【コラム】徳は身を潤す

投稿日:2024年7月7日 更新日:

『徳は身を潤す』本堂に掛かっています。当時、臨済宗円覚寺派 寒光寺(現 慧然寺)住職を務めていらした建長寺管長 吉田正道老師の筆です。本堂に入って目の前の長押に掛かっていますし、法事前の一休み時、目に止められた方も多いかと存じます。

儒教において大切とされる、中国の四書五教のひとつ『大学』。「富潤屋、徳潤身、心廣體胖。(富は屋を潤し、徳は身を潤す。心広く体ゆたかなり。)」という言葉が書かれています。

財産が増えると家が立派になる。徳が身につくと品位も備わってくる。こころも雄大で、からだをゆったりとしている。あの人は徳が高いとも言いますが、禅門では「陰徳」が大事だと申します。陰の徳。誰かが見ていても、いなくとも、品性を正しくする行い。『大学』には「慎独(しんどく)」という言葉もあり、独りでいるときも慎んでいる。他人が見ていても、知らなくとも、この私はこの私の行為を知っている。この独りの身の上である境地のこと。

人柄を向上させるために習得すべき生き方を道徳と言いますが、仏教における仏道と重なるところがあります。

清らかな心で話したり行ったりするならば福楽はその人につき従う(法句経 中村元訳)

幸せに生きたい。

社会秩序を主にする儒教。世界の構造を理解し、自分を理解する仏教。どちらもともに目指す根本は共通しています。
お釈迦さまの言葉に近い法句経をご紹介しましたが、倫理的にも、理解できるという内容です。

時が来て、愛する人が死ぬと、親族知人が集まって来て、長い夜を徹して悲しむ。実に愛する人と会うことは苦しい。
それゆえに、愛するものをつくってはならぬ。愛するものであるということはわざわいである。愛するものも憎むものも存在しない人々には、わずらいの絆は存在しない。(法句経 中村元訳)

前後の文脈や、愛するとはどういう意味かを考えなければなりません。ひどいことを言うものだな!と激昂される方がいらっしゃるかもしれない。愛するものを作らないなんて虚無主義を認めるのか、と仰るかもしれない。

人の快楽ははびこるもので、また愛執で潤される。実に人々は歓楽にふけり、楽しみをもとめて、生れと老衰を受ける。
この世において極めて立ち難いこのうずく愛欲のなすがままである人は、諸々の憂いが増大する。(法句経 中村元訳)

ここで言う「愛する」とは、むさぼりの心を持って、とらわれること。この愛欲になされるがままでは、たとえば親しい人を亡くしたのであれば、本当に哀しむことはできない。

この愛欲の恐ろしさに気づいていないとあなたがあなたでいられる日常が奪われ続ける。あっという間に時間が過ぎて、諸々の心配や思うようにならないことの濁流に流される。

たとえば、スマートフォンでショート動画を次々に見ていく。時人を待たず。
今は亡きあの人に夢で会いたいから、とスピリチュアルにハマってしまう。道理に外れたことを求めてしまう心。
安いからといって、中国初ネット通販Temu(テミュ)やSHEIN(シーイン)のアプリをダウンロードしてしまう。目には見えないものの、あるはずの先を考えない。

人のこころの動きを知っているからこそ、とらわれを離れよと仏教は言います。

◆徳は身を潤す

生老病死。人は命を与えられ、歳を重ね、執着という病におかされ、寿命を終える。四文字に集約される人生ですが、ここに喜怒哀楽の情意はない。短く太い人生、細く長く生きたい、そういった色付けはない。生まれたら死ぬという事実には、否定も肯定もしない。

たしかに早逝は哀しい。大往生も哀しい。生まれたら死ぬ、そこに感情を揺さぶられるが、人智を超えてしまっていることだと理解する。世界の構成を知ることです。分かっている。それでも辛い。ではどうする。陰徳を積む。

7月や8月で言えば、先祖供養、故人供養をする。お盆に食べ物を用意して、故人に供えることだ。

供養を簡素化したり、小さなお葬式や家族葬といった言葉でラッピングしたり、陰徳を否定してはならない。世界の構造を軽視すると自分が辛い目に遭ってしまう。

家族には迷惑かけられない。その先にあるものはなにか?バレなければいい。あとは知らない。自分さえ良ければいいという愛執なのだ。

徳は身を潤す。他人が見ていても、知らなくとも、この私はこの私の行為を知っている。陰徳は無意識下にも影響する。

たとえば無著は、仏の教えを繰り返し聞くことで、お寺にいると線香の匂いが染みつく(薫習:くんじゅう)ように、無意識下の深い部分に悟りの種が付くと言う。

お盆には今は亡き親しい人たちが帰ってくる。お天道様には見えない日陰でも戻ってくる。自分の身に引き寄せて故人を懐かしく思い出したい。

もしも自分を愛しいものだと知るならば、自分を悪と結びつけてはならない。善いことを実行する人が、楽しみを得るということは、いとも たやすいからである。(法句経 中村元訳)

(住職)

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