【コラム】禅語「両忘」

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昨年末「般若札」をお送りするとともに、「匿名アンケートはがき」をお送りしました。年始にかけて、たくさんお返事いただきました。ありがとうございます。
問3として、「今年楽しかった/笑ったこと」または「不安に思うこと」を自由欄でお書きいただきました。じつは、この設問にお答えいただくことが本意でした。
コロナ禍となり、気持ちのすさむ毎日です。そのなかでも「今年楽しかった/笑ったこと」を見出していただきたいと思ったのです。
年の初めからコロナに振り回された私たち。社会情勢の変化もあり、モヤモヤとばくぜんとした悩みを抱えていませんでしたでしょうか。いまも抱えていませんか。そういうときは、形にしてはどうか。「不安に思うこと」を文字にして、吐き出していただきたいと思ったのです。
一枚一枚読ませていただきました。多くのおはがきに「コロナが心配、不安」と書かれていました。

【コラム】禅語「両忘」

日本に住む私たちはいま、引きこもり生活を自分自身に課しています。大変な中、さまざまな場所で働いてくださっている方々には頭が下がります。本当にありがたいことです。

このような状況が1年も続いている。これからも、まだこの冬眠の生活は続くでしょう。お天気が良くても、見えないなにかに覆われていて、こころが晴れない。そんな私たちになにか助けとなる言葉はないかと探していました。
禅語「両忘(りょうぼう)」をご紹介します。

両方を忘れると書いて「両忘」。
Aを思うとBが心の中に生まれ、またAが、そしてCもあぶりだされる。そのように思考がどうどう巡り・がんじがらめになってしまうときがあるものですが、その両方を離れる。二元対立を離れる。距離を置くのではなく、忘れる、を「両忘」といいます。

『趙州録』にある僧と趙州和尚とのやりとりにこうあります。

僧問う、「如何なるか是れ道」。師云く、「墻外底(しょうげてい)」。云く、「者箇(しゃこ)を問わず」。師云く、「なんの道をか問う」。云く、「大道」。師云く、「大道長安に通ず」

「大道、長安に通ず」は禅語としても知られています。すべての道はローマに通ず、のように、大道の行きつく先は目的地にしっかりと通じている。僧侶に仏の道とはなにかと聞かれた趙州和尚は大きな道をこそしっかりと歩んでいけ、大きな道こそ長安に通じるという大信根(信じきる)が大事だと説きます。
当たりまえのことをし続けていくこと。この大きな道を外れていくよう誘うものからこそ離れる必要があります。忘れる必要がある。
離れるの上をいく、忘れるが「両忘」です。
ひとが自分で思った意識から離れることは難しいのだ、と言われます。
「ピンクの象のことを想像しないでください」と言われたら、ピンクの象さんが頭から離れないようにです。離れよう!とすると、どうしても意識してしまう。意識してしまうとひきずられて、本来のこだわらない・かたよらない自分ではなくなってしまう。
引きこもっている私たちですが、不用意にテレビをつけてワイドショーを見てはいけません。外の意見に簡単に人は引きずられるからです。テレビにはテレビの、新聞には新聞の、右には右の、左には左の立ち位置があり、そのポジションからニュースという外皮をかぶせた内容を放送しています。ポジショントークを取っているからこそ信頼できるのかもしれませんが。外皮をかぶっている、前提としてポジションがあってそこから発言していると分かっていながら、メディアを見なければなりません。そうすれば、離れることはできる。しかし離れるの上をいく、テレビを忘れるにはどうすればいいか。
なにかに没頭する。自分のするべきことをするだけ、ということです。
なんてことはありませんでした。ただの日常を過ごす。朝起きて、お手洗いをすませて、お仏壇のお水をかえてお線香を供えて、ごはんを食べて、と。日常茶飯事という大道です。いやそんな無為なことを思うかもしれません。

お笑い芸人 髭男爵の山田ルイ53世の姿勢

お笑い芸人の、髭男爵の山田ルイ53世という方がいらっしゃいます。彼は文才が認められて本を出版していたのですが、自身の引きこもり経験について発言していたことを思い出しました。その内容とは、
「引きこもっていた時期は、むだだった」と彼は言うのです。
美談にもなるのに、うそだとしても、「あの時期があったから、いま私は売れたのかもしれない」くらいは言いがちなのではと思うものの、そうはしていなかったのです。
失敗や無駄を許さない時代・社会において、なかなか言えるものではないと思ったのです。
彼の勇気のある姿勢。自分が失敗していた、できなかったことがあった、無駄な時間が、青春のなかにはあったことを吐露している姿。そして自身の人生に真摯に向き合った結果の言葉だと胸を打たれました。
いまコロナ禍で、わたしたちは自身にひきこもることを課しています。この引きこもり生活。仕事にも行けない。ただ起きて、ご飯たべて、出すものを出して寝るだけ。無為にすごしている。この無駄な時間を、糧にするわけでもなく、そのままでもいいじゃないかと。山田ルイ53世さんの言葉には学ぶところがあるように思います。

粘菌

陽岳寺では法事の際、日本語で文章を朗読します。昨年の暮れから、住職作の日本語の回向に「粘菌」についての語りがあります。
粘菌。菌ではない、脳を持たない単細胞生物。環境に応じて集合体となり胞子を飛ばしたり、冬眠したりする生物です。
粘菌も迷路をとくことができる、とニュースにもなりました。ふしぎな生き物です。粘菌は、生きにくい環境だ!ストレスを受けている!と気づくことができて、ストレスを受けたらばカラにひきこもるというのです。
しかもストレス環境を学ぶというのです。生きにくい環境が無くなるまで待つ、去ったらば再活発化する。そうして粘菌は数千万年と生き残ってきたといいます。
粘菌は、10年後、100年後なら事態が去っているはずと思って休眠しているわけではないでしょう。ただ休眠しているだけです。
わたしたちは迷路を解くことができる現象を見て、粘菌にも知性があると判断しましたが、本当の知性とはなんだろうかと考えさせられます。

両忘(りょうぼう)

ただ待つ。医者でもないので、薬をつくることもできませんから、待つしかありません。
たしかに、すこし先に楽しみを置いて頑張るのもひとつです。お取り寄せをしてみたり。
ただ、良いことをおくと、良いことの反対が生まれます。ネガティブに想いが引きずられることがあるかもしれません。
楽しんでいる人たちがいるのに、なぜ自分は、と思ってしまうかのようにです。
いいこともわるいことも、コロナあけのことを考えることも、どちらも忘れる。引きこもりが続いて嫌だなと思うことも忘れ、テレビでとんでもないことをしている人のことを見るのもやめて、忘れる。ワイドショーを消す。せめてラジオにしておく。
自分自身を責めるのも忘れて、自分自身に課しているということさえも忘れて、日常を送ることが大切なのではないか。買い物や外出するときは、感染してしまう・感染させない対策をとる。粘菌のようにストレス環境下におかれたらば、そのことも忘れてじっと待つように。
髭男爵山田ルイ53世さんのように、引きこもりのことを、生産的・無駄という二元対立を越えて、その時期はただそういう時期だった。そのままに無駄な時間を過ごしたのだと胸を張ってもいい。これがひとつには、現在の状況に立ち向かう姿勢ではないかと思うのです。禅語「両忘」をご紹介しました。
どうぞみなさまの心身ともに健やかなることを祈念申し上げます。

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