こんにちは副住職です。
お坊さん業界の今年の流行語大賞は「マインドフルネス」です。「正念」という仏教語の英語なのですが、正しい念でいる、マインドがフルでいること、心が今この瞬間によって満たされている状態にいることを示します。
たとえば、みかんの皮を少しずつむき、一房ずつゆっくりと味わう。その過程を心の中で観察し、つぶやきながら念じながら…。するとみかんの甘さ・すっぱさ・香りの気付きに心が満たされる。みかんと身体と意識や感情が一つにまとまり安心する、となります。
呼吸や微笑むことといった日ごろの行い。日常を地道にゆっくり観察し念じながら過ごし、良い方向にみんなで進んでいくことがマインドフルネスです。日常とは幸せそのものでいっぱいである、との気付きを保っていることとも言えるでしょう。
しかし、日常を忙しく過ごす私たちにとって、そう簡単に日常とは幸せそのもので満ちあふれているなと気付けるものでしょうか。きっかけが必要です。
身近なものこそ、きっかけとしたいのですが、ここでは「友」と呼びたいと思います。
さて昨年の9月に子どもが生まれてからというもの。今しかない0歳のとき、1歳のときを見ていると、この小さい子がいつかは大人になるのかと不思議な思いです。
子どもの成長は大人の成長よりも分かりやすく、目につきやすいものです。しっかりとその姿を見つめていたいという思いが自分を親にしていると考えつつ…それでも、日々忙しくしている中で、多くを見落としているのではとも。そんな時に見つけた詩がありました。かなり長いのですが、リンクを記しておきます(サンクチュアリ出版「最後だとわかっていたなら」)。
この詩は、母親である作者が、離島に住んでいる息子さんを事故で亡くされて書かれたものだそうです。
もしも自分が近くにいたならば、と悲しみや後悔のなかで、もがいていた時の言葉たち。
詩の前半では、最後だと分かっていたならば自分はもっと与えたい・伝えたい・やりたいことがあったのにと叫び、普通の毎日とはむしろ特別な瞬間瞬間の続きなのであったと気づかされ、ではなぜ私の身の上に起きたのかと悔やむ文章が続きます。
詩の後半では、なればこそ今日を後悔しないようにと希望を持ち、いまの自分で出来ることをしようではないか。友と挨拶をしよう、ハグをしようと結んでいます。
傷つきうずくまった後、なんとか立ち上がるきっかけを、この詩の作者は絶望の中に見出したのかもしれません。本当に苦しくつらいときは言葉も出ないものですが、むしろ言葉をつむぐことで立ち上がる糧としようではないか!友人と抱きしめあうという身体の会話もやるべきだと勧めてくれています。
悲しみで心がいっぱいになることもあるでしょう。悲しみでいっぱいのとき、人は多くの「故人にしてあげられたこと・何気ない時間ややり取り」を見逃している。最後だとわかっていたなら、と後悔をする。「悔しさをバネにする」とは簡単に口にできる言葉でありますが、誰にでも出来ることではありません。
それならば、日常に目を向け、日常を取り戻し送ることが、遺族の幸福ともなり、亡き人を送ることともなるのだと気づきたい。
そのきっかけとして、友人の大切さをこの詩は説いています。マインドフルネスの例に挙げたみかん同様、幸せの友のひとつです。
友人を友とし、みかんを友とし、子どもを友とすることで、いつもの毎日に幸せや助けを見出すことができるはずです。
みなさんの幸せの友はなんでしょうか。
お寺でボードゲームを遊ぶ会をしていますが、電気を使わない遊び・昔の遊びは幸せの友を実感させてくれます。そして、かけがえのない時間と場所を共有させてくれます。
多くを見落としながら過ごす日々を振り返り、今よりも少しだけでいい、もっと、ちゃんと今を見つめたい。日常という幸せに、すべてが満たされていると気付きたいものです。
すぐに2017年を迎えます。一瞬一瞬という今が最後になるか分からないけれども、一日一日という今日が最後になるか分からないけれども、行く年への感謝を。
そして、どうか、みなさまにとって来年も良い年となりますように祈念申し上げます。合掌