【コラム】延命十句観音経(二)

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観世音 南無仏
与仏有因 与仏有縁
仏法僧縁 常楽我浄
朝念観世音 暮念観世音
念念従心起 念念不離心

十句観音経とは、臨済宗でよく読まれる、10の句、42文字と短いお経です。
なぜ短いのか。その理由は、観音さまへの信「観音さまに帰依いたします」の本質・髄をずばりとお伝えしやすく、感じやすく、お唱えしやすいためです。
3回くりかえしてお読みします。写経にも適当です。読経や写経は、心を落ち着ける効用もございます。
以下、内容をご紹介いたします。

◆十句観音経(拙訳)

観世音菩薩。み仏に心身をお任せします。
み仏との因がある、わたしには仏さまの心がある。み仏との縁がある、わたしは仏さまの心に気づくことができる。(産まれながらにして、仏さまと因縁があるのです)
もろびとみな仏法僧との縁があります。わたしの本来無心の心とは、常に、安楽であり、けがれがないものなのです。(まるで観音さまの心です)
一日のはじまり朝にもナム観世音菩薩と念じます。一日のおわり夕方や夜にもナム観世音菩薩と念じます。
この一念一念とはわたしの心身にある観世音菩薩の御心より起こります。いつなんどきも観世音菩薩の御心とわたしの心身は離れません。

◆観音さまへの信を、感じやすい

前回「◆観音さまへの信をお伝えしやすい」では、意訳をもとに解説をいたしました。
今回は、漢文でお唱えすることもしていただきたい、というお話しです。
なぜかと申しますと、観音の『無心』に触れていただき、観音としての姿を取り込むことが、十句観音経の肝要なところだからです。
あまり説明をしすぎるのもよくない、ということは、どのような業界においてもありますでしょうか。
美術館や博物館にて説明文ばかりを読んで、実物を見ているようで見ていない。言葉を尽くしてしまったが故に、かえって受け取り方が狭まってしまう、それそのままに受け継ぐことができない。そんなことをしていませんでしょうか。私はよくしてしまいます・・・。
説明も大事です。その説明とともに、その説明を助けとして、自分なりにどのように汲み取っていくかが大事となります。
陽岳寺の法要は日本語が含まれています。平成から日本語の法要がはじまって30年あまり、進化を続けてきました。また、人が亡くなられて、ご葬儀をする、お戒名を付すにあたっては、陽岳寺より文章をお渡しすることがあります。説明、日本語がたくさんです。
人の死に立ち会って、お釈迦さまやご家族という「故人の歩み」と「仏の歩み」、自身の歩みにどう汲み取るのか。取り入れるのか、の助けとなるもののひとつが説明でした。
頭で理解するに加えて、感じたいと思います。ヒントは『無心』でありましょう。
「故人の歩み」であれば、日々の暮らしのなかで考えている最中に、ふと思い立ったとき。もんもんと思っていたらば、ビビッと《わかった!》とき、感じた、といえましょう。
まるでそばにいるかのように、ひとつになって、暮らしていた。『無心』に安住するのではなく、ともに生きていた、と感じる。
では、十句観音経などの経典の感じ方、汲み取り方、取り入れ方とはなんでしょうか。説明の理解に加え、お唱えする、があります。

十句観音経。意訳だけですと、「み仏にお任せします、帰依します」「無心の心とは、常楽で浄いのです」「観世音菩薩の御心とわたしの心身は離れません」と言う時点で、差別の世界・分別の世界におり、『無心』から遠ざかってしまいます。感じるまではいきません。

楽しもう!と思ってしまった途端、本当に楽しむことができなくなってしまうかのようにです。
食べ放題や飲み放題の元を取ろうと考えた結果 量を頼んでしまい、美味しくいただくことをせず、楽しむことを忘れてしまうときのように。
やってやる!あれをああしてこうして…と思ったらば、本来の力を発揮できなくなってしまった時のようにです。
本当は「楽しむ」ことを。「楽しむ」ためにどうすればいいかを。私たちは産まれながらにして知っているにもかかわらず、目をくらまされてしまう。「造作をしない」ことが肝要なのです。造作しないところこそ、楽しい。

観世音菩薩の心と私の心はひとつ。…という前から、すでにひとつなのですから、わざわざ言う必要はない。「与仏有因」、産まれながらにしてわたしたちに備わっている本来清浄としたこころを、すっかり見て取ること。
ただ、観世音。ただ、南無仏。ただ、与仏有因与仏有縁。ただ、仏法僧縁常楽我浄。ただ朝念、観暮念観世音。ただ、念念従心起、念念不離心。
ただただ、観世音菩薩の御心に包まれている、無分別・無差別のはたらきでいまを生きている様子を、ご読経いただくことを通じて、このわたしが体現する。この『無心』のこころ(本質・髄)が、もろびとみな産まれながらにして持つ、安らかなる心である。まるで事実をそのまますくいとるかのように、漢文でお読みします。
《立場や相手に応じて、姿や形や言葉遣いを変え、寄り添うことができる》観音の姿をすくいとったまま、わたし(観音仏)の道を歩むことを目的にしたいのです。

十句観音経布教の立役者といわれる臨済宗 白隠慧鶴禅師著『八重葎(巻之二・下)』に、

~、口には常に十句経を念誦し、~。~、すべての仏道を成就し、~四弘の誓願を実践して行くこと、これを仏国土の因縁、菩薩の威儀と言うのである。~

とあります。
十句観音経とは、…つらい思いをしている。悲しい思いをしている。…そんな人々に対して、寄り添う、観音さまのお姿を慕うお経です。慈悲の象徴である、観音さまのようになっていこう、わたしも観音菩薩としての道・仏道を歩む、というお経でもあります。
人の一生とはいかに短く、つらく、苦しく、ままならないものか。自然災害や戦争や感染症などとの関わりを通して、何度も何度も思わされては、忘れて、何度も同じことを思います。
私たちができることとは、ただただ、1日1日歩みを進めることだけです。心あるままに、足を動かすしかない。このわたしが考えつづけるしかない。観音菩薩も、ともに歩んでいると思って。故人も観音菩薩のように、わたしたちを観察し、見守っていると思って。仏とともに、このわたしの人の道をひとり歩めと。十句観音経、短いながらも、短いからこその、お経です。

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