【コラム】もう一回

投稿日:2017年8月30日 更新日:

今月で子どもは2歳となりますが、よくしゃべるようになりました。自分にとって気に入らないことに対して「いやだよ」と言っては、あきらめません。絵本を読み終わると「もう一回」と人差し指をたててせがんできます。
よく言えば、自分の気持ちに正直で素直なのでしょうか。たとえ積み木がうまくいかなくとも、何度もチャレンジする。失敗しても、出来なくても、うまく出来たとしても、楽しんで「もう一回」です。
子どもは遊びのなかから多くのことを学びます。運動能力、知的能力を高められ、闘争本能が磨かれます。どのようなルールがあり、自分はどのような態度をとるのか、という状況把握能力と決断力が試されるのです。

遊びとは不思議なもので、人の生産的生活(食う寝る着る住む)に必要のないものです。
それでも大人も子どもも遊びに熱中します。
遊びのことを余裕と言い換えることがあります。心の充足には遊びが必要不可欠といいますから、人がどんなことでも「遊び」にすることができるのは道理です。

「遊び」には多くの特徴がありますが、わたしが一番気に入っている特徴は、勝っても負けても、もう一回!ができることです。
勝っても、もう一回!負けても、もう一回!
そこには正否や勝ち負けの意味がなく、便宜上のものであり、ただ「遊ぶ」ことが目的になっています。
失敗しても楽しいし、勝っても楽しい。ただ遊ぶことが楽しいのです。これが「もう一回」の心です。
勝ったらこうしてやろう、と企んでいつつも、負けると本気でコンニャローとなる。・・・それも最後には楽しいと言えるのが「遊び」でしょう。
楽しいと言わず、今までの時間すべてが無駄であったと決めつけてしまうのは遊びではない。むしろ、自分の意志で本気でなければ遊びではありません。

社会一般では、失敗や負けることは避けた方がいいと教えられます。
勝ち組・負け組という言葉がかつて流行しましたが、人生の上で本来は勝ちも負けもないものでしょう。ある視点から見たというルールの上で勝った/負けた、と思い込んでいるにすぎません。
良い学校に行って、良い会社に行って、永久就職することが人生の勝ちである。では何に勝ったのか、勝てなかったらダメだと決めつけてしまう根元にある思いは何か、そもそも負けとはなんなのか。

いま私はけん玉がマイブームなのですが、技に失敗はありません。ルールの上では、「できた/できなかった」の正否に分けられますが、「できなかった」の中にこそ「できた」があります。
けんに刺すことはできなかったけれども、球をまっすぐ上げることはできた。では次は、球が落ちてくる場所にけんを構えよう。では次は・・・、では次は・・・、と「できた」への道を見出すことです。さらに言えば、「できなかった/できた」もありません、ただ「けん玉」だけです。
けん玉でも仕事でも、失敗を恐れると、楽しくありません。これを出来るようになろう、と目的をかかげて達成する。達成したかどうかという結果ではなく、その道のりが楽しいのが「遊び」です。失敗してはいけないという気持ちは身体を、脳をこわばらせてしまう。失敗してもいい。
最後には楽しかった、では次は・・・と自分の意志で見出すこと。この2つの「遊び」の心が「もう一回!」に隠れているのではないか。
遊びだから、けん玉だから、とバカにはできません。逆に、どんな辛いことも、楽しいことも、すべては遊びです。遊戯三昧という禅語がありますが、自由自在であることの表れとなります。
鬱になってしまいそうなほど辛いのであれば別です。休んだ方がいい。
しかし、失敗しても、出来なくても、うまく出来たとしても、最後には楽しんで「もう一回」。この「もう一回」の心を私も大切にしたいと思います。

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