【コラム】さかさま:お盆のおはなし

投稿日:2020年8月3日 更新日:

7~8月には、スーパーやコンビニでも「お盆セット」が売られています。
ホーロクという陶器のお皿で、迎え火・送り火としておがらを焚きます。
おがらを足代わりに、キュウリを馬、ナスを牛に見立てる精霊馬をつくります。
まこもや蓮の葉を棚の台紙にして、お膳や花・蝋燭・線香を飾ります。ほおずきを自然界の提灯としてお供えすることも。
お盆用に別途棚を用意するとは、地域差があるようです。たとえば墓地に盆棚をしつらえて飲食をしたり、お仏壇の前や縁側または軒先に盆棚をしつらえるなど。
迎え火を焚く。いらっしゃるのであれば、掃除をし、寝床を用意し、お膳や好物を供える。提灯を出す。お帰りになるので、送り火を焚く。
様々にある日本のお盆の習慣とは、これからも引き継がれていきます。お盆にはこうしているんだよ、うちのお飾りはこうだよ等、ご家族・ご友人とお話をしていただければと存じます。お盆には、百人百様の体があり、かつそれを受容する度量があるのですから。

◆「盂蘭盆(うらぼん)」の語義

「盂蘭盆(うらぼん)」の語義には諸説あります。現在では、2つめの「お盆」が正しいと判断されています。

  • 「倒懸:さかさま」の苦しみにあう
  • 僧に施す、百味飲食を盛った「お盆」
  • 「霊魂(とくに死霊)」

ただ、すべてが混ざりあった結果、今の「日本のお盆」となると私は考えています。

お釈迦さまの弟子 目連は自身の神通力で、亡き母親が餓鬼道に落ち苦しんでいることを発見します。お釈迦さまに相談すると、修行明けの7月15日に僧侶衆を供養すればよいと言われます。自分の母親だけのために力を使うのではなく、同様に苦しみをもつすべてのものを救うために力を使いなさいと。すると、母は救われたのでした。

この『盂蘭盆経』母の餓鬼道救済説話は、祖霊祭と収穫祭(中元で知られる)に孝養のエッセンスが混ざり合い、中国にて誕生したとも言われていたのですが、インド発祥である。僧に施す、百味飲食を盛った「お盆」が盂蘭盆のもとである、偽経ではないと判断されたようです。

7世紀日本で「盂蘭盆会」と明記される法要が営まれており、当初は供養対象が没して間もない亡者全般の抜苦が目的です。のち様々な変遷を経て、近親の縁者、さらに氏の先祖代々という対象の具体性を持つようになるようです。お盆に乗せたお供えしたものが亡者に届くことを期待しての行動となっていく。有縁無縁の方々へのご供養と考えれば、この変遷はうなずけます。そうして現代における、いまの日本のお盆が営まれています。

◆お盆という不思議:さかさま、お接待

お盆には多くの不思議があります。
ひとつ。倒懸つまり、さかさまの苦しみ、とは何か。
ひとつ。亡者について、なぜ目の前にいらっしゃるかのように接待するのか。

やらなければならないことをしない、やってはいけないことをするのが人間です。このあべこべ感、さかさま感こそ倒懸といえるのではないかと思うようになりました。

子どものためを思ってしていることが、自分のためだった。自分の楽しみのためにお酒を飲んでいるが、ふたをあけると大酒でむしろ健康を害しているなど。

まったくもって逆ではないかと。わたしたちは、すでに、倒懸:さかさまの苦しみに生きている時があることに気づきます。

しかし、自分がさかさまになっていることなど思いもしていません。この事実に自分で気づくには、自分で自分を外から見るしかありません。または、さかさまになっている何者かを見ることです。

3月9月のお彼岸が、向こう岸、つまりあの世・悟りの世界へ思いをはせる、修行強化期間・お墓参り強化週間であるように。お盆も同様、自身の生活のふりかえりの機会でもあるのでしょう。

◆いのちをひきつぐ

お盆には、親しかった亡き人が帰ってくるといいます。

人が亡き後も、まるでいらっしゃるかのように準備し、用意し、対応する。

故人のことをまざまざと思い出し、身近に思う行いとは、お盆そのもの。

これも、さかさま側からの視点を持て、とのメッセージなのではないか。

ふだんの生活で、亡くなった方のことを思い出す時間は少ないのではないでしょうか。ただでさえ忙しい現代人です。家族写真も飾らない、お仏壇もない。コロナ禍もあり、故人について、しっかり思いを遣る機会などないのではないか。生きている私たちが、亡き人側に立つこともないのではないか。だから、せめてのお盆の期間だけでも…と。

お盆とは、亡き人を自分の身に引き寄せてしっかり思い出す機会を与えてくれるものです。あんなことを言っていた、こんなことしていた。

辛いのに、なぜ思い出す必要があるのか。

それは、「いのちをひきつぐ」ことが求められるからではないか。

…姉はこれが好きだった、では自分だったらどうか。じいちゃんはこんなことをよくしていた、自分にも似ている部分があるだろうか。義理の父は酒の席でこんなことをよく言っていた、いや自分ならばこう言う…。

先に逝った親しい人たちから、私はなにかバトンを受け取っていることはないだろうか。身に引き寄せて考えてみたい。いまの私の生活に生かしたい。

これを「いのちをひきつぐ」というのではないでしょうか。ひとは死んでもおしまいにはならないのだと。

さかさま側に立つ必要がある。であるからこそ、わざわざ提灯を出して、掃除をして、料理の用意をして、と機会を設けてお盆を盛大に行うのだと考えます。

じつはお盆の語義として、倒懸(とうけん)説は仏教界において旧説であり(経内にて、目連母が餓鬼道に堕し苦しんでいることは変わりません)、令和となった今ではさかさまの苦しみとして取り上げられることは減っています。

しかし私は思うのです。さかさまになっていないか、と教えてくれる者が必要ではないか。

年回忌やお墓参りも、お盆同様、さかさま側に立つ機会です。「いのちをひきつぐ」機会です。あの世があるから、この世があると言えます。

盂蘭盆経での、お盆にのせて仏道修行者へ供養せよとのお釈迦さまの言葉。お仏壇のまえにお食事をご用意しておりますが、じつは道理にかなっています。なぜならばお仏壇には仏ブツがいらっしゃいますし、ご葬儀にて亡き方々はみな信士信女、居士大姉と仏道修行者となっているからです。日本の習俗と融合したかに見えたお盆ではありますが、その実 盂蘭盆経にも叶っている不思議なのでございます。

手洗い、火の用心をして、どうぞお仏前にお参りください。(副住職)

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