網の結び目ひとつひとつに宝珠がついています。宝珠たちは鏡のようにお互いを映しあいます。このことから、「因陀羅網」とは宇宙の全存在がお互いに関連しつつ、存在していることを例えています。華厳経における「重々無尽の縁起」を説明しているのですが、ここでお話しておきたいことは2つです。

  1. この宝珠は私たちも含んでいる
  2. お互いに他に依存しながら成立

一種の合わせ鏡が無限に広がっている因陀羅網。その一部分を私たちが担っているというのです。
さらに、私という一部を見つめることは、全体を見つめることにもなるのです。向こうの珠の光が、わたしの珠の光になる。わたしの珠の光が、向こうの珠の光になるのですから。
すなわちこの私のなかに全宇宙の森羅万象の働きが入り込んでいて、また逆にこの私の働きが全宇宙の森羅万象へと入るのだと。

◆執着と自立

小児科医 熊谷晋一郎先生の言葉です。

「自立」とは、依存しなくなることだと思われがちです。そうではない。「依存先を増やしていくこと」

ここから『依存先を自分で限定することを執着といい、自由で沢山あるという自覚を自立という』と言うことができそうです。

世界は因陀羅網なのですから、私はこういう宝珠です!と関係を限定しても無駄です。そこが認められないため執着となる。
環境との相関の中から自分の位置や行動を考えるのは自立となる。自然なことです。
であれば、外に意識を向けることです。すでに私たちは自立している。網の目に広がっている一部であり、世界なのですから。あれもこれも私です。

◆「超個人的な、幸せな人生の伴走者」

人は、ままならなさに振り回されている。そんな苦しみから逃れたい。幸せな人生を送りたい、と考えるのが人間です。

私たちは人の道を歩んでいます。その旅路がいつ終わるか分かりません。

しかし伴走者はいるはずです。友人、同僚、家族や親族、ちょっと立ち寄ったコンビニの店員、地球の裏側の人たち。生きている人たちだけではない、祖先や過去の英霊。私たちが思いもよらない何者かも「因陀羅網」の宝珠として、お互いに他に依存しながら成立しているかもしれない。重々無尽の縁起のなかに私たちはいるからからこそ、遠く遠くの宝珠に思いを馳せます。先祖供養です。

また逆に、すぐ近くの宝珠、超個人的な伴走者についても見つめたいものです。たとえば結婚、たとえばパートナーシップ。相手が居るからこそ悩み、苦しむことも多い。しかし、喜びも多いものです。

陽岳寺は縁ある人々の悩み:幸せな人生とはどうやって送ればいいのか?を共に考えています。
そのために。たとえば超個人的な伴走者を見つけること。超個人的な伴走者とお互いを育て合っていくことは、幸せな人生を送る方法の一つでしょう。この両方を陽岳寺は支援したいのです。

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