【コラム】涅槃~自灯明法灯明~

投稿日:2021年12月10日 更新日:

【ご報告】ご祈祷と演芸会厳修

11月28日の日曜日、ご祈祷と演芸会が陽岳寺本堂にて無事行うことができました。

行く年の感謝と、来る年の無事とご多幸を皆様と一緒にお祈りいたしました。感染症対策のため、1日2回の開催でした。演芸会では、毎月一回勉強会をしている柳亭市童さんに笑わせていただきました。

お参りいただきました皆様、ご関心を寄せていただいた皆様、ありがとうございました。

ご祈祷いたしました『般若札』は、来年にあたる回忌についてのお知らせとともにお送りいたします。

【コラム】涅槃~自灯明法灯明~

『涅槃~自灯明法灯明~』ポストカードを同封しました。

お釈迦さまが横になっている姿、そのまわりの空白に、あなたが「生きてきたなかで出会った苦しみ」について文字や絵をかきこみます。人生の道を歩むなかでどのような労苦を重ね、どうやって乗り越えてきたか(はたまた打ちのめされたか、やりすごしたか)を振り返る。このポストカードは基本的に自分自身と向き合うためだけに使い、まわりの人と共有しなくてもよいものです。大変だったこととそれに対しての対処法・処世術はセットです。つらいときは言葉もでませんが、それでもいい。打ちのめされた、やりすごしたことも立派な教えとしたいのです。価値のないと思われるものもそのままでいいと、ひどいものも救われる転換をしたいではないかと。

◆自灯明法灯明、不放逸

生まれ老いて病み死んでいく。ひとの一生の流れとは、おおむね、生老病死におさまると仏教のはじまりの人、お釈迦さまは看破いたしました。

人生の栄華もそのむなしさも経験し老境にまで至った釈尊、お釈迦さま。齢80にしてお釈迦さまは亡くなります。遊行の旅のなかで、最期の場所へと向かうのです。そもそも体調はかんばしくありませんでした。死期を悟っていたのかもしれない。弱った、高齢の身に、旅先で出された食事が直接の原因だと伝えられています。倒れ、伏し、そんななかでも弟子たちに「自らを島とし、たよりとして、法(教え)を島とし、たよりとしなさい」「怠らず、励め」という教えを残し、旅をすることで、仏の教えを自分の姿で示したのでした。前者を『自灯明法灯明』、後者を『不放逸』と呼ばれます。

わたしたちも畏れながら、お釈迦さまと同じではないかと思うのです。長い人生の道を歩む私たちは、さまざまな苦悩と出会います。立ち向かい、やりすごし、打ちのめされる。喜び、悲しみ、怒り、その生きざまをまわりの人に見せながら、それでも生きていくのですから。そんな必死な姿に生前、死後に接した人たちとは、その人のいのちを引き継ぐこととなる。《教え》とまで言うと大げさかもしれませんが。

「自分のこの身心を杖にして生きていくしかない。自身のなかで育んできた、人生の目標、生活の基本、仕事への矜持を、私の教えとして、まわりの人に自身の姿をもって教えを示す」、『自灯明法灯明』。

「そんな必死な自身の姿を、せきららに、まわりの者たちに見せよ。生きよ」、『不放逸』。年若い者も、年齢を重ねた身においても、このふたつは人の生きる姿をそのままに肯定できる言葉だとすくいとりたい。

そんな《生きてきたなかで大変だったこととそれに対しての対処法・処世術》について考えようという機会が、2月の涅槃会であろうと思うのです。2月15日にお釈迦さまは入滅したとして、涅槃会という仏教行事が日本のお寺では行われています。

年末には、この一年を振り返ることがあるかもしれません。このポストカードが一助となれば幸甚です。

◆悟りとは「実はこれが大切なものだったんだ」となくなるまえに気づくこと

悟りとは「実はこれが大切なものだったんだ」となくなるまえに気づくこと、という言説があります。

失って気づく大切さ。なくして分かるありがたさ。なくす前に気づきたいものです。しかし、それができれば困らない。この私なんてどうしようもない人間ですから、当然すぐなくしてしまいます。それはなぜか。

有難い、の逆だと思っているからではないでしょうか。すなわちあって当たり前だと。

仏教語でいえば、四顛倒(してんどう)、さかさまな理解です。

  • 無常であるのに、常:ずっとそのままだと見てしまう。
  • 苦:自分の思い通りにならないのが道理なのに、楽:思ったとおりになったらいいなと考えてしまう。
  • 無我:繋がりのなかに生きているから私は私でいられるのに、我:私には私の根拠が存在していると考えてしまう。
  • 不浄なものを、浄らかだと見てしまう。

あって当たり前ではないのに、あって当たり前だと見てしまっているから、辛く苦しい。この身にうける健康が、仕事が、友人が、地球が、あって当たり前だ。しかし突然の病、コロナ不況、引っ越し、温暖化等々、いままでの日常はそのままには続きません。

四顛倒の逆であると、有ることが難しいのだと、気づくことができたら。それ即ち悟りであるという言説です。

それもなくなる前に気づくことができたら幸いです。もし「実はこれが大切なものだったんだ」となくなるまえに気づく人は、「大切なこれを、いつなくすか」も知っているに違いない。であるならば、いかに愛しく、はかなく、尊いものであろうか!と畏敬や感謝を行動にうつすのでしょう。

しかし凡庸なわたしたちとは、なくした後に「なくしたものの大切さ」に気づき、惑い、悲しみ、そしてこの事実を忘れていきます。

そうであるならば、「大切なことを、わたしたちはなにかしらの形で、すでに教えられている」「そんな悲痛な過去が助けになってくれる」「その過去を、私たちは見過ごしてしまっている。見過ごしてしまうどうしようもなさをはらんでいる」と振り返る時を、定期的に取っておきたいものです。大切なものが、なくなる前のうちに気づけるように。

そうはいっても、なかなか難しいものです。

そこで、そのひとつを、涅槃会が担ってくれはしないか。その気づきの実践をポストカードで行っていただけないでしょうか。

反面教師、身をもって教えてくれた、お手本になる、範を示す…さまざまに言葉があります。だれかの、自分の生き様から《生きてきたなかで大変だったこととそれに対しての対処法・処世術》を学ぶことは効果的だと思うのです。

◆おわりに:一衆触礼

祈祷会の最後に、集まった檀信徒全員で「一衆触礼」をいたします。手を合わせ、住職の号令により礼、すなわちおじぎをします。

貴方を尊しとする礼です。まわりのひとに、自分に、この場に対して行うのです。相手がどのようなものであろうとも、礼をする。法華経の常不軽菩薩、つねに他を軽んじない修行者に通じる行いです。

価値があるなしも超えて、だれかの、自分の生き様に、あなたを尊しとするのが「礼」なのです。だれかの、自分の生き様を尊び、学びますという宣言ともいえるでしょう。過去を学び、未来を想い、いまを生きるために礼は必要な行いです。

「あけましておめでとうございます、旧年中はお世話になり、ありがとうございました。今年もよろしくお願いします」も礼です。

残り少ない年内も、来年も「自らを島とし、たよりとして、法(教え)を島とし、たよりとして」「怠らず、励」みたい。

みなさまにとって来年も良い年になりますよう祈念申し上げます。合掌(副住職)

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