【コラム】延命十句観音経(一)

投稿日:2020年6月4日 更新日:

観世音 南無仏
与仏有因 与仏有縁
仏法僧縁 常楽我浄
朝念観世音 暮念観世音
念念従心起 念念不離心

十句観音経とは、臨済宗でよく読まれる、10の句、42文字と短いお経です。
なぜ短いのか。その理由は、観音さまへの信「観音さまに帰依いたします」の本質・髄をずばりとお伝えしやすく、感じやすく、お唱えしやすいためです。
3回くりかえしてお読みします。写経にも適当です。読経や写経は、心を落ち着ける効用もございます。
以下、内容をご紹介いたします。

◆十句観音経(拙訳)

観世音菩薩。み仏に心身をお任せします。
み仏との因がある、わたしには仏さまの心がある。み仏との縁がある、わたしは仏さまの心に気づくことができる。(産まれながらにして、仏さまと因縁があるのです)
もろびとみな仏法僧との縁があります。わたしの本来無心の心とは、常に、安楽であり、けがれがないものなのです。(まるで観音さまの心です)
一日のはじまり朝にもナム観世音菩薩と念じます。一日のおわり夕方や夜にもナム観世音菩薩と念じます。
この一念一念とはわたしの心身にある観世音菩薩の御心より起こります。いつなんどきも観世音菩薩の御心とわたしの心身は離れません。

◆観音さまへの信を、お伝えしやすい

意訳しますと、このようになりますでしょうか。
神道でいう祝詞のように、仏さまに対して読み上げ奉る「表白」的な側面と、帰依していますと自分に向かって言う「宣言」的な側面があろうかと存じます。
意味の世界、意味を取ろうとする場合は、意訳的な解釈・くみとり方がよろしいでしょう。
意訳を読むと、観世音菩薩、観音さまはわたしたちと離れていない。寄り添う、慈悲の象徴であることを十句観音経は表現していることが分かります。
観音さま。観自在菩薩、観世音菩薩、観世自在菩薩、光世音菩薩と漢訳のお経には記されています。
臨済宗でもよく読まれる法華経普門品には
「救うべき相手に応じて姿形を変える」
「苦しみを受ける衆生が一心にそのみ名を唱えれば、ただちにその音声を観じて解脱させる(様々な苦難を逃れられる)」
…とあるように、観音さまとは今を生きている私たちを見守ってくださっているお姿が有名です。

〈観世音菩薩よ、わたしは観世音菩薩の仏心を拠り所とします。〉
臨済宗は「衆生本来ほとけなり」「人はみな仏である」と申します。いたらない私だからこそ、同じように苦しみ悩む隣人の助けとなることができる。その姿を菩薩として見出しています。
どうでしょうか。人はみな観音のように、立場や相手に応じて、姿や形や言葉遣いを変え、寄り添うことができる存在ではないでしょうか。
親が子を、子が親を、同僚を、同級生を、友人を、見守ることをすでにしてはいないか。
この観世音菩薩の仏としての本質(こころ)は、たしかなことだ。この仏心を、しっかりと見出します、という宣言が、はじめの2句でありましょう。観世音と呼びかけるときのこころの持ちようです。

〈産まれながらにして、仏さまと因縁があるのです。〉
〈仏さまと、仏さまの教えと、教えを慕う仲間たちとのつながりがある。いつの世も、わたしたちの本質(こころ)である仏心・無心とは安楽であり、私の本質はくもりもくもりがないということもない程にカラッとしている〉
法華経普門品には「七難にあっても、み名を一心に念ずれば、お助けくださる」とあります。
自分の子どもが、大切な人が、火事のなかに取り残されたとき、地震で、津波で、事故で、病で…真っ先に飛び込んででも助けようと思うものです。レスキューの方がだれかを助けようとしている場面を見るとき、おもわず、どちらも頑張ってくれ!と願わずにはいられません。
この持って生まれた精神は、ほとけのこころ、仏心。慈悲の心です。慈しみと、悲しみに寄り添う心。いつの世も、だれかのために人事を尽くす時こそ無心となり楽しみであり、自己都合を忘れた造作のない行いをする姿が清らかである。ここが常楽我浄です。
慈悲の行いとは、そこまで大きいことをしなくてもいいようです。
笑顔で接したり、ありがとうと言ったり、困っているひと苦しんでいるひとの幸せを祈ることでもいいのです。
小さな一歩が、大きな流れを変えることになるはずですから。

〈朝に、夕なに、観世音菩薩を念じます。〉
〈この念ひとつひとつとはわたしの心身にある観世音菩薩の御心より起こっている。いつなんどきも観世音菩薩の御心とわたしの心身は離れないというまでもないほどに、離れていない。両のてのひらがぴたりと合わさるように〉
日本人は声なき声を聞いてきました。虫の鳴く音を、季節の訪れだと認識するように。吹く風を、咲く花を、故人からの知らせだと認識するように。蝉の鳴く声を、短い命のなかを精いっぱい生ききっている証明だと認識するように。
わたしたちには、お墓やお位牌にむかって目をつむり、手を合わせ、故人との対話をする時間が必要です。生きている人を相手にするのと同様にです。
なぜ必要か。人とは安らぎを求める生き物ですが、手を合わせ祈る中で、心の安らぎがおのずと生まれるからです。故人とこころは離れていないと実感できるからです。
わたしの心身にある観世音菩薩の心より起こっている、もろびとみな持って産まれてくる慈悲心。これだけは、無常、無我の世において、壊れません。

観音さまへの信を感じやすい、という点について、次号に続きます。

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