【コラム】他のありえた「私」

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【コラム】他のありえた「私」

他のありえた私や、他のありえた状況を空想することはあるだろうか。

たとえば、この人と結婚していなかったら。あの仕事についていたら。あと5分早く家を出ていたら。

このように想像できるのは、人間に許された能力だろう。

失敗や後悔は脳に刻み込まれる。本能的に死を恐れるためだ。ホモサピエンスは農耕より狩猟していた時間が長かったため、日常において死と隣り合わせだった時間が長い。現代人の感覚とは違うが、脳の出来はそうなのだ。

たとえばクマ。クマに遭遇したら死ぬ。こんな状況のときクマが近くにいる。……だから、山を登る人はクマについて学ぶ。

失敗や後悔を感じた状況と、また同じ状況になれば死んでしまうため、そのような事態にならないように想像の力を膨らませ、防ごうとする。

また同じような悲劇をくりかえしたくない、切実な思いから発せられる。

他のありえた私や、他のありえた状況を考える行為は、すこぶる健康的なのだ。

◆健康、安心、安楽、安養

たしかに死を避けるためであれば健康的である。しかし、他のありえた私や、他のありえた状況を考えすぎることはよくない。健康的ではない。気持ちが落ち着いていない。こころ楽しく、からだが安らかではない。人のあるべき姿とは言い難い。

まわりの人を見て、想像をしてみて、

  • こうだったら、ああだったら(貪欲)
  • なぜこうじゃない、ああじゃないんだ(瞋恚)

といったことを思いすぎること。それは、まちがった見方(愚痴)である。

しかし、考えすぎてしまうのも私たち人間である。自分を自分でひたすら傷つけるように、思い悩んでしまうのだ。

家を出るのがあと5分遅ければ事故に巻き込まれなかったのに。あの時、ああいうふうに言えば誤解されなかったかもしれない。

後悔にまみれ、生き恥をさらすからこそ私たちは人間らしい。

だが、本当は避けたいし、後悔ばかりでは困る。ではどうすればいいか。ここを分かっていながら「他のありえた自分」について考えないことと、「いま・ここ・わたしの偶然」を引き受けることだ。

◆いま・ここ・わたしの偶然を引き受ける

パラレルワールド・多重世界という概念がある。並行世界、平行世界。

私たちがいるこの世界と並行して存在し、同じ次元を持つ別の世界のこと。もしくは、ある世界から分岐し、平行して存在する別の世界(時間と空間)とも言う。

例えば、ある選択をして、その選択肢を選ばなかった場合の「世界線」が存在するとも考えることになる。つまり、私たちの存在している世界とは異なる「世界線」が、同時に存在しているという概念である。

果たして他の世界線は存在するのだろうか?

事故が起きる前の世界線に戻りたい。あの時、余計な一言を言わなかった私でいたい。お風呂で背中を流してあげられた平行世界の私でありたい。

このわたしの命には、人生一度きりという唯一性がある。大変に認めがたい、残酷で非情なあり様である。

他の世界線はあるかもしれない。あるかもしれないが、なんにしても、いま・ここ・わたしの偶然がある。

ここを引き受けなければならない。

一回きりのいま・ここ・わたしを引き受ける。そうでなければ、自分だけの固有の「生きる」がはじまらないのだ。

◆他のありえた「私」を考えない、とは

資本主義社会の中で泳いでいくには、時流を知り、体力やライフハックを知らねば生きていくことが難しい。

かといって流れに乗ることだけに励んでいては、それでは生き急いでしまう。

逆流するのもつらいだろうし、しずんでしまう。努力をやめて、降りればいいというものでもない。他のありえた「私」を考えない、とは……自分をコントロールすることではない。世界をありのままに見ることだ。(住職)

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