天明伏見町一揆越訴顛末記_訳注

投稿日:2001年1月1日 更新日:

(1)『伏見京都堅史紀行』山本真嗣著山川出版社十九頁。『幕府と御所 京都所司代(二)』京都新聞社編 人物往来社。昭和五〇年十二月七日 毎日新聞社朝刊「日本庶民発掘」49―われら女たち― 永井路子記

(2)御香宮義民保存会刊行(上田写本)『雨中之鑵子』。他に、広島大学所蔵写本。筆者が校本を行なった「大淀文庫蔵書記」写本で、京都府立総合資料館所蔵(貴重書目録No.196)がある。

(3)『日本庶民生活史料集成』一揆編に収録、「雨申之鑵子 解題」三一書房。

(4)装束の着用法を衣紋といい、伝える家を衣紋家という。延喜・天暦のころより形成され、徳大寺・大炊御門両家が世襲し、のち徳大寺家から山科家に、大炊御門家も高倉家に伝わり、山科、高倉の両流となる。高倉流は北朝、武家に伝わり、山科流も御服調進の内蔵頭であったので室町中期には衣紋奉仕を世襲、近世に入り、将軍家に対しては足利氏には高倉家が、徳川氏には初めのころ勧修寺、山科両家があったが、一六二六(寛永三)年以降はもっぱら高倉家が掌どる。『日本歴史辞典』

(5)「諸国絹問屋(京都問屋)の系譜」足立政男著『老舗の家訓と家業経営』所収。広池学園事業部刊行。嘉永五年には宮津藩庁=松平伯耆守留守居役の増戸藤次兵衛が問屋株再興に当って、丹後縮緬の京都絹間屋として七軒の新規間屋の追加公許を京都町奉行に願い出ている。七二頁~七四頁

(6)岩波講座『日本歴史12』近世 二四二頁。寛政改革で、公文書類を私的に処理する従来の方式を改めて、後任者へ引き継ぐ方式に移行している。

(7)原田伴彦著『江戸時代の歴史』三一書房 二五二頁。辻ミチ子著『京都こぼればな史』京都新聞社刊 九一頁。

(8)特に、禁裏六丁町は禁裏直系の「町」の扱いを受けた。一七二二年頃より京都町奉行と町組の間に立って、町触や事務的な仕事にたずさわる町代は、上、下京の町代四人が禁裏六丁町十九粗の事務も分担した。『京都こぼればなし』

(9)岩波講座『日本歴史12』近世4に収録「宝暦―天明期の社会情勢」林基氏 一三二頁~一三三頁。

(10)『京都の歴史』第六巻「揺らぐ京都」第一節 朝廷と所司代 京都市編 四一七頁~四二四頁。

(11)深川陽岳寺に眠る三人の遺骨の一部が、陽岳寺にある義民の墓石改修の際、御香宮義民顕彰会と陽岳寺との協力で、大黒寺にある義民七名の遺髪塔に納められ、御香宮にある顕彰碑には歯の一部が納められた。

(12)『本朝陶器改証』京都大事典に収録。また深草土器師第五十八世平田平右衛門『深草土器沿革之概略』平田薫蔵氏所蔵。特に官幣大社の宮崎神社へ奉幣した土器(拙稿写真資料)が現存する。

(13)高槻市役所昭和五年五月七日 高槻市長 西島文年発行「戸籍謄本」明治三十四、二十五年当時の物。大坂府島上郡西天川村第四拾六番屋敷 前戸主亡父梅本九兵衛 戸主梅本米蔵 亡父九兵衛二男。同四十七番屋敷 前戸主亡養父梅本米蔵 戸主梅本吉次郎亡父米蔵養子、妻ヨネ、長男国松、明治廿五年七月一日高槻村大字高槻三百七番屋敷二分家ス。

(14)京都府立総合資料館礦、維新前民政資料No.58(堀内村)、天明五年己九月)表題は近代になって書かれた模様。当地の六地蔵と堀内村に近隣した町名で、見附町、新町、大津町、西町、東町、中嶋町、壱丁目、札之辻町、茶屋町、畑町、東町、石田町、柿木町、柴屋町、紺屋町の各年寄と町人の連印あり。

(15)現在の「丸紅染色有限会社」は、後に出る「丸屋」の中古の祖宗七氏後藤家の子孫が経営。丸の内なるものは解散状態にあるが、電話帳には「丸○染色」なる会社は十数軒みえるが果してどうか。参考に、梅本家に伝わる商標は九に¬で、九兵衛の九をもじったものである。

(16)京都府立総合資料館蔵、「紅花御触書清書留」「御呉服御方并紅屋方諸用集」「紅花方秘録」が収録。紅染屋として、「天保四亥己年二月記付、丸屋伊兵衛、丸屋宗七、紅屋平兵衛 三十四軒 己三月改」とある。

(17)足立政男著『老舗の家訓と家業経営』に収録、七八頁、七九頁。

(18)藤本利治著『同業者町』雄渾社 一九六三年六月一日 五二・五三頁。

(19)室町期、禁裏衣服御用をつとめた山科家の配下で紅を染めた紅師が頭領となり、その下で紫染を行なう紫師、刈安染を行なう黄師などが染色に携わった。『京都大事典』

(20)藤本利治著『同業者町』三九頁、中世の六角通りにあった染殿が移り、清冽な地下水の湧出によったのである。

(21)秋山国三著『近世京都町組発達史』「第三節 禁裏六町組の沿革」禁裏の西に接して一条から南にかけての地区の古町名。また貞享五(一六八九)年刊の「新板平安城并洛外之図」には、現下長者町通り以南丸太町通りまでの烏丸通りを「丸や丁」とある。

(22)新修京都叢書『雍州府志』には「此地井水性不清以是水練白絹其色不漂白、故移今在家井水純清之地、然猶因旧号称白雲」とし秀吉によって天正年間、大宮辺(旧西陣)の大舎人織手座が烏丸通り上長者町に移された地をいう。

(23)沢田章著『近世紅花問屋の研究』昭和四四年 大学堂刊「紅染屋仲間の成立」八頁、明和二酉年七月四日の条では「まるや徳兵衛」は「丸屋徳兵衛」紅屋行司となっている。

(24)伏見稲荷大社『稲荷講誌』には「紅屋稲荷講とも言い、紅屋仲間と稲荷社中及び産子地神事方とが親密な関係にあり、商家の中でも紅屋仲聞による結社がきはめて鞏固であったのは、紅色を感賞する稲荷明呻の霊徳に由来があると云う(志料第三)」十五頁。

(25)井上頼寿著『紅屋仲間と稲荷講』には百五十四軒とする。

(26)春満(東丸)『職原抄』『有職懐中抄』、在満『装束色彙』二巻、田安宗武は、賀茂真淵、荷田在満を顧問として「服飾管見」「玉函叢説」「服飾漫語」等の書を著わし、公武の服装に多大の功労があったし、定信は「輿車図考」「集古十種」等の名作を著わし、学界に貞献したと河鰭実英著『有職故実』に見る。

(27)吉田与一郎著『歴史にかくれた伏見の碑』ダイヤ印刷社 八三~八九頁。

(28)京都歴史資料館所蔵『占出山町文書』「九陌 故實祿 二十」に「伏見騒動願書」として所収。

(29)新修京都叢書第23巻別冊(古地図集3)『改正京町御絵図細見大成』には、通りは南から、柏や丁、松本丁、梅本丁、若松丁、橋本丁石や丁とある。

(30)占出山町文書に「往古より御所司様町御奉行様御名前書留」(錦小路通占出山町)として収録。

(31)『近世紅花問屋の研究』の中に、紅染屋として、津国屋庄兵衛、四条西洞院西江入丁が見える。一三八頁。

(32)古くより地元有力者で、南浜で諸大名用達であった丸屋五兵衛がおり、天明頃よりの用達大名は、何んと松浦(静山)壱岐守(『甲子夜話』作者)・毛利甲斐守・建部内匠頭(先代は元禄元年より正徳四年まで十三代目伏見奉行で、五兵衛ら地元有力者に伏見復興の拠点とする中書島の開発を諸願された)・毛利讃岐守・牧野備前守(寛政十年には京都所司代就任)の面々であったが、不思議にも天保十二年の御名代御用達名簿からは丸屋五兵衛は姿を消している。御名代御用達は、日頃は産業を専とし、助業に用達を勤め、五、六人乃至三人扶持を受ける。五兵衛は諸色問屋であったと考えられる。『伏見町誌』一五四  頁。

(33)和田英松著『新訂官職要解』講談者学術文庫には、主上、皇后の御装束や諸社に奉幣する料物を掌った重い役で、御厨子所別当の世襲化を意味した。

(34)『雨中之鑵子』には、小堀政方に見そめられた(妾)お芳しの方の義父で、江戸の町医者半井立仙を登場させている。

(35)川嶋将生著『町衆のまち 京』柳原書店九八頁。

(36)「高槻市史4」近世の高槻一五七頁、図17高槻藩の職制では、家老の下の勝手方に、用人と奥老があり、前者に、近習、目附、小姓、納戸、医師、祐筆とある。又、医師の乗物としては『守貞漫稿』に収録されており、九右衛門氏の乗った駕籠も同じようだという。

(37)会津藩主松平は定信老中の折、溜間詰であった。幕末の松平容保の四男で昭和十一年に駐英大使を退き、戦後二十一年初代参議員議長。長女勢津子は秩父宮妃殿下である。

(38)『高槻市史4』近世の高槻「第一章 幕藩体制の成立と村落支配」三五頁。

(39)屋敷は現在の京阪電鉄丹波橋駅北口で京町七丁目角、京町飯店の周辺。室のある一軒は同駅西口前のァハートに当る。

(40)原田伴彦著『江戸時代の歴史』二五二頁「隠密政治」三一書房。

(41)天明四年、献上物年頭御礼を横領した惣年寄は、下村宗左衛門(大文字屋現、大丸)、平井喜左衛門、平野屋伝六、伊賀屋作兵衛ら。御礼先きは、老中、若年寄、寺社奉行(伯耆守資承は未だ就任していない)、西御丸御若年寄、小堀和泉守、大目附、御奏者番、御目附衆等。

(42)江上照彦著『悲劇の宰相 田沼意次』第十二章「暗殺の黒幕」一九〇~一九二頁 教育牡刊。

(43)『史料大系日本の歴史第五巻近世Ⅱ』大阪書籍、『楽翁公伝』「吉祥院歓喜天願文、天明八年正月二日……云々」に所収。

(44)朝日新聞社『近世・京都ゼミナール』に収録、原田伴彦著「京都千年―安土桃山から維新へ―」二四~二六頁。

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