【コラム】平和を祈ります

投稿日:2022年5月12日 更新日:

YouTubeという動画閲覧ウェブサイトがあります。陽岳寺チャンネルにて動画の公開やオンライン坐禅会を続けています。毎週1本以上の動画を更新しており、5月末で開設して2年となります。

オンライン坐禅会おひらきの挨拶ではいつも「この後の生活においても、視聴者の皆さまの心身が健やかでありますことをお祈り申し上げます。」と祈念します。

併記もおこがましいですが、天皇陛下が挨拶のお言葉において、「安寧と、幸せと、平和を祈ります」と必ずお祈り下さることを思い出すからです。

どこかのだれかが私の健康を祈ってくれる。それだけで聞く人はうれしいかなという想いです。思い上がりではありません。

一言に平和といっても、「国家間の平和」。卑近な例でいえば「家庭の平和」、さまざまな平和がイメージされます。

平和を祈ります。真の平和はひとりひとりの心身の平和から始まると信じますが、私たちに平和のためにできることとはなんでしょうか。

◆平和のための3つの行動

①平和とはなにか?ひとりひとりが自分で考えること
②平和とはなにか?まわりの人と意見交換をすること
③意見交換の結果、それぞれが平和の方向へ行動すること

ひとつずつ見ていきます。

◆①ひとりひとりが自分で考える

平和とはなんでしょうか。どのような状態が平和でしょうか。

たとえば家族で旅行をする。旅行中の「家庭の平和」とは、楽しみのために必要です。

しかし旅行ひとつにしても、どの地域に、どの手段で、どんな場所に泊まり、食事をとる場所はどこで、旅行先での行動はどうするか? 考えて、決めるべき内容がたくさんあります。

たとえば山か海か、新幹線か車か、ホテルか旅館か、部屋食かレストランか、お部屋でゆっくり過ごすか街に繰り出すか…など。

勘どころを押さえずに適当にしてしまうと、家庭の平和も楽しみもどこかへいってしまうことでしょう。

では、どうすればよいか。構成要員ひとりひとりが自分で考えることです。他人事にせず主体性をもって平和について考える。家庭の平和も楽しみも、日頃の基礎が大切です。

国同士の平和も同様です。各国さまざまな歴史を経てきました。平和な期間や、平和のあり方もさまざまでしょう。解釈もさまざまです。ただし、自分の平和のために、他の平和をおびやかしてはならない。

◆②まわりの人と意見交換をする

考えたことをまわりの人と意見交換をします。考えをすり合わせる。

「わたしは旅館に行きたいけども、あなたはホテルがいいと言う。大浴場に入れるならホテルでもいいよ。観光であそこに行けるなら妥協してもいいよ。山は絶対無理」

たとえばどうしても譲れないラインもあるでしょう。この歴史の解釈はゆずれません、この文書は存在しません…など。

意見が完全に一致して着地できることは稀です。平和への道筋とは、すり合わせつづける根気が前提です。

◆③それぞれが平和の方向へ行動する

平和の方向へと行動にうつしていく。

旅行であれば、事前に、「ここが素敵だと思うんだよね近くに君が好きそうな雑貨屋さんもあるし」とアピールをしておく。

政治であれば、議員に対してロビー活動をする。外国地にて観光のための宣伝CMを流す、海外発エンターテイメントなどで他国民に良い印象の操作をしていく。

地道な努力です。まわりをまきこむ力。

◆ひとりひとりの心身の平和

国家間、家庭内、さまざまな場所において、平和とは大切です。

平和が脅かされていると心がザワザワする、落ち着かない、身体が傷つく。日常に暮らす私たちにとって、平和とは個人の幸せの必要条件です。わたしたちひとりひとりの幸せに、平和が直接に影響している。

そして逆に、真の平和とは、私たちひとりひとりの心身の平和から始まる。

心身の平和、調和をもとめるのが仏の道です。「安心」と漢字で書いて、「安心(あんじん)」と仏教では読みます。

病も無く健康であれば安心なのか、ここまで日本円があれば経済的に安心だ、子どもや孫に囲まれれば安心でしょうか。

人として生まれ年を重ねれば、五体満足を保ちつづけることのできる者は少ない。日本円の相対的な価値は世界経済において変化しつづけます。「親が死んで、子が死んで、孫が死ぬ。順番どおりにいくことは人間にとってめでたい」とは仙厓義梵禅師の言葉と言われるが、はたしてそのとおりにはいきません。お釈迦さまも弟子に先立たれては悲しみました。

ひとりひとりの心身の平和においても、上記の3つは有効です。
①個人の平和、すなわち「安心(あんじん)」とはなにか問うこと。
②まわりのひとと意見交換をする、法話を聞くなどして情報を集める。
③坐禅や写経、なにより家庭生活において慈悲の行動をする。

コロナも遠い隣国の戦争も不安ですが、いつかは収まります。その収まる安心のなかに、私たちは不安を抱えています。抱えながら、慈悲の心をもって平和とはなにか考え、お互いを励ますのですし、行動にうつすのです。

臨済宗は、ひとはみな仏である、と申します。仏心(ほとけごころ)があると信じ、安心(あんじん)のなかに、私たちは不安を抱えてオロオロします。オロオロしながら、安心とはなにか考え、お互いに励ますしかない。

大きな安心があってこそ、不安のなかで私たちは安心を問うことができるのでしょう。大きな安心とはひとつには供養から始まる。おせがきでは有縁無縁諸霊位に供養します。

地球上のさまざまな場所で、内戦や紛争の続く地域があります。震災があります。新型コロナウィルスをはじめ、感染症によって苦しむ私たちです。陽岳寺檀信徒の皆さま、世界中の人々のご自愛祈念申し上げます。平穏無事の安心をもって生活できますように。そして、三界十方の有縁無縁の諸霊みな同じく仏心を発揮せんことを。(副住職)

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