【コラム】健康体

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健やかなる成長を、とにかく丈夫で、健康であること、幸せになってほしい、と親は子供に願うものです。
我が子も3歳半となり、乳児から幼児になって、ケガの絶えない時期を迎えています。頻繁に風邪もひきますし、新年早々インフルエンザにかかりました。子どもはすぐに元気になっていましたが、うつされた大人は快復が遅く、健康の大切さと助けてくれる周囲の人の有難さを痛感しました。
仏教のはじまりをつくったお釈迦様は、悪いものを食べたことをきっかけに体調を崩し、2月15日に亡くなられたと日本において伝えられています。年末年始は気温も下がり、インフルエンザや花粉症の流行時期でもあり、健康について考えさせられるタイミングと言えるかもしれません。
ここでひとつ、みなさんと一緒に健康について考えてみたいと思います。

健康、健康体のイメージとはどのようなものでしょうか。
たとえば…元気、明るい、病気ではない、赤い、快食快眠快便、ストレスがない、体力の衰えがない、人間ドックや健康診断で指摘がない…などが思いつきます。

WHO世界保健機関の憲章にある、健康の定義を参考にしてみます。1998年に新しい提案がなされたものです。
『健康とは、病気でないとか、弱っていないという[健康と病弱を別のものだと分ける]ことではなく[連続している、つながっているものです]。肉体的にも、精神的にも、[魂的にも]そして社会的にも、すべてが満たされた状態にあることをいいます。』(拙訳)
元気なときもあれば辛いときもある…というように、つながっている・連続している。たしかに、病気を抱えながら生きることは当たり前ですし、数値があとすこし高かったら検査にひっかかる、ということもあります。
さらに、身心だけではなく、魂・こころの深い部分として充たされていること、それが健康である…と定義されています。

分かりづらい、グレーゾーンの広い定義ですが、そうかもしれないなと頷きます。健康とは、充たされているかの自覚が求められる。こころの底から、そうだね、とうなずける・充たされている。
外見としては元気そうだが、持病がありながらも、充実して生きている。健康体のイメージから遠いように感じますが、理想のようにも思います。
健康とは「充たされている」という言葉ではなくて、「充実している、イキイキしている」かどうか…という言葉が近いかもしれません。

それでは「充実して生きている、イキイキしている」とはなんでしょうか。

「どこで・だれと・どのようにして暮らすか」。これが人の道であり追求するところであろう、とお釈迦さまは言います。
どのような場所でも、だれとでも、智慧と慈しみの目を持って自由に生きようと。

ひともし 心つつましく
善を行ずるものを 友に得ば
すべての危難にかち
よろこび深く
共にいくべし

行いをなしおわりて
こころに悔いなく 顔に喜笑あり
おもいたのしく その果報をうく
まこと かかる行いは
善くなされたるなり

その罪業の熟するまで
おろかの人は
これを蜜のごとしと思い
その罪業 まさに熟するの日
彼ははじめてくるしみを嘗む(法句経)

どこで。家庭、学校、職場、病院、地域で。
だれと。家族、同級生、同僚、たまたま同じ電車に乗った人と。
その状況を認識し、受け止められているか。他人に、自分に、やさしさが持てているか?と法句経に尋ねられているようです。

お寺として、多くの見送る人々に接して思うことは、幸せだなぁと思うにはその状況を少しでも受け入れられていることが求められるのではないか、ということです。
いまの私たちが生老病死をまるごと受け止める…とは難しいことですが、すでに生老病死の姿を見せてくれている人がいます。それは先に逝った親しい人々。
充実して生きる。真の健康を教えてくれるのは、故人と言ってもいいかもしれません。健康の多様性と、健康を支える営みの多様性と、普通の健康の難しさについて、そのお姿で教えてくれている。
どのような人も、辛い状況すべてをありのまま受け止めて亡くなるなどできませんが…。

「どこで・だれと・どのようにして生きるか」と問われたならば、生きている人のことを頭に思い浮かべるかもしれません。ここで「だれと」に故人を思えば、偲ぶことにもなり、今をともに歩むことにもなり、なによりの供養ともなりましょう。
老いながら、病を持ちながら生きていくのが当たり前の「たかが健康」ですが、そうは言っても辛いものは辛い「されど健康」です。
本来私たちは、どちらも自由に行き来している健康体。しかし病になると「されど健康」から抜け出せなくなってしまう。

春彼岸。こちらの岸から、あちら側・彼の岸を、特に思いをはせる期間とも言えます。墓前で、仏壇の前で、ふっと風の吹いたとき、偲ぶことは、故人とともに生きることとなる。
自由に生きるために、「されど健康」を少しでも受け止めるために、充実して生きるために。故人に学ぶことがあるかもしれないと彼岸に思います。(副住職)

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