そのお寺でもっとも尊ばれている仏さまを「本尊」。本尊の脇に立っている、左右から挟むようにある仏さまを「脇侍」「脇立」「挟侍」と言います。そして、本尊と脇侍がまとめて3体いらっしゃる場合を「三尊」と言います。
この「三尊」には、ある程度決まった形があります。たとえば、釈迦三尊(釈迦如来・普賢菩薩・文殊菩薩)、阿弥陀三尊(阿弥陀如来・大勢至・聖観音)です。
しかし、陽岳寺の三尊は定型には当てはまりません。すると、陽岳寺三尊とは?という問いが生まれます。
陽岳寺の本尊は、十一面観世音菩薩。
脇侍は、四天王(別称 北方多聞天)・七福神のひとつ毘沙門天。そして、地蔵菩薩です。
(写真:陽岳寺 脇侍 地蔵菩薩)
脇侍 地蔵菩薩。脇の仏が、中尊、真ん中にいらっしゃる仏の徳用を表すと言います。
仏教に欠かせない両輪。そのひとつが、自利と利他。智慧と慈悲です。
陽岳寺の本尊の脇侍は、自利と利他。智慧と慈悲を表しているのではと考えます。どちらがどちら、と決めつけてしまうわけではありませんが、毘沙門天が智慧を、地蔵菩薩が慈悲を担当していると考えてみれば分かりやすいかもしれません。
《地蔵菩薩(じぞうぼさつ)》とは…
現在仏である釈迦が入滅し、未来仏である弥勒菩薩が出現しない間、地蔵菩薩が世に出て、衆生を教化するといわれる。摩尼宝珠と錫杖を持ち、僧侶の姿をとる。
賽の河原信仰においては、鬼に苛まれる子どもたち衆生を救う姿がよく描かれる。
忉利天において釈迦如来の付嘱を受け、六道の衆生を教化する大悲の菩薩である。
童話『かさ地蔵』や道すがらにいらっしゃるお姿のように、「お地蔵さん」として親しまれる地蔵菩薩。その実態は、いままさに私たちを救おうとする慈悲の体現です。
この姿は地蔵菩薩発心因縁十王経や地蔵菩薩本願経に書かれています。地蔵菩薩とは、慈悲、やさしさの象徴と言えましょう。しかし、真のやさしさには強さがあります。耐え忍ぶ体力、誓いがあります。
なんでもいいよと許してくれる放任は、真のやさしさとは言い難いかもしれません。どこまでも懐広く受け入れ、度量し、見守る強さ、したたかさを地蔵菩薩は持っているようです。
そんな地蔵菩薩には、裏の顔があると言われています。それは、閻魔様。ここに強さ、したたかさを見出すことができます。
《閻魔(えんま)》とは…
鬼世界の始祖または総主、冥界の支配者、人の行為の審判官。
審判にかけられる者の生前の行いが、閻魔王の帳面には書かれている。また、いかにも重そうな岩と天秤にかけられる「業の秤(はかり)」が用いられることもあり、生前の悪業が岩よりも重いかどうか調べられてしまう。
それでもシラを切る者には「人頭杖」が教えてくれる。生前の善業を見通していた白い顔、悪業を見通していた赤い顔、二つの首が真実を告げるのである。それでもさらに知らぬ存ぜぬを突き通す者には、生前の行いを映像で見ることのできる「浄玻璃の鏡」の出番である。
閻魔王にとっては、帳面も、業の秤も、人頭杖も、浄玻璃の鏡も必要なく、すべてを見通しているようである。閻魔王は恐ろしい存在とされているが、地蔵菩薩が変化した姿とも言われており、迷い苦しむ者を差別せず導きお救いくださるものである。閻魔王は死者の進むべき道を決定し、言い渡す役目を担っている。さまざまな道具たちは、審判を下される身になっての温情と言えるだろう。
審判を受ける者どもが、願わくは仏道を歩まんとせんがために、まず己の悪業を自覚し、懺悔することが求められるからである。
亡き人の行く末について判決を言い渡す閻魔様が、じつは地蔵菩薩であるというのです。
閻魔様によるお裁き。ここには、個人個人の一生を受け止め、鑑みる、強さ・したたかさが必要でしょう。
すべては個人の後生を思ってのこと。この一面はまさしく慈悲であり、慈悲の象徴としての地蔵菩薩の姿が、閻魔王に重なります。
真のやさしさには、厳しさ、強さが見える。お互いに欠けてはならない両輪です。
「お地蔵さん」と私たちが親しみを込めて呼ぶのは、ただ単に優しそうだから…というわけではないのかもしれません。
臨済宗では、人はみな仏である、と言います。亡き人や私たちは観音さまでもあり、お地蔵さんでもある。お地蔵さんのお姿に、「私たちの持つ、真のやさしさと強さに気づけよ」と教えられているように思います。(副住職)