【コラム】顔をうめる

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お申込み人数の多さと、感染状況の変化をふまえて11月末のご祈祷の会もご参列は中止としました。祈祷会は厳修しました。ご祈祷しました般若札は年内に郵送いたします。

【コラム】顔をうめる

ことしの3月、4月の時点では、新型コロナウィルス感染症についてまったく分からず、先行きも不透明。なにも分からない状況で、檀信徒のみなさまを銀行や郵便局という人混みに行かせるわけにはいかない、と5月のおせがきへのご参列は中止としました。その後、皆さまの状況はいかがでしょうか、どのように変化がありましたでしょうか。

そんな2020年も終わります。新型コロナウィルス感染症による不安はまだ地球上に横たわっています。これまでも、これからも、人類と感染症との戦いの歴史は続きます。終わるということがない。

東日本大震災から9年。阪神淡路大震災から25年。あれから〇年とは、天災、事件、事故や楽しいこと悲しいこと様々に言われるモノサシです。

さらに、どうやら人生には楽しいことよりも辛いこと悲しいことの方が多いように見えます。自分の思い通りにならないのが道理だ、と一切皆苦の四文字が教えてくれています。

戦争も震災もつらいことです。遠く離れた地に住んでいても、当時現地にいた人も、すぐそばの人が関係者でも、戦争も震災も過去にあった話ではなく、どのような人にとっても、戦争も震災も楽しいこと辛いことも、すべて、いま・ここにあるもの、わたしのものです。「震災があった」のではなく、「震災がある」。事故がある。死がある。コロナがある。

そんな時、ひとはみな、この二つの合間に、矛盾に、にっちもさっちもいかなくなってしまうと思いませんでしょうか。

生涯 忘れることのないような

・これだけのことを「忘れるべきではない」

・これだけのことを「忘れてもいい」

の合間に揺れ動く、揺れ動き続けることになるのです。震災のように、あの日に起きた、では終わらないのが感染症です。つねに私たちに問いつづけるものがいるかのようです。

忘れたい、忘れてもいいんだよと自分を赦したい。いや風化させてはいけない。どちらもある。胸に去来する矛盾を、そのままに、だれかと分かち合うしかないと思うのです。これからも続く新しい生活様式の「前提」について一緒に考えていきます。

 ◆名前を言えない、言ったら言ったでそしられる

臨済宗においてよく読まれる本のひとつ『無門関』(公案集/問題集/故事集)の第四十三則「首山竹篦」にこうあります。

本則(今回のテーマ/問題文):
首山和尚、竹篦を拈じて衆に示して云く、汝等諸人若し喚んで竹篦と作さば則ち触れ、喚んで竹篦と作さざれば則ち背く。汝等諸人、且く道え、喚んで甚麼とか作さん。

【本則意訳】首山和尚は竹篦をみなに持ち示して言った。「お前たち、もしこれを竹篦と呼んだら名前[意味]に触れる。竹篦ではないと言ったらば事実に背く。さあお前たち、これをなんと呼ぶか、どうするか」

竹篦(しっぺい)とは、禅宗の僧侶が持ち、師僧による指導のための道具です。竹の長いものや木の棒など材質形状もさまざま。

竹の板、木の棒を持ってきて、「(これは竹篦であるが、)なんと呼ぶか。竹篦と言ったら名前に触れてしまうぞ」という首山和尚の忠告は、限定されてしまうぞ・ありふれているぞ・固定概念にとらわれているぞ!という内容です。それを〈ただそれの名前〉で言ってはいけないというのです。

竹篦を持つ首山和尚の前にいる修行僧たち。彼らはにっちもさっちもいきません。「いやいや、竹篦は竹篦だし、でも竹篦と言ったらいけないというが、竹篦ではない名前を呼んだら事実とは違うことになる。むむ…」

◆カタチの押しつけの違和感にきづく

なにも言えないし、かといって言わないわけにはいかないし、言ったら言ったで言わないなら言わないで自責の念にかられるか他人に責められる…それらぜんぶが私でもある…私たちにも、そんな時がないでしょうか。

求められるカタチや役割がある。しかしそのカタチからはみ出る部分が、たしかにある。それなのに、なかったことになるのはイヤなものです。切り捨てられるところに違和感をもつはずです。人には表と裏がある、表と裏だけではない様々な顔があるのに。

たとえば「おかあさん」。子どもにおかあさんと言われても否定はしませんが、パートナーからおかあさんと呼ばれると「わたしはあなたのおかあさんではありません」と思う。

おかあさんなのだから、というカタチの押し付けの違和感に気づいた結果です。

◆人はみな矛盾をはらむ者

平家物語ほどの栄枯盛衰はないものの、ひとにはひとの物語があり、その物語からはみ出る自分もいるはずです。そんな、あわい。向かい合うものとの間、すでにある物語とわたしが紡いでいくわたしの物語との間、ステレオタイプなカタチとわたしがわたしだと思うカタチとの間。この合間で揺れ動くのが本当の私の姿です。このことに気づかず、そのままでいいのに、分かりやすい方についてハッキリさせなければならないと思い込んで、にっちもさっちもいかなくなる時がある。

「忘れるべきではない」「忘れてもいい」どちらもこころのなかに混在する矛盾。そもそもわたしたちは矛盾をはらむ者です。矛盾を矛盾したまま受け止めるしかない。ただし、ひとから押し付けられるカタチと自分との間の違和感には気づくことです。

「忘れるべきではない」「忘れてもいい」矛盾する感情をとりあつかうことは、人間に求められる仕事なのかもしれません。

震災や、新型コロナウィルス感染症だけではありません。近しい人を亡くす、いままでの自分の肩書きがなくなる等の喪失体験を得たひとは皆そうです。ショックを受けた人は皆そうです。

矛盾を矛盾のままに生きていくことは難しい。そこでやってしまうのが単純化です。ひとつは「悲しい人」「ショックを受けた人」等について社会が求めるカテゴリー・ステレオタイプ・ロールモデルという枠を、自分に当てはめてしまうことです。さらに、本当は多様な悲しみ方、ショックの受け方があるのに、「悲しい人はいつまでも暗く、外食にもいかず、笑ってはいけないものだ」と思い込んでしまうことです。

ただでさえ辛く苦しいのに、カタチへの押しつけに悩み、なにが正しいのか分からなくなり、にっちもさっちもいかなくなる。「悲しい人」「ショックを受けた人」という枠組みから離れられず、そんなことはないと分かっていながらも自分なりの悲しみの表出をしたら(社会が求める悲しい人の姿という)事実に背いてしまうのではないか、とまた悩む。

竹篦のはなしのようではないでしょうか。

◆「忘れてもいい/忘れるべきではない」を分かち合う

矛盾のままがありのままだ、という分かち合いが、定期的に必要になってくる。

さきほど、ひとには表と裏がある、表と裏だけではない様々な顔があると書きました。母親と話すときの顔、友人との顔、会社で課長としての顔、学校で出席番号15番の顔、趣味の顔、インターネット上での顔。すべてが自分です。必ず矛盾が出てきます。

学校を卒業したりすると、学生としての顔は喪失し、自分の一部が無くなったように感じます。顔が少ないと生きづらいのは、顔の喪失がまれにあるからです。社会情勢の変化は、顔の喪失をひきおこします。

自分の顔、自分の一部が無くなったら、埋める必要があります。それには、ただただ普通の言葉の「そうなのですね」の関わり合いが必要です。矛盾した感情がないまぜになっていることをそのままに、肯定される経験。日常の、普通の生活が一番の特効薬です。

隣人との、無くなった顔を埋めるような慈しみのある分かち合いへの関与が求められると思うのです。なんてことありません。日常茶飯事、お茶を飲んでしゃべることです。

「あの人たちは不運で残念だったろうが、自分には関係ない」では顔が埋まりません。震災もコロナもこのまま終わりません。誰しもが今ここにある、わたしの事実として受け止める必要がある。矛盾をはらむ者として。

感染者や被害者といった、とある個人だけに、すべての悲しみを背負わせておしまいにしてはいけないのです。

感染症拡大により起きた関わり合いの分断が、どうか来年は収束しますように。よい年となりますよう祈念申し上げます。(副住職)

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