【コラム】四聖句

投稿日:2017年6月1日 更新日:

親子や親族とは似ている部分が多いものです。姿形はさることながら、仕草・声の出し方や考え方など。一緒に過ごす時間が長いためでしょうか、不思議なことです。
以上のような、ささいなところに、その家らしさ・その人らしさといった大切な部分が表れているようにも思います。「では、どこが似ているのか、すこし説明してみよ」と言われても、言葉では完全に言い表すことはできません。言えば外れますし、余りがでます。

陽岳寺は禅寺です。禅の特徴をあらわす言葉として四聖句というものがあります。

  • 不立文字:文字に(依って)立たない
  • 教外別伝:言葉の教え以外で別に伝わる
  • 直指人心:人の心を(ここに大事なものがある、と)直に指さす
  • 見性成仏:仏に成る本性を見る

この四聖句に見出したいこととは、「考える」と「感じる」のバランスをとり続けること。知性と感性、知識・知恵と実感のバランス。
不立文字(ふりゅうもんじ)、文字に(依って)立たない。誰かがこのように書いているから、と鵜呑みにしないことと読んでみます。
禅宗には根本経典(一番大切な書物)がありません。キリスト教ならば聖書、浄土教ならば浄土三部経、といった決まりが禅宗では存在しないのです。
根本経典が無い、文字に依って立たないということは、文字を蔑ろにしているわけではありません。
教外別伝(きょうげべつでん)、言葉の教え以外で別に伝わる。誰かがこのように言っているから、と鵜呑みにしないことと読んでみます。不立文字と同様に、教えを蔑ろにしているわけではありません。
本に書いてあるから、昔の人・誰かが言っているから、科学ではこうだから、と思考停止しないこと。よく自分で考える。

後半2つは、「禅をする」「坐禅」という自己における経験・体験・実感です。
直指人心(じきしにんしん)、人の心を(ここに大事なものがある、と)直に指さす。そして、見性成仏(けんしょうじょうぶつ)、仏に成る本性を見る。よく自分と向き合う。
「(直指)人心」「(見)性・(成)仏」といった人の頭や科学では解明されえないものの存在を置いています。「感じる」の世界と言ってもよいでしょう。
後半2つ、「(直指)人心」「(見)性・(成)仏」の方が大事であるとは申しません。
かといって、机の上で考えるだけでいいのか。行動さえすればいい、実感だけが大事なのか。どちらも大事でありましょう。
さらには、四聖句として禅の教えが伝えられておりますが、それも不立文字・教外別伝ですから終わりがありません。心・仏とはなにか解明されないために、「考える」・「感じる」ことにも終わりはありません。
四聖句とは、終わりがない、入れ子になっているようです。「考える」と「感じる」、その間を揺れ動く終わりなき行いが禅の特徴なのでしょう。

よく考える、よく自分と向き合う。「考える」と「感じる」のバランスを取り続ける。日常に生きる私たちにとっても、至極当たり前のことを四聖句は言っていると考えます。
知識・知恵と実感。どちらにしても、自己において、という不確かな土台が基本となります。吹けば飛んでいくような命が土台なわけですから、完璧なバランスを取り続けられるのだろうか。
だからこそ四聖句は、明日をも知らない、決断の連続である現実を生きる私たちへの助言として適切ではないだろうか。
よりよく生きたいのならば、自分で考え感じる、「考える」と「感じる」のバランスを取り続けよう。解明できないこともあるだろう。私が考えたのだから、感じたのだから、と言い訳をつけずに、と。

そこには「余り・余白」も必要なようです。
親子や親族とは似ている部分が多い。ささいなところに、その家らしさ・その人らしさといった大切な部分が表れているのではないか。言葉では完全に言い表すことはできず、足りない部分=余りがでてしまう。
余り・余白といった、遊び部分・潤滑油がなければ、バランスを取ろうと思っても、ぎこちなく動き、壊れてしまうでしょう。
むしろ、「余り・余白」や解明されない部分が大切なのではないか。それでも考えたい、感じたい。
自分の知性・感性・想像力を過信せず、考えすぎず、解明できないのだからとときには自然に身を任せ、しかしそれでも不立文字・教外別伝。禅の特徴です。

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