【コラム】無事の人

投稿日:2018年12月2日 更新日:

臨済宗の宗祖である臨済義玄禅師のことばに「無事是貴人」があります。「ぶじこれきにん」と読みます。直訳すれば、「無事の人は、貴い人である」。
「無事の人」とはどのような人でしょうか。「無事」とはなんでしょうか。

臨済義玄禅師の言葉をまとめた書物『臨済録』には、無事についてこのようなたとえ話があります。

ある若者が、毎日鏡で自分の姿を見るのを楽しみにしていました。ある朝誰かが掃除して鏡を裏返してしまいました。
若者が鏡を見ようとしても自分の姿が見えません。自分の顔が無くなったと大騒ぎして街中さがしてまわります。探しあぐねた末に、ああ自分の顔はもとからここにあったと気がつくという話です。(円覚寺管長横田南嶺老師「無事是貴人」について:護寺会だよりNo.141からの引用)

この若者は、本当に大切なものについて、毎日確認をしなければ気がすまない…と思っていました。確認ができなくなったとき、無くなってしまったと勘違いをして、さぁ大変。
探し求めた末に、なんだ一番身近なところにもともとあったと気がついたのでした。

事無きを得る。無事に済ませることができた。どうか無事でいてほしい。…無事という言葉をつかう文脈ですが、本当の「無事」とは、心の底からこれらの無事を思っていることではないか。
「無事」には2つあるように思います。
ひとつは自分の無事。物事の本質を見通し、本当のところが分かっていれば、心が揺れ動いたとしても、また無事の精神に帰ってくることができる。
もうひとつは、だれかの無事。どうか無事でいてほしい、無事に今年を終えられますように。無事に来年を過ごせますように。
仏教的に言えば、前者は智慧。後者は慈悲となります

ひとにとって大切なものは様々です。先述の若者にとっては、《自分の姿》でした。
若者にとっての《自分の姿》とは、容姿そのものか、自分の顔が親に似ていることなのか、なにを意味しているのか分かりません。
ただ《自分の姿》なだけに、外にあるもの(鏡や自分の目)がなければ確認することはできないように思ってしまいます。手で触ればあるなと分かるとしても、この目で見たと思うことができなければ安心できない。確認をせずにはいられない。大切なものが無事であることを求めるのは人の性なのかもしれません。しかし、先述の若者のようになってしまっては疲れます。
それならば、大切なものがあるかどうか、確認できるかどうかの「無事そのもの」こそが、一番大切ではないだろうか。あろうがなかろうが「無事そのもの」、無事の精神には揺らぎなどありませんから。
先述の若者は、結局鏡なり水面なりを見つけて、自分の姿があることを確認したのでしょうか。本当はあろうがなかろうが、事なきを得られたはずではないか。顔があったことに安心したのではない。安心に無事を得たい。
外に求めた末に、《自分の姿》より以前のものに若者は気づいたのかもしれません。
なぜなら、そこにこそ本質(こころ)があるように思えてならないのです。

陽岳寺のパンフレットにも「無事是貴人」について記しています。

「幸せ」とは「無事」とは何でしょうか?
臨済禅師は、それらを自分の外に追い求める
愚かしさを厳しく戒められました。
本当に大切なものは自分の内側にある。
「無事」のこころに気づいた人は貴い、仏であると。

「無事」のこころとは、心の底からの安心、
幸せ、無事の実感のこと。
まわりの人の無事を祈る、慈悲の心のこと。

「無事」のこころに気づくお手伝いをしたい。
いまを生きる、一人一人に寄り添いたい。
それが陽岳寺の願うお寺としての役割です。

「無事の人」とは「無事」を心の底から思っている人であり、まさしく「貴い人」、仏であろうという臨済禅師の言葉です。

すでにもうこのままで無事があったのだ。どうかみなが無事でいてほしい。無事の精神、無事の本質(こころ)を通して、わたしたちに「幸せ」について「無事是貴人」は説いているように思います。
平生、無事を思って暮らすことができていたならば、それこそ幸せである証拠となるのかもしれません。
まずは、あと1ケ月もありませんが、まず自分が今年を無事に終えて、来年を無事に迎えることでしょうか。そして、まわりの人の無事も祈りたい。
祈祷会にて、行く年の無事への感謝をお祈りいたしました。
どうか、みなさまにとって来年も無事に、良い年となりますように祈念申し上げます。合掌(副住職)

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