【コラム】途中に在って

投稿日:2021年11月8日 更新日:

 

【行事】ご祈祷と演芸会 11月28日 午後空席あり

  • 日時 令和3年11月28日(日)

締切1部:午前11時~法要、12時~演芸会

2部:午後2時~法要、3時~演芸会

  • 備考 事前の申込みが必要です。

11月28日(日)ご祈祷と演芸会です。

締切1部午前の部の申し込みは締め切りました。
午後2時~の午後の部のみ、現在申し込み受付中です。例年のいつもの時間の回です。
護寺会費のお知らせとともに、案内を郵送いたしました。所要時間は、各回1時間半ほどを予定しています。演芸会では、落語にて楽しい時間をいただきます。ぜひご参加ください。

【コラム】途中に在って

藤子・F・不二雄作、生活ギャグマンガ『ドラえもん』。ドジでからかわれている、自然と動物大好きな心やさしいのび太。彼を立派な大人にするため未来からきたネコ型ロボット、ドラえもん。

お話しには、さまざまな未来のひみつ道具が登場します。ものを小さくするスモールライト、空を飛ぶことのできるタケコプター、時空移動できるタイムマシン、あらゆる言語を自国語として理解・発話できるほんやくコンニャク。

なにより有名なのは「どこでもドア」でしょうか。見た目は、ピンク色をした片開きドアです。行きたい場所ならどこでも行けるドアだから「どこでもドア」。目的地を声に出す・心に思うなど入力した上でドアを開くと、その先が目的地になっているというのですね。

コロナ禍が続くために、ここではないどこかへ旅立っていきたい、という気持ちとどのように向き合えばいいのか。悩む日々をお過ごしになる方も多いのではないでしょうか。

もちろん逆に、ここではないどこかへ行きたい!そう思わない方もいらっしゃるはずです。…コロナになったら大変なんだから、出かけるわけがない。買い物も数日分まとめて買えばいい。不必要に出かける必要なんてない、と。

それでも、どこかへ出かけたいと思ってしまうときがあるのも人間かもしれない、とドラえもんの「どこでもドア」は示しています。

「行きたいときに行きたい場所へ行けたらいいな。」「はい!どこでもドア!」

もしも、今あなたがどこかに行きたいと考えている理由が、いなくなりたい気持ちからくる場合には、しっかりと休む必要があります。

さて、どこへでも行けるがあなたはどこへ行くか?の前に、どこでもドアを開けるこの場所・あなたはどこから来たのかがしっかりしている必要があるのでは…と「どこでもドア」は私たちに問いを投げかけているように思えませんでしょうか。

日常から離れて非日常に行きたい!とは、日常に戻ってこられる安心があるからこそ、ここではないどこかへ行けるのでしょう。その安心の出所。

安心の出所のない、どこへ行っても満足しない者にとっては、今いる場所から遠いどこかへ行ったとしてもこころの充足はむずかしい。

たしかに非日常の楽しさも幸せですが、ずっと非日常にとどまるわけにはいきません。非日常が続けばそれが日常になります。日常からの逃避とは旅行でもなければ、幸せには値しないものになってしまうのかもしれません。

どこにいても楽しめる人にこそ、移動とは旅行となる。どこにいても幸せでいられる。

であるならば、今の日常のこの場所にいたとしても、どこかへ行ったとしても、幸せでいられたら…とどんなにいいでしょう。

日常に戻ってこられる安心の、さらに深いこころの安らかさ。瞬間的な幸せではなく、持続的な幸せのよりどころが求められます。

そのよりどころを問う言葉とは、仏教語でいうならば、こころの深い部分からの「安心(あんじん)」。いま流行りの言葉でいうならば、「善いあり方(Well-being)」でしょう。

◆ウェルビーイング:善いあり方(Well-being

『世界保健機関(WHO)憲章』前文、日本WHO協会による仮訳です。

〜。健康とは、病気ではないとか、弱っていないということではなく、肉体的にも、精神的にも、そして社会的にも、すべてが 満たされた状態にあることをいう。〜。
Health is a state of complete physical, mental and social well-being and not merely the absence of disease or infirmity.

なお、この前文における健康の定義については、spiritualをいれるかという議論が続いています。

このwell-beingにいま注目が集まっています。

ウェルビーイングの直訳とは「善いあり方」「良く在ること」ですが、この言葉は命の生きる意味をまず問う言葉です。生きるとはなにか?そして、自分にとっての、生きるとはなにか?

そこまで踏まえることで、やっとウェルビーイングという言葉で、その生きるにおける「善いあり方」について述べることができる。良い人生を送りたい、ではその送る方法とはと聞くものの、そもそもの前提として善いあり方の立脚地・前提の生きるとはなんですか?とたずねてきます。

生きるとはなにか?

ふつうの暮らしであれば、「朝起きて、顔を洗って、支度して、ごはんを食べて、仕事をして、帰ってきたらなんやかや、お風呂に入って、しまいは寝る」でしょうか。そのうえで「善いあり方」とはなにか。自分の仕事の夢の達成など自己実現の手段や、家庭の安定という幸せを継続させる家庭円満のコツか。

キリスト教であれば、「唯一の創造神の前にいるわたし」でしょうか。そのうえで「善いあり方」とはなにか。神の御業にかなう生き方か。

仏教であれば、「わたしたちは生まれ老い病んで死んでいく(生老病死)、ままならなさを勝手に持たされて生まれてしまった、それでも人の道を生きていくこと。」でしょうか。そのうえで「善いあり方」とはなにか。輪廻を避けるため、亡き後または生前中に仏となること、本来仏であることに気づけるよう精進すること。

ここを禅宗らしく言うならば、仏心(ほとけごころ)を発揮して平生を生きるだけです。はたから見ればふつうの暮らしで、何も変わりはありませんが、ほとけ心という実家ぐらしをしている。

◆臨済録:途中に在って家舎を離れず

臨済宗においてよく読まれる本のひとつ『臨済録』の「上堂」のひとつにこうあります。

上堂。云く、一人有り、劫を論じて途中に在って家舎を離れず。一人有り、家舎を離れて途中に在らず。那箇か人天の供養を受くべきといって、便ち下座。

【意訳】臨済義玄禅師は上堂して言った。「ひとりはとても永い時間において、悩みをもつものに寄り添い救うため、道の途中にあっても、本来の場所から離れていない。ひとりは、そうではない。だれが人や天の供養を受けるべきか」

岩波文庫 朝比奈宗源 訳註版では、

・劫を論じて:衆生を済度しようとする菩薩の行願は無限に尽きない
・途中:世俗的、差別の上に自由に立働くところ
・家舎:自己の本分、絶対のところ

と註にあります。どこへ行こうとも、家にいようとも、道の途中である。「そこ」に落ち着いていようと思っていれば、家を離れない。

家舎とは、安心と書いて(あんじん)と読む、こころの底深くからの、穏やかさ・安らかさが湧き出でるところのこと。泥水をかきまぜても、水が落ち着けば、泥の底に沈む珠を見出せるように、わたしたちにそなわっている本来の性質。

こどもが、はじめてのおつかいへ行く。行く途中も不安です、お店のひととのやりとりも不安、ぶじ買い物ができてもおつりを忘れたり、道くさを食ったり、そして家に帰ってきて安心する。大人のわたしたちでも、はじめては不安です。でも、経験済みならば、とくに不安はありません。なんとかなる、大丈夫、と土台をしっかり思っていれば、不安とはそもそも起こらない。どこにいても家なのですから。

ただ、そうはいっても、なんでもかんでも経験できるわけではないので困るわけですが…。わたしたちの心の柱とは、しっかり立っていてほしいけれど揺れ動き、揺れ戻し、ここが肝心だと知っているものの、それでも迷い続ける道の途中にあるといえるのかもしれません。

どこへでも行けるがあなたはどこへ行くか。どこでもドアを開けるこの場所とはどこか、あなたはどこから来たのか。なにごとも地に足のついた状態をもって楽しみたいものです。(副住職)

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