一切皆苦に関連して、すこしお話をさせていただきました。
「喪失」「ロス」を私たちは必ずいつか体験・経験することとなる。悲嘆、グリーフにくれるときがくる。
大切な家族が、ペットがいなくなってしまう。恋人と別れる。引っ越しで友人関係が離れる。
部活動を引退。学校を卒業しないといけない。
推しのグループが解散する。推しが脱退、卒業する。
できることができなくなっていく。
そんな「喪失」「ロス」が必ず自分の身にふりかかるのであれば、対処法について知っておいていい。様々な分野で研究がなされています。
たとえば「大切な人が亡くなった」とき、私たちは「こんなことになるなら、同じ時間を過ごさなければよかった」「あんなことを言わなければよかった」など思ってしまうかもしれない。
しかし、それは間違いなのです。なぜならば一切皆苦だから。
生まれたから死んだのです。
5:43 死亡の事実は、わたしの想いとは関係ない
愛着(アタッチメント):乳幼児と養育者との情緒的なつながりのこと。
安定した愛着は、子供にとって安全基地を作ってくれる。安全基地とは、エネルギー補給地、帰ってこられる居場所。この安全基地・安心感がこころの底に定着してあるからこそ、子供は新しい経験(ハイハイをする、小学校に行く、社会に出ていく)や、他人との関係性などに踏み出していける。人は
7:31 自分の底に安心を造成する
人が人として生きていく上で、人間の底の部分がないとシンドイ。その底の部分とは愛着、情緒的なつながりによって作られている。
人が人として生きるとは、わたしは生きていていいんだ、という安心を得た経験によって支えられている。
さらに言えば、わたしは生きていていいんだ、というエネルギー補給をし続ける必要がある。確認の手段が必要である。
その方法とは、たとえば情緒的なつながり。たとえば信仰:生まれたということ自体が生きていていい理由である。
しかし、私たちは時として、生きていていい理由を見失うときがある。
生まれたことそれ自体が、この私が生きていていい理由である。このことを見失ってしまうほどに、ショックなことに触れたら...。
そのひとつが、親しいあの人がいなくなってしまった時。つらい、悲しい。いままでの思い出が消えてしまう、上書き、上塗りされて無くなってしまう。だから...思い出が消えるのは避けたいな、と感じてしまう。一緒に時を過ごさなければよかった、と不安がこころをよぎってしまう。
そこには不安がある。「忘れる」ことへの恐怖がある、「故人を忘れる」ことへの認識の間違いがある。
11:11 忘れるとは、故人が私の底に吸収されている証明
そして、忘れるとき、吸収されるとき、気をつけないといけないことがある。それは
生まれたから死ぬのだ、という事実。...ここを地でいくことは難しいのですが。
忘れたくない、忘れる。死にたくない、死んでしまう。人は皆ままならなさに振り回されている。この前提:一切皆苦を踏まえておく必要がある。
ショックなことに触れると、この私が生きていていい理由を見失ってしまうから...
「親しかったあの人との思い出がたくさんある」とは、悲しみを積もらせます。私たちの心の底に、ベースに、沁み入れる材料がたくさんある。生きていく糧が多くある、と見出したい。