【コラム】見ている人がいる

投稿日:2017年10月12日 更新日:

陽岳寺のご本尊は観音さまです。十一面観世音菩薩ですが、多くの顔があり、それぞれに世の中(で起きている音)を観察・見守ってくださっていらっしゃいます。

今は亡き人も仏さまとして、観音さまになっているかもしれません。

お彼岸とは、彼の岸であり、向こう側・あちら側です。どうしても今を生きている私たちと、亡くなってしまったあの人たちでは、住んでいる場所・暮らしている時間が違います。しかし、思うことはできます。懐かしむ、思い出す、偲ぶことができます。

こちら側が向こう側を思うならば、あちら側も同じようにこちら側を思ってくれているのではないか。人と人が対面してお互いを見るということは、お互いに見られることでもあるようにです。

しかし故人の場合、こちらから目に見えるわけではありません。だからこそ、仏さまとして、観音さまとして見守ってほしい。仰ぎ見る存在として、観音さまという仏を人にかたどり、仏像を拝するのでしょう。

家の外では、馬頭観音やお地蔵さん、と道端にお祀りするのかもしれません。そして、家の中ではお位牌を並べて、仏壇・仏間として、家や家族を見守っていただくのだとも思います。本来、仏さまとは家屋の壁紙や国境など関係なく見守っていらっしゃるわけではございますが…。

さて、そんな仏壇に祀られる過去帳とは、自分につながるご縁について記された帳面です。その内容は、すべてのご先祖様を記すことはできませんから、一定の範囲内でおさまっているものです。

「三界萬霊」という言葉があり、お施餓鬼にてご供養いたしますが、「三界萬霊」を言い換えてみれば、全世界の萬の霊、有縁無縁のとにかくたくさんの霊のことを示します。そして「三界萬霊」をご供養する意味とは、ひとつには、自分につながるご縁の深さ・広さの確認です(陽岳寺では、お位牌をたてて、檀信徒の皆様と和尚様方をお呼びして5月第3土曜日に施餓鬼会を行っています)。

わたしの今を形成するご縁とは、ご存命・鬼籍に入られているなど関係なく、あまりに深く、広く、一見関係のないと思われる人も含まれています。それはつまり過去帳に記されていない人たちも含んでいるということです。覚えている故人もいれば、忘れられた人たちもいるでしょう。

わざわざ過去帳に記すことの理由のひとつは、忘れないためです。おひとりおひとりのお名前と、お仏名と、没年月日、そしておいくつで亡くなられたのか。

しかし、忘れることも大切なことです。忘れるということは、それだけ私たちが日常に即して生きている証拠でしょう。亡き人が、先祖や三界萬霊と合流している、溶け合っている、大いなるものとなっていることと言ってもよいかもしれません。

お仏壇にお参りしたり、年回忌やお墓参りにて、節目に思い出すことは、亡き人の命を引き継いでいるなと確かめること、あなた方のことを忘れていませんよと表現することと言えます。と同時に、忘れていることのお互いの安心を確かめる側面がありましょう。

見ている人がいる。故人は仏さまとして、こちら側が思うに思わないにかかわらず、彼の岸から私たちを見守っていてくださる。この彼岸に思いました。

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