二人の僧が川を歩いて渡ろうとしていた。見知らぬ女性も川を渡りたいと困っていた。一人の僧が、すぐに彼女を抱いて川を渡り、女性を下ろした。助けてあげたのだ。二人の僧は先を進むが、女性を助けなかった僧が口を開いた。
「お前は僧侶として女性を抱いても良かったのか?あの女性が助けを必要としていたのは明らかだったとしても」
すると、もう一人の僧が答えた。
「たしかに俺はあの女性を抱いて川を渡った。後、彼女をそこに置いてきた。しかし、お前は、まだあの女を抱いているのか」
このたとえ話には実際のモデルがいるとも聞きます。日本における創話で僧侶とは禅僧だとも。
「女」とはなにか。「川」とはなにか。いろいろと考えることができます。
このおはなしの「女」とはなんでしょうか。
ムカつく!悲しい!楽しい!といった感情か、成功体験か、失敗の絶望か。
外からの刺激を受けて、反応した結果が”感情”・”成功体験”・"失敗の絶望”といえます。ただ、わたしの手元に、この瞬間、それが来ただけである。
なかなかそうは思えないものです。それはなぜか?
そう思ったのがわたしがわたしである証明だ、とにぎりしめてしまうからでしょうか。手元に来たら、つかんでしまうのが人間の性です。
「川」をザブザブと越えるのに、「女」を助けてあげましたが、むしろその「女」に助けられていたこともあったかもしれません。「女」を助けてあげるんだ!が、このわたしに「川」を渡る力を与えてくれたのかもしれない。しかし、その「川」をわたったのなら、もう「女」の残り香も捨てた方がいいのでしょう。