平和

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このごろ都内では落語や漫才の寄席が流行っているようです。深川にも、小さな寄席を目にすることがあります。それだけ笑いを欲している人が多くなっているような気もします。
お寺のご祈祷会にも演芸大会として、若手の落語家、漫才、色ものなどを六代目三遊亭円楽師匠にお願いをしています。また三遊亭圓橘師匠とは、今でも親交が続いて、小学校のふれあい給食会にお呼びして、子供たちに落語の仕草について、講演を依頼したこともありました。
それに昨年は地域で、深川の歴史を、落語に登場する人物を通じて、語ったこともありました。これは落語を聞くというのか、見続けているからなのでしょう。
熊さん、八さんに与太郎という登場人物は、暗い世相でも、生きづらくなっても、人を笑いに誘います。それは常識という世界に、非常識という懐疑をもって、私たちの心の中に浮かぶ思いを吹き飛ばしてくれるからでしょうか。庶民の智恵のような気がするのです。 それは「ああ!おもしろかった!」とスイッチが切れて、普段の日常に戻るのですが、その日常を穏やかにすることができます。
穏やかだから無事、無事だから平常、これって平和のことなのでしょう。平和は、人々が良く生きられることだと思うのですが、良い関係が保たれていることが平和であることの条件です。そして保たれていればそこには、むしろ平安も無事もないものです。
たとえば楽しい友達や、気が置けない、心強い仲間が欲しいと、自分が思ったとします。ですが関係を結ぶ相手側はどうでしょうか。仲間となる人も同じように仲間として結んだことで、楽しい、気が置けない、心強い仲間とならなければ、仲間同士という関係は築けないでしょう。
例えば、お年寄りが、長くひとりで住んでいたとします。彼は孤独と思ったこともありませんでした。親しくしている人が、彼の近辺に何人かいて話もしますが、もっぱら本を読んだり散歩をしたり自然に触れてと、好きなように生きていました。
もともと、ひとりで遊び、ひとりで学んで、静かな気持ちでいることは、孤独とはいえないのですが、彼の中では、自分は利己的な性格なのだろうと思っていました。
一人で生きることは、自分中心に動くことができ、好きなときに、親しい人と話をすることもできたからです。
ところが、私だけ、何とか普段通りに平和に暮らせていても、テレビや新聞、スマホやインターネットで、世界の状況が刻一刻と伝わる時代に、「ひどい!すごい!残酷!無茶苦茶!よくそんなことができるものだ!どうなっているのか?」と、現実にあり得ないことが起こって、悲鳴のようなものを上げさせられることが多い昨今です。
人間のすることではないと思う半面、現実に報道で知る世界と、今の私の現状との違いに驚きます。共に人間の心の思いで創られた世界の違いに怖さをおぼえます。
さて、人は生まれたとき、赤ちゃん誕生と同時に、ご両親は父母と関係に結ばれ、赤ちゃんという子どもが誕生します。現実的に、誕生は同時なのです。
そして兄弟姉妹があれば、兄や姉の誕生も同時、親戚のものにとっては、伯母さん叔父さん、いとこまでもが同時誕生したことになります。
誕生の意味とは、関係を結んだことです。この関係の中に独立した、赤ちゃん・ご両親・お爺ちゃんお婆ちゃん、叔父さん・伯母さん・いとこたちが同時誕生して、互いに独立している関係を意味することですから、分離する意味を含んでいます。
赤ちゃん誕生とは、関係を持つ多くの人の新たな居場所誕生・ハッピー・バースディなのです。
これが結ばれ方の関係なのですが、現実的には、関係の中で根拠が誕生したことになります。その関係とは、お父さんお母さんにとっては、子どもに対し父母という当たり前のことです。逆に子どもから見れば、父母に対して子どもですから、子どもの根拠は自分にはなく父母にあり、父母の根拠は子どもにあるわけですから、子どもにはないという、不思議な関係です。
その関係の様子は、赤ちゃんが母親に、無心に声をあげ、手足で母親にうながす仕草です。その意味は、生きる根拠も自分にはなく、母親が差し出す乳を無心に飲むことが生きる姿です。母親は無心に与える。おしみもなく与える母親は、赤ちゃんがお腹をふくらませれば、母の愛の無心という大きさに気づきます。母親の根拠は赤ちゃんですから、ただ無心となって与えるだけ。それなのに母親の心は喜びに満ちあふれる。赤ちゃんの穏やかに睡る姿は母親も忘れて満ちあふれる姿です。赤ちゃんが熱を出せば、母親の無心な心に赤ちゃんの痛みが自己のものとなって、痛みがあふれるから、母親の献身という、よく生きるお母さんが誕生するのです。
その赤ちゃんとお母さんの境目の関係を、新約聖書マタイ伝34・35(日本聖書協会1985)で見ることができます。
《34地上に平和をもたらすために、私(キリスト)が来たと思うな。平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである。35私がきたのは、人をその父と、娘をその母と、嫁をそのしゅうとめと仲たがいさせるためである。》
古い聖書では、仲たがいという言葉を、引き裂くや切ると訳されていたようです。仲たがいさせるとは、悪意ではなく分離させることで、このつながりの縁起の関係である母と赤ちゃん関係をあきらかにすることでした。
元妙心寺の管長、故山田無文老師は、この聖書の一文を臨済録の示衆で取り上げていました。
《それは、「仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、羅漢に逢うては羅漢を殺し、父母に逢うては父母を殺し、親眷に逢うては親眷を殺して、始めて無心を得、物とかかわらず、すべてが自在なり」での提唱でした。
キリストが「我れ平和をもたらさんがために来たにあらず。親から子を割(さ)き、しゅうとから嫁を取るために来たのである」と言われたのと同じことだ。もう一つ言うと、キリストは人間から神も引き裂けばよかった》と、結んでいました。
臨済録では、「仏殺し母殺し羅漢殺し父母殺し」ともいうのですが、無心さを表現するものです。そこにはもう信もなく不信もない世界で、私には落語や、赤ちゃんと母親の遊ぶ平和な姿が浮かぶのです。

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