向井秋村(将監正義)炉辺談話

投稿日:2000年1月1日 更新日:

―明治34年3月25日発行『舊幕府』 第五巻第二号所載

≪御成≫
私は、御鷹野と申しました。大川筋或は亀有筋(堀切のさき)、小松川筋の御成に御供を致しました。……一口に大川御成、亀有御成と申しました。
私の先代(将監正通)までは、天地丸などを特別に出しまして、慎徳院様(家慶)は御乗船にもなりましたが、温恭院様(家定)となりましては、天地丸は一度も出したことは御座りません。何時も大川御座船を出しまして、御乗船になりました。

御成の順序即ち手続きを申しますならば、第一に日限と御道筋の達しが御座ります……何月何日何々筋を成らせらるるに就き、辰の口とか一石橋とか、又は両国橋とかより御乗船に相成云々、還御は千住、逆井乃至吾妻橋までとか、又は辰の口までとかの御道筋の達しが御目附よりでます。そうしますと御成に就きての相談を新部屋で致します。

新部屋と申しますは、御用部屋の次に時計の間が御座りますが、その脇に小さい間がありますが、その間が新部屋で、御成の相談は必ずその間で開いたものです。

御成に関係の者は皆んな出席いたし、一切の打ち合せ……口達を御小納戸頭取より受けました。尤も頭取の中に御場掛りが両人御座ります。
開義の順序は、御場掛りが出席いたしますと、次に御目附と御船手頭の私が出席致し、それから御徒士頭、御鳥見組頭と打ち揃い、御場掛りよりの達しを御目附が承りて順序を定め、表面の相談は之れで決定いたし、その順序等を諾向々へ通達し支配々々にて受け持ちを定めます。

然し私は別に當日の事を奥の新部屋へ参りまして御場掛りへ引き合いまして御乗船に関し達しを受けて全く御成の相談を了るのです。……御船手頭だけが特別に相談を致すのです。……旧幕府の御船手頭は五人御座ります、惣べて私より……私の家より……指図を致したもので、勝手な話ですが私方の水手同心に不足がありますと、他の同役の同心を用ふる権を有したものです。

嘉永武鑑(嘉永七年刊行)によれば
向井将監   二千四百石 水主八十四人 屋敷本所石原(明治以後は華族吉井家の邸なりしが、今は道路と変ぜしところ多し) 御番所 霊岸島、御役屋敷 同所
野尻久太夫  百俵    水主四十九人 御番所永代橋 御役屋敷 新堀川口
藤沢弥兵衛  百五十石  水主四十九人 御役屋敷 永代橋向かき店
大塚孫左衛門 百俵    水主四十五人 御役屋敷 深川萬年橋
桜井藤四郎  百石    水主四十五人 御番所 浜御殿大手向 御役屋敷 同所

さて御船を御召し場へ廻し、私は御船と共に参ります。服装ですか、上下みな股引半天です……股引の地は木綿で浅黄の小紋、半天も木綿地で多くは縞です。
刀は野差しと称し一ッ本さしたもので、大の方はヒキハダに入れ船宿に置きました。船宿に川船御用達がありまして、御成のの時には御用船何艘と定めて申し付けます……障子ツキの屋根船……この船に乗る人は奥の衆、御場掛りなどが御上り場所より帰る為の用に備えたるもので御座ります。私なども時によると乗りましたこともありますが多くは千代路(チョロ)と申す小船……端艇に乗りました。
私の役と申すは、上様が御船召す時に御船を押さえて居るので、勿論桟橋から御召船の間はヒラタと申す船が置いてあります。御船へは御供方、御道具も乗ります。御先き船(と申すは小十人、両御番などが乗り)お駕船永寿丸(船名)とともに三艘御成の場所へ御先きへ参るのです。

大川御座船(御召し船)は紀州より廻りました鯨船二艘で引き船に致します。御座船にも櫓はたてますが、全く鯨船二艘で引くので御座ります。御座船の鑑に若年寄一人と御側衆一人とが居ります。その背後に私が居るのです。前に申しました如く上下とも半天股引の野装束で御座りますゆえ、上様は御自由に御着座ですが、私共は股引でチャンと坐るのですゆえ究屈なことであります。前の若年寄と御側衆は艦の橈(かじ)のある一段高い所へ腰を懸けて居ます。
召し上り物は御座船のあとへ御菓子船と称し料理方が御供を致し、汁子、雑煮、御酒なんでも御好に応じて差し上げました。例の御船歌も御好みが出ました。

御船歌又は御上りの品は御小納戸より命を伝えられ、御老中などは御供を致す事はありませんでした。(御供を仰せ附けらるるは特別なわけです)御船歌は御出の時には鳥を驚かす云いて唱わぬが例でありましたが、温恭院様は船歌が御すきで、御出の時より唱いました。私に歌の御尋ねがあり困ったことが御座ります。

私の父の頃には川獵(かわりょう)もあったそうで、御酒などをお船でも御休憩所でもくだされ、随分閉口したこともあったそうです。
御乗船は今の午前八時或は八時前に御召しの場所に廻しました。還御は遅くても点灯頃でした。尤も出御も還御も内々御場掛りより汐時の打ち合わせがありてから、場所も時日も定まりて表向に達しを出したのです。

梶金八翁の話に、御船手頼んでカラ汁をたべたものですが、なんでも二百五十文位と覚えて居ます。また御目見以上には焼味噌と奈良漬の大切れが二つと飯を下されましたが、寒いときには飯がみんな氷って居ました。御目見以下には梅干沢庵が二タ切れと覚えています。
≪遠島送り≫
私の家は御成などの外に遠島者を扱う役でした。前に申しました五家で代わる代わる扱いましたが、遠島は春秋両度ありまして、島は新島と三宅島です。八丈は前の両島の年寄へ托して扱わせたものです。年寄は日和を見はからって八丈へ送ったそうです。春秋両度の流人は町奉行よりしてその数の達しがあり、何時頃出帆せしむるやとの問い合わせあります。

すると私方より品川に碇泊の伊豆地方の廻船を調べ、船を吟味いたし御用船と定ると其事を申し立てて船中へ仮牢を作らせました……船の方では御用船になるのを嫌ったものです……それから組の者を三人ずつ選んで命じます。組の同心には祐筆、目附役、船頭役がありますが、その中から選びます。この遠島の船へ乗り込むのは誰も好みません因果番でした。止むを得ず●を引き、水盃で別れました。春はまあ平らですが、秋は危うく、今の様な船ではありませんか危険なものでした。それに手当の極めて薄いものでしたゆえ、頭より別に手当を致しました。

町奉行より流人の姓名書が廻って来ます……誰殿より仰せ渡し云々の書附……愈々出帆の日となると町奉行所の同心が流罪人を連れて参りますゆえ、前の書附けに照らして受け取りますと、其後は一切私共の負担となるのです。三宅ですか、二タ月は海上にかかります。三宅から八丈へ行く流罪人は三宅で裸にされたそうです。こういう手続きで島の役人へ流人を渡してしまえば私共の肩はぬけるのです。

≪廻船調べ≫

船番所と申すのは、浜御殿と霊岸島と新堀の入り口の三ヶ所にありますが、何れも別段に調べるのでは御座いません。船中の人の冠り物をとらせるのと、障子船の障子を開けさせ、廉をあげさせ……廉は船にかけてあるので……渡しの家では一ヵ年一度品川へ入った諸国の廻船の惣数を調べて其筋へ出すのが役です。勿論廻船問屋と申す者がありますから、問屋さえ調べれば直きに分かりますゆえ私の方で調べると申すは表面の話です。
この廻船調べと申すことが私の家の役となりましたのは多分先祖が相州三浦に居りました時分からの慣例が続いたものと思います。

≪御船手頭向井家≫

御船手頭と申す役は、前に申しました如く私の家ばかりでは御座いませんが、同役より特別なことは、廻船調べと川御成に同役を指揮いたすことです。ほかには水主同心は属官、下タ役で私の家禄を以って養う者では御座いません。

≪水泳≫

水泳ですか、八代将軍の頃より始まったそうですが、奥の衆が浜御殿の前で稽古を致し、奥の衆に水泳肝煎と申す役がありました。毎日私どもが教授に参るか又は御船上乗り役と云う役の者が参りました。年々六月から八月頃まででした。この水泳の稽古は御船手を廃せらるるまで続きました。水主同心は御軍艦奉行支配となりましたが、その前より軍艦操練所へ参って稽古を致して居りました。
水主同心の家より世に出て居ります者は中々御座います。海軍の三浦、荒井の両将軍、勅任検事の石渡、郵船会社で名をあらわした福井などです。

≪格式≫

私が御船手頭の頃は、江原桂助、久保勘次郎、庄田主水、別所主税の四家と私の家を合せて五家となりました。
世襲の御船手頭も私方ばかりで御座いました。この五人が一人ずつ毎日登城を致しました。席は躑躅の間ですが、何んにも御用は御座いません。紅葉山、上野の御成りに御供をする位のことでした。
登城の時の私の家の供は、侍二人、槍持一人、草履取一人、長柄一人、別当一人、挟箱一人、合羽●四ッ供と申し、勿論主人は馬で御座いました。
私の家では、二代目に一人任官致し、左近将監と申しました者が御座いましたが、その後は代々向井将監と申し布衣で御座いました。

≪家系≫

向井の家は、甲州の武田の家臣で川中島の戦に謙信に手を負わせ、反り感状と刀を貰ったと云う事が世には伝説が御座いますが、家の記録には見ませんでした。
家に伝えましたことは、駿州用宗の城を守りて勝頼より感状をもらい、先祖の父子は此の城にて死去いたし、次男が残りて、武田家没落の後に、勢州田丸に移り住み、本多作左衛門の手につきて権現様御奉公致しました。この人が向井兵庫頭正綱と申し、木像が相州の三浦に只今もあるそうです。

この正綱の子が前の左近将監忠勝で、人物であったようです。六千石を領し、大坂陣にも働いて居ります。深く天海を信じ、自分は上野に葬らせました。然し寺は陽岳寺と申し、深川閻魔堂橋にありますが、忠勝の開基寺でございます。

≪将監正義=(歩兵頭)豊前守正義=(歩兵奉行並)伊豆守正義=秋村≫

私は御船手廃止の時に御軍艦操練所頭取となりました。私の次に海舟さんも頭取となられました。御船手頭と申す所から操練所の頭取となったので、勝さんは船に乗れますゆえ、軍艦役同様に命ぜられ、私は水主同心を前の如くに引き継ぎましたので、旧の如くその取締を命ぜられたのです。それゆえに船の方が萬事整理しまして後、私は御使番になり、歩兵頭に転じ、豊前守に任官いたし慶喜公の御附となって一大隊を率いておりました。その後免ぜられまして横須賀製造所奉行並に三日間仰せ附られ、慶応三年の二月でしたか三月でしたか歩兵奉行並となりました。

戊辰の時は,浅野伊賀守と仏人シャノアンの外に三名の仏人を連れて江戸を出立し、正月六日に大坂へ着しますと、伏見の敗軍の騒ぎです。其翌晩天保山へ参り、紀州へ落ち、和歌の浦から由良へ出まして、其処から朝陽丸へ乗って帰りました。
シャノアンは仏国領事へ托しました。然し私共の役目は戦争には全く関係はございません。陸軍伝習のためでした。
戊辰の四月に歩兵奉行を辞職しました。小栗などは横浜警衛を名として一大隊引率し函根へゆけなど申した事もありましたッけ。

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