【コラム】請う其の本を務めよ

投稿日:2017年7月1日 更新日:

子どもは1歳9ヶ月となり、2語つなげて話すようになりました。舌足らずのときが大半ですが、その言動にハッとさせられるときもしばしば。本人の自覚はないのでしょうけれども、まるで試されているようです。彼のいない時であっても、「これを真似されたらマズイな」と自省が促されます。どこかで彼が見ているわけではないのに、まるで私の目をとおして彼が見ているかのようで不思議です。

陽岳寺は、臨済宗妙心寺派のお寺です。下町深川の禅寺です、でいいと私は思っているのですが、陽岳寺の宗派は臨済宗である、臨済宗のなかでも妙心寺派である、ということも必要なことです。
京都 妙心寺を開いたお坊さん関山慧玄(かんざんえげん)には遺言―御遺誡(ごゆいかい)―があります。

汝等 請う其の本を務めよ
誤って葉を摘み枝を尋ぬること莫くんばよし

「其の本を務めよ」。基本を務めよ。
どこに自分は立っているのか、生きているのか。請う其の本を務めよ・・・は、ココのところをズバリついてくる言葉です。
・・・いや、息もしてますし、2本の足もいただいてますからココに立ってますよ、と言いたくなるかもしれません。たしかにそうなのですが、「其の本」をつきつめてみたい。
仏教では、諸法無我といって、これが我であることの根拠であると断言できるたったひとつのことなど無い、と言います。
では、何によって私がここにいると説明するかというと、縁起です。
『雑阿含経』に「これ有るが故に彼あり。これ起こるがゆえに彼起こる」とあります。縁って起こる。
ひとはだれかの子どもである、とは真理です。親がいなければ、子は生まれません。では、なぜ私がここにいるのか。親が私を生んだから、これも理由のひとつです。
家がありご飯を食べて寝て起きての生活をできているから、学校で多くを学んだから、仕事に行ってお金を稼いでくることができているから。全部が、私がここにいる理由です。
その全部が「其の本」に集まります。
「其の本」、それは、この命。
なぜ生きているのか?それは、生きているからです。いつか死んでしまうからです。
「其の本」が命であるならば、「(その命を)務めよ」と関山慧玄禅師は言います。しっかり生きろと。
なぜ立っているのか、生きているのか、私がここにいるのか。多くの理由を見つけることはできますが、すべては人と人とのつながりです。家を建てた・ご飯をつくってくれる家族、家をつくってくれた職人、学校の先生、ともに学ぶ友人、職場の同僚、お客さん、職場へ通うための電車の車掌など。いまの私の日常を支えてくれている人たちを列挙していてはキリがありません。
自分には親が2人いて、さらに1つ前を見れば4人、10代前は1024人、と先代たちの人数も途方がありません。
ひとりでも欠けては、いまの私はいません。全部に意味があります。
このつながり・縁が、なぜ今わたしはここに立っているのか、生きているのか、私がここにいるのか、決めてくれているように思います。

草葉の陰、という言葉があります。「蔭から見守ってくださっていることでしょう」のように亡くなった方の居場所としての言葉です。
そして、亡くなった方がどこかにいるかもしれない、と故人の居場所を認める言葉でもあります。私たちが生きているこの世、しかしもう亡くなった方とは会うことができない。でも、確かに、すぐそばで暮らしていたはずでありました。ではやはり、ここにはいないだけで、どこかにいるかもしれない。もしくは、私たちが「どこかにいるかもしれない」と思わなければ、どこにもいないことなってしまうのかも・・・。
いや、むしろ、「ここには今いないけれども、どこかにいるかもしれない亡くなった人たちの居場所」があるからこそ、いつか私たちの行くアテもあり、わたしたちが生きている場所が際立つものです。
さらに言えば、自分の前にいた2人、4人、8人・・・1024人以上の親たち先祖たちからの「見ているぞ」との意識があると、わたしたちがそれぞれの居場所でどのように生きているか?を、試している人たちがいる・私たちの歩みを確かなものにしてくれる人たちがいる、と考えられないでしょうか。

自分の行いを最もよく見ているのは自分です。だれかが自分の心のなかに住んでいれば、その誰かも見ているのでしょう。
内在化といいますが、わたしたち人間はみな内在化を子どものときに練習・習得します。
子どもはハイハイなどで、養育者という「安全基地・安全な避難所」から離れて探検をします。なにかがあっても逃げ込める、助けてもらえるという経験が、養育者=安心できる人として認識を深めます。
安全基地で十分に安心のエネルギーを補給すると探検に再出発!補給と探検を繰り返す内に、すこしずつ養育者の存在というエネルギータンクは大きくなり、たとえ近くにいなくても大丈夫だと思うようになります。なぜなら、心のなかにいるから。ここには今いないけれども、どこかにいると思えるからです。

どこかにある。どこかにいる。
この思いを具現化したもののひとつが、天国、地獄や西方極楽浄土です。
西方極楽浄土は西にあるというが、どこからみて西なのか。むしろ逆で、西に西方極楽浄土があるからこそ、私たちがここにいると決まるとわたしは考えます。太陽やインドの位置関係などありますが、西とは便宜上のものであり、本当に馬鹿正直に西であるわけではありません。「西」は、ただ「西」なのです。

さて、お盆です。お盆には先祖たちが帰ってきます。帰ってくるのだと準備をするからこそ、存在を認められ、帰ってくることができる。帰ってくるのならば、私たちは元気で迎えたいし、また来年まで元気でいたい。
まるで、しっかり生きねばと請われているようです。感じることはできなくても、あなたのそばには、あなたの中には誰がいるでしょうか。

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