【コラム】菩薩願行文

投稿日:2019年7月1日 更新日:

陽岳寺は臨済宗のお寺です。臨済宗とは、日本における伝統仏教のひとつです。仏の教えと書いて、仏教です。仏とは、仏教のはじまりをつくった人間、お釈迦様のこと。

彼はわたしたちと同じ人間です。人間として生まれ、悩みを抱えます。その悩みを解決しようと出家をし、「自分の存在を揺るがすような疑問に対して、自分と向き合い、答えを見いだした」のでした。

「自分と向き合い、答えを見いだす」とは、「問題とその問題への奥深い解決策は、私たちの内側にある。外側にはない」「すばらしいなにかを、わたしたちは備えている」と信じていることを指します。

 

さて、息子も3歳半を過ぎ、利口になってきました。聞きたくないことは聞いていないふりをしますし、こうしなさいと注意すれば「分かった分かった」と返事をします。

まるで今の自分の様です。

「子は親の鏡」「他人は自分をうつす鏡」とは真理です。あるとき私は気づいたことがあるのですが、それは…自分の子どもや他人に対しての行いとは、「他人は自分をうつす鏡」、自分自身に対しての振る舞いでもあり、自分がふだんどのような心持ちで暮らしているかをあぶりだすものなのだと。

言うことを聞かないのでカッとして手をあげそうになる、大声を出して「こうしなさい!」と言ってしまうのですが…。その行為は子どものために…とは本当でしょうか。

いや実は

  • 感情にふりまわされて、他を より大きな力で押さえつけても、いいのだ。
  • 大きな声で威嚇しても、いいのだ。

という心持ちを他者に対して持っているからこそ、そのようにしてしまうのではないか。この心持ちは間違っています。反省です。

同様に、傍若無人でも仕方がない、と自分自身に対しても、思っているからこその行動の表れでもあります。このような姿を子どもに見せれば、「それでいいのか」と子どもは学習してしまう。親の姿を見て、子どもは育つのですから、このままではいけません。

「自分と向き合い、答えを見いだす」とは、「自分の考えにとらわれたまなざし」を転ずることが求められます。親として、人としての在り方への問いかけでもありそうです。

 

今回は、親として、人としての在り方に答えるヒントをとあるお経に求めてみます。

そのお経とは、昭和初期以前に活躍した禅僧、間宮英宗師がつくられた『菩薩願行文(ぼさつがんぎょうもん)』です。修行道場にて今でも読まれています。お通夜やお葬式のなかで、わたしもたまにお読みしています。

参列する私たちはこのように暮らしていきたいではないか。亡くなられた先に逝った方に、私たちをどうかこのように導いてほしい、見守ってほしい、という想いで読んでいます。

 

子どもの行為を見れば、感情がざわめきます。まるで子どもはすべてが分かっていて、親として試しているのか?と思うほどです。

 

設え悪讐怨敵と成って吾を罵り吾を苦しむることあるも、此れは是れ菩薩権化の大慈悲にして、無量劫来、我見偏執によって造りなせる吾が身の罪業を消滅解脱せしめ給う方便なりと(経文より)

たとえ恨みごとを言ってくる人、苦しみを与えてくる人がいたとしても、その愚かな人の姿とは「菩薩の仮の姿」なのだと考えてみよう。こどものときから、してしまっている、過度な利己的な欲にとらわれている私の行いの積み重ねを無くそうという姿なのである。(経文/意訳より)

 

子どもは可愛いです。その可愛い姿も、素直さも、まるで仏さまのようです。子どもの姿となって、このわたしに人としての在り方について願い働きかけている菩薩ではないか。そのように、菩薩願行文は教えてくれているように思いました。

気に入らないことが起こることなど、日常茶飯事です。しかしそれは「過度な利己的な欲にとらわれている私の行いの積み重ねを無くそうという姿」と見いだしたい。

子どもが変なことをしても怒りを覚える必要性は、本来は存在しない。わたしたちがすべきこととは、感情的に反応することはあったとしても、ただ素直に聞いて、見て取るだけです。難しいことですが…。

難しいけれども、自分は人としての在り方について「菩薩」を願い行うこととしたい。

ではどうすればよいか。

むかしの人たちは、食用の動物、道端にいるような動物等々にも、手を合わせる心持ちで、愛情を持って、接してきた(経文/意訳より)

この「合掌礼拝の心を以って愛護し」ていくのだと決めてしまう。日々手を合わせていくことが大切なのかもしれません。


菩薩願行文

弟子某申、謹んで諸法の実相を観ずるに、皆是れ如来真実の妙相にして、塵々刹々、一々不思議の光明にあらずということなし。

之に因って古え先徳は、鳥類畜類に至るまで、合掌礼拝の心を以って愛護し給へり。

かるが故に十二時中吾等が身命養護の飲食衣服はもとより高祖の暖皮肉にして、権現慈悲の分身なれば、誰か敢て恭敬感謝せざらんや。無情の器物猶然り。況んや人にして愚かなる者にはひとしお憐愍眷念し、設え悪讐怨敵と成って吾を罵り吾を苦しむることあるも、此れは是れ菩薩権化の大慈悲にして、無量劫来、我見偏執によって造りなせる吾が身の罪業を消滅解脱せしめ給う方便なりと一心帰命言辞を謙譲にして深く浄信を起さば、一念頭上に蓮華を開き、一華一佛を現じ、随所に浄土を荘厳し、如来の光明脚下に見徹せん。

願わくはこの心を以て普く一切に及ぼし、我等と衆生と同じく種智を円かにせんことを。

 

菩薩願行文(意訳)

世の中を見れば、どこかしこも、いつでもすべて「本当に大切なもの」「見るべきものの姿」というものが示されている。むかしの人たちは、食用の動物、道端にいるような動物等々にも、手を合わせる心持ちで、愛情を持って、接してきたのはそういうことだ。

1年365日休むことなく、毎日わたしの命を保ってくれている衣食住もろもろとは、先に逝った人たち、仏様、カミ様が慈悲のこころで、仮に現れた姿でもあるのだ。その事をかんがみれば、どのようなものであろうとも、うやうやしく敬い、感謝の気持ちを持って暮らしていきたい、とならないだろうか。

ただの「もの」も同様である。まして、愚かなと思ってしまうような人についても、私たちはあわれみ深く思えないものか。たとえ恨みごとを言ってくる人、苦しみを与えてくる人がいたとしても、その愚かな人の姿とは「菩薩の仮の姿」なのだと考えてみよう。こどものときから、してしまっている、過度な利己的な欲にとらわれている私の行いの積み重ねを無くそうという姿なのである。身体をつかった行いだけではなく、言葉をつつしみ、こころのなかで「あいつを傷つけてやろうか」「大したものではない」など思わないようにしたい。いまこの瞬間に、やさしさを持てば、花がさくようにこのわたしは笑顔になる。ひとりひとり笑顔になれば、それはまるでここそこに仏さまが現れたことのようなものだ。この身の上にも、口から発する言葉も、心持ちも、本当に自分や他人を思っての行動に依っているならば、自分の人生をその人は歩んでいる、と言えないだろうか。

どうか、このように生きとし生けるすべてに、先に逝った人たち、仏様、カミ様による慈悲のこころが注がれますように。自分の思い込みや慢心をどうにか解決できますように。

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