【コラム】開経偈(かいきょうげ):お経本を開くと一番はじめに書かれているお経

投稿日:2021年10月1日 更新日:

無上甚深微妙法(むじょうじんじんみみょうほう)
百千万劫難遭遇(ひゃくせんまんごうなんそうぐう)
我今見聞得受持(がこんけんもんとくじゅじ)
願解如来真実義(がんげにょらいしんじつぎ)

ほとんどの伝統仏教の宗派が、この『開経偈』をお唱えしております。
いつの、だれがお作りになったのか分かっていないようであります。
大陸の大洪守遂禅師作ではないか。五祖弘忍禅師のつぎ六祖慧能禅師と神秀禅師を招いたときの皇帝のことばではないか。唐の時代ではないか。

宗派によってこのお経の受け止めは違ってくるだろうなと思います。
「奥深く、なかなか出会うことのできなかった、仏の教えを見聞きし、こころに保つ。解したてまつらんことを」
[仏]の受け止め方と、[見聞きし、こころに保つ。解したてまつらんことを]の受け止め方が変わってくるでしょうか。
たとえば浄土門であれば、仏といえば阿弥陀如来さま一本でありましょう。さらに真宗さまであれば、その教えの聞法を重ねてまいろうではないか...となるのではないでしょうか。
人間であるお釈迦さまを尊ぶ、ひとはみな仏であると述べる、臨済宗であれば...?
[仏]とは、お釈迦さまを筆頭に、さまざまな仏さまそれぞれであり。生活のなかで行なうこととセットとなるのではないかな...と思うのです。

臨済宗のお経本においても、まずはじめにこの『開経偈』が記されています。この動画では、わたし向井はどのように『開経偈』を受け止めているか、お話をさせていただきました。

【教えてお坊さん!よくある質問】臨済宗でよく読むお経ってなんですか?
https://youtu.be/ZX3vZrzQjqM
上記リンク先の動画でもお話していますが、「お経」とは仏を文字で表わしたもの。ただの文字として読むだけでは足りないようであります。実践する、仏を行ずることが求められるといえます。
そのような心構えを記している漢詩が『開経偈』と言えるましょう。

あのひととわたし、と分けて考える。分別の世界で生きるわたしたちですが、その分別を超える必要があります。
たとえば<合掌>はいかがでしょうか。
この人はわたしよりも年上だから尊重しよう。このお墓の下に眠っているおじいちゃんおばあちゃんは私よりも苦労して人生を終えたから花とお線香を供えよう。・・・そのようなことを、わたしたちは考えません。
ただ手を合わせる。香を手向ける。ただ人間の尊さをあらわすために合掌をしているといえないでしょうか。ここに身分の高い低い、年収が、若い年老いている、といった区別分別はあるでしょうか。

臨済宗妙心寺派の生活信条のひとつに「人間の尊さに目覚め、自分の生活も他人の生活も大切にしましょう」とあります。
まさに合掌のこころを記していると思います。『開経偈』のこころともいえます。

<意訳>
(仏の教えとは、このうえなく奥深い、すばらしいもの。どれだけの長い時間を経ても出会うことができなかったかもしれないくらい(難しい)。このわたしが人の身を受け、なんと!すでに)
出会ったすばらしい仏の教えを
見聞きし、こころに保ち、実践をしていきたい
分別の世界で生きながら、無分別の仏のこころを行じていきたい
(切に願うかぎりである)

「お経の解説」と題しておりますけれども、どこまでいっても分かりません。やればやるほど分からない、というのが正直なところです。
たしかに頭で理解することも大切です。しかし、知識として理解することを超えて、祈る・願う。一心にお唱えをする、お写経をする、分別を超えて行じることが、終いには大切なのだと思うのです。

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