【コラム】どうもしようもない

投稿日:2019年8月5日 更新日:

7月7日午後2時より初盆・お盆合同法要を行いました。約50名の方々にご参列いただきました。ありがとうございました。
陽岳寺は7月をお盆としております(7月13~16日)。7月盆までに納骨をされました方を初盆としまして、合同法要の案内をおはがきにてお知らせしております。来年も同様に法要を致したく存じます。
お盆は日本に住む私たちにとって、切っても切れないご縁があります。とくに初めてのお盆は大切です。全ご家庭にお伺いしてお経をお読みすることが難しいため、お寺での合同法要を設定しております。
初盆でない方もお位牌やお写真をお持ちになり、ご来寺されます。どうぞ来年もお参りください。8月盆は8月13~16日です。

【コラム】どうもしようもない

お盆には、親しかった亡き人が帰ってくるといいます。
人が亡き後も、まるでいらっしゃるかのように準備し、用意し、対応する。
お盆とは、人が亡き後の残された者たちによる、どうもしようもない気持ちをやわらげる仕組みでもあり、悲しむ生者に対しても、死者に対しても、慈しみや愛からくる行動なのだと思います。
まったく、どうもしようもないね。笑っちゃうね。仕方ないものだね。
それでも…。
食べ物や飲み物を供えたい。香りを届けたい。みなで集まりたい。手を合わせたい。
故人のことをまざまざと思い出し、身近に思うからこそ出てくる。慈しみの目で見通す、親しみや愛のある行いがお盆なのでしょう。

さて、仏教をはじめた人、お釈迦さま。そのご生涯について様々なお経と日本語訳書がありますが、とある本の最後の1章に「お釈迦さまが亡くなられた後の、弟子たちのやり取り」が書かれていました。
とある2名の修行僧たちのやり取りについてご紹介いたします。

お釈迦さまが亡くなられて幾日か経った。年老いてから出家した とある修行僧が仲間たちにこのように言いました。
「友よ、悲しむなかれ。われらはいまこそ、かの修行者よりまったく まぬがれることを得たるなり。『これは汝らに許す。これは汝らに許さず』とて苦しめられしが、いまやわれらは欲するままになし、欲せざるままになさらずをうべし」
すると、別の修行僧が仲間たちにこのように言いました。
「友よ、悲しむなかれ。友よ、げに師はかつてかく説きたまいしにあらずや。『愛しき者といえども、すべては生き別れ、死に別れ、死してのち境を異にす。友よ如何ぞ。このつくられたるものの やぶれざる、かかることわりあることなし』」
慕っていた方を亡くして悲しむ仲間たちの中にいて、前者は、(お釈迦さまという)いろいろとうるさいことを言う人がいなくなったではないか、やりたいことをやりたいままにやれるようになった、と告げました。
後者は、お釈迦さまの教えを繰り返しました。愛するものとの別れは筆舌に尽くしがたいが、世の真理であると。

ふたりの発言は、様々に解釈できます。
前者の発言を聞こえないふりをしたのか、後者が「友よ、悲しむなかれ」を上書きするように、「友よ・・・」と続けているように読むこともできます。お釈迦さまの教えを思い出すのだ、と。
後者の発言は修行僧らしい言葉であり、前者はまさに怠慢です。文章には前者の発言をいましめる様子は見られません。しかし、発言として残されてはいる。
前者の発言を残すことによって、後者を持ち上げる意図もないでしょう。
むしろ怠慢な発言によって、すくわれている人間もいるのではないか。いくらお釈迦さまの弟子たちだからといっても、ただの人。心情の吐露、ポロリと出てしまうのは人間らしいとも言え、どこか安心している自分を見つけました。

禅門では、悪口によって相手をたたえるという手法が取られます。「抑下の託上(よくげのたくじょう)」と言います。口でけなして心でほめます。
たとえば悪友のことを指して、「あいつはどうもしようもないやつでさ」などでしょうか。
「うちの息子は本当にどうしようもないのです」とは違います。これはいけません。子供の面前で言うなどもってのほかです。
ここには親しみや愛がなくてはいけません。
前者の修行僧の発言には、どうしても人にはやらかしてしまう時があるのだ、という愛が見えるでしょう。
後者の修行僧は前者の発言を見て見ぬふりをして、大切なことを今一度さとしています。周囲の仲間たちも頭越しにしていました。まったく、どうもしようもないやつだと。
はたまた、場を和ませるために言う必要があるけれども、言うことが難しい。しかし、誰かが言った方がいいかもしれない。前者の修行僧はこれが自分の役目だと思い、発言したのでは…。お釈迦さまは生前も没後についても教え諭してくれていたのに、こんなに悲しんでいるだけなんて、まったく残された私たちとはどうもしようもない。そして、教え導くことが結局はできていないお釈迦さまもどうもしようもないとも言えるし、わたしたちは死後もお釈迦さまに試されている…。
前者の発言を受けて、後者は「自分たちはしっかりしなければならないだろう、お釈迦さまが言っていたではないか。愛するものとの別れは必然であり、苦しいのだと。このことを受け止めることができなければ、弟子とは言えない。このままではいけない」と、再び教えを繰り返したのでは…。
深読みでしょうか。
前者も、お釈迦さまの教えを繰り返した後者も、気持ちは同じでしょう。仲間たちが死者を悼み、嘆き、悲しむ姿への投げかけの言葉です。どちらも慈しみの目で見通す、親しみや愛があると思えないでしょうか。

人の手にあまる事態に直面したとき、私たちはどうもしようもありません。
お釈迦さまの弟子たちも同様でした。悲しみにくれる者もいれば、耐える者もいた。バカになる者もいれば、まっとうな者もいた。どれも、故人のことをまざまざと思い出し、身近に思うからこそ出てくる行いです。

故人について、しっかり思い出そうとしても、なかなかできなかったりするものです。
年回忌やお墓参りとは、ひとつには、お盆同様、亡き人を自分の身に引き寄せてしっかり思い出す機会を与えてくれるものです。
7月や8月であれば、お盆によって、しっかりと思い出そうとする。あんなことを言っていた、こんなことしていた。
辛いのに、なぜ思い出す必要があるのか。
それは、いまの自分に必要だからではないでしょうか。
…お母さんはこれが好きだった、では自分だったらどうか。お父さんはこんなことをよくしていた、自分にも似ている部分があるだろうか。義理の兄は酒の席でこんなことをよく言っていた、いや自分ならばこう言う…。
どうもしようもないことが起きてしまった。命日からいくぶんか経ったが、亡き人のために自分ができることなど、もうどうもしようもない。それならば、どうもしようもない自分だけれども、なにかバトンを受け取っていることはないだろうか。身に引き寄せて考えてみたい。いまの私の生活に生かしたい。
それこそが、生きている私たちが自分の足で自分の人生を歩んでいることになり、故人が私たちを見守る意味になり、故人が先祖というより大きなところへと歩むことにもなるのでしょう。
命を引き継ぐとは、生き死ににかかわらず、思い出し、自分のものとして人生に生かすことを言うのだと思います。そのためには、慈しみの目で、親しみや愛をもった行いが必要なのかもしれません。

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