向井将監に学ぶ(元東都読売新聞記者 石川明氏より)

投稿日:2000年1月1日 更新日:

江戸時代、隅田川・江戸湊に君臨!

いま、都心、山の手一辺倒の再開発に対抗して、水の都・江東の実現によって“下町の復権”をめざす気運が高まっている。同時に、首都・東京の顔は、隅田川や江戸湊であるとして郷土史の面から再認識する動きも活発だ。過去はたんなる過去趣味ではなく、未来を拓く知恵なのだ。江東の文化も、ゆかりの人も、松尾芭蕉や葛飾北斎など、陸上の歩きを中心とする人ばかりがクローズアップされた。川や海から眺めると郷土史もガラリと見方が変わる。ここに登場する向井将監一族は、江戸時代二百七十年を通じて御船手奉行を世襲、海からの江戸を建設した人たち。兜町、霊厳島、本所、深川、葛西に多くの足跡を残しながら、これまで無視されつづけてきた。これも明治維新以来の江戸時代軽視の現れと反省、その栄光と忍従の歴史を探った。

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《プロローグ》

向井将監との出会いは、気になる橋のゆかりを調べ、『江戸川区史』を読んだことにはじまった。
数年前、葛西の南、堀江の地に左近川が流れ、左近橋が架かり、付近一帯にすがすがしい水郷地帯のおもかげを感じたとき、ナゼ、左近川といい、左近橋があり、地元の古老が将監の鼻と呼ぶ地名が残っているのか疑問がわいた。
区史第一巻末尾の地名の項を抜き書きしよう。
「葛西において河港のつとめを果たした川に左近川がある。江戸川のかっての分流で、左近は人名であろう。近くの堀江に将監の地名があるが、これは向井将監の屋敷跡であった」とある。 さらに慶安元年の松本村検地水帳(一六四八、土地台帳のこと)に、土地の所有者として小松川将監という記載が二、三か所ある。小松川に住む将監さんが松本村に土地をもっていた証拠だが、御家人が土地をもち年貢をおさめていたのだろうか?
将監は肩書きだから、『屋敷跡』とあるが、どんな史料があるのか?向井将監とはどんな人物か?早速、区役所を尋ね、郷土史にくわしい丸山典雄教育長(当時、区政情報室長)に会った。
「いま、将監の鼻に旧堤防の記念碑を建てたので、将監が何者で、いつ地名になったのか、左近川のゆかりとともに懸命に調べていますが、どうもはっきりしません。向井将監ゆかりの地と断定するのも、ちょっと飛躍があるような気がします。」
かって区史編集室長として、誠意あふれる回答で、逆に探求心を刺激された。区郷土資料室でも、「重要な研究課題になっている」と話していた。

《江東との関係》

葛西とのかかわりは解明を待つとして、中央区の兜町から新川、隅田区の石原町、江東区の新大橋や深川の霊厳寺、陽岳寺など、江戸の旧下町とのかかわりは疑問の余地がない。『寛政諸家譜』や各種の『武鑑』を重複して調べた。
江戸時代の切絵図を見ると隅田川沿いに「向井将監」「しょうげん番所」など、ゆかりの地がいたるところにある。どこも大名屋敷に匹敵するほどの広さで、二千四百石程度の御家人の屋敷とは考えられないほどだ。中央区史や旧日本橋区史を調べると、日本橋、江戸橋と目と花の先の兜町の、いまは高速道路となった紅葉川(楓川ともいう)に「海賊橋」(将監橋ともいう)が架けられ、その傍に「向井将監」、その隣りに「向井右衛門」の屋敷が並んでいる。
寛永江戸図だから、このときの将監は向井忠勝、右衛門はその四男忠宗の屋敷である。


安宅御船蔵

興味あるのは、その隣りに間宮、九鬼、小浜、小笠原など、伊勢水軍、熊野水軍、武田水軍の流れをくむ水軍の猛者連中の屋敷がズラリ並んでいること。大手町の大名屋敷群の外側に、江戸湊に向けて徳川水軍が守りを固めている姿と見受けられた。
西の方、半蔵門から番町にかけて、服部半蔵はじめ旗本や譜代大名の屋敷が、親衛隊よろしく外敵から江戸城を守る布陣と似ている。
兜町の将監屋敷だけではない。その東南、隅田川べりに「向井下屋敷」があり、「霊巌寺おやしき」その南に「将監番所」がある。霊厳寺はもちろん深川にある現在の寺の前身で向井忠勝の開基で、寺社も防衛拠点とするのが戦国の常識だった。深川の陽岳寺も忠勝の開基といわれ向井家代々の墓がある。向井将監の屋敷は、なぜか寛永と明暦の間(一六五〇ごろ)に兜町から本所石原に移される。いまの石原町のやや北側東駒形付近だが、江戸時代の武鑑には本所石原となっている。
しばしば歴史に登場する御船蔵は、いまの隅田区千歳一丁目から江東区新大橋一丁目の大川端にあった。
長さ三丁(三百二十七㍍)に大小十四の格納庫が並び、天地丸など徳川水軍の軍船が収められていた。ここも向井将監ら御船手組の勤務地である。
推測をたくましくすると、兜町の屋敷から船で御船蔵へ出勤するのに、隅田川をさかのぼったのでは、緊急のとき時間がかかるので、本所石原からならサッと行けるというのが、屋敷替えの理由ではないかと思われる。
もっとも、鎖国平和の世となって、向井一族が海のつわものとして武勲をたてるチャンスは大坂冬の陣を最後に二度とやってこなかった。数ある軍船は金ピカに飾り立てて、日光東照宮同様、将軍の威光を示すデモ用か、諸大名を招いての船遊び用に使われた。小松川、亀有返の鷹狩りに将軍が出掛けるときは、もっと船足の速い小型の船が使われた。
海賊なる言葉は、山賊、盗賊とはやや違ったニュアンスをもっている。江戸市民が海に生きる自由な、束縛されない人たちとして一種の憧れ(あこがれ)をもって使った。海賊奉行、海賊橋も同じ。(昭和六三年五月一三日東都よみうりより)

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武勲輝く武田水軍時代

《伊勢から黒潮ルート東方へ》

江戸川区内の地名や古文書に残る「将監」なる人物の正体を求めて、江戸時代九代将監の官位を世襲した海賊奉行向井将監一族に焦点を絞り、史実がはっきりしている隅田、江東、中央の各区の将監と江戸川区の将監との関係を見つけようとした。謎は深まるばかりだが水の都江東地区の町づくりと切り離せない人物であることがわかった。
江戸時代の『寛政譜』や各種の『武鑑』を調べると、向井一族の出身地は尾鷲市向井で、南北朝時代に伊勢に移った海賊だった。戦国時代の戦乱に伊勢が巻き込まれたとき、多くの武勲を上げたが、利あらずして隠れ潜む身になっていた。
当時、海賊は「一棹(さお)三里」の黒潮にのって熊野、伊勢から伊豆、三浦、房総半島に現れる帰属を知らない“海の自由人”だった。時の権力者の支配下に入れば水軍、飛び出せば海賊というわけだが、盗賊、山賊という悪者とは違うニュアンスをもっていた。
向井一族に最初のスカウトの手が延びてきた。
NHKの大河ドラマ『武田信玄』より少し時代が下がる永禄十一年(一五六八)のこと、信玄は駿河の今川氏真を攻めて遠江の掛川追い払い、永年の夢であった海への進出を果たした。
翌年、上洛を決めたが、どうしても水軍が欠かせないと知り、落ち目の今川水軍の海賊奉行岡部忠兵衛(のちの土屋貞綱)を説いて伊勢におもむかせ、武田水軍の編成に着手した。
これに応じたのが、向井伊勢守正重(江戸時代に九代つづいた向井将監の最初の将監、向井忠勝の祖父)だった。正重は、一族、郎党、持ち舟もろとも伊勢湾を脱出して駿河の江尻湊(いまの清水港)に入った。元亀元年(一五七〇)のことだった。
だが、三年後、頼みの信玄は上洛の途上病死、武田勝頼の時代となった。
非情な領土切り取り合戦が始まり天正七年(一五七九)には三河から徳川勢が駿河・持舟城に攻め寄せてきた。城主向井正重と義子の政勝は勇戦したが及ばず、正重親子は討死してしまう。
ただ一人、三保城にいて助かった息子の向井正綱が、健在だった向井水軍を率い、歴史を開いていく。
翌八年、こんどは武田勝頼が、沼津から伊豆半島に侵攻した。正綱は武田水軍の一翼として、有力な北条水軍と駿河湾で戦った。だが、敗色濃厚となり、本陣があった千本松原から、「陸に上がって戦え」という勝頼の伝令がとんだ。
しかし、正綱は「舟を捨てては海賊の名がすたる」と命令に服さず、勇戦して敵を破った。
天正十年(一五八二)武田勝頼は、信長と家康に攻められ甲斐の田野で自害し、主人を失った正綱に二度目の転機がきた。
駿河湾の武田水軍の残党どもは、小田原の北条氏に降ることを考えていた。
正綱のもとに家康から御家人として召し抱えるという誘いがきた。正綱にとって家康は、父正重のかたきである。それでも正綱は家康に従うことを決めた。海賊は海流を測り、舟を操り、弓矢鉄砲を放つ海の専門技術者である。忠君愛国とか二君に仕えずと言ったモラルは、徳川中期に固まり、明治政府によって教育勅語に引き継がれたもの。戦国の世には個人の意志が重んじられ、能力主義だった。
伊勢水軍、武田水軍時代の向井氏には、まだ将監を称する者がいない。従って江戸川区にある将監は徳川水軍になってから生まれたものとなる。向井一族と関係ない将監という可能性も全くゼロとは言い切れない。(昭和六三年五月二七日 東都よみうり掲載)

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家康に仕えて五百石から五千石に

《初代将監忠勝のめざましい活躍》


御関船鳳凰丸

向井氏一族の伊勢水軍、武田水軍時代の歩みをたどってきた。その結果、江戸川区史第一巻百八ページにある「向井氏が堀江に住んだのは武田衆時代のことであったと思われる」は疑問があることがわかった。このとき駿河湾が主戦場で江戸湾まで来ていないからだ。
武田勝頼は天正十年(一五八二)、信長・家康に攻められて甲斐田野で自害、武田王国は滅亡した。
徳川家康は、かって持舟城(現在の静岡市用宗)で戦死させた向井正重と養子の政勝、武田水軍に入って北条水軍と善戦する向井正綱のことを耳にすると、どうしても自分の部下にしたくなった。天正十一年(一五八三)本田作左衛門に命じて向井正綱を探させた。
はじめ食禄たった二百俵の御家人として召し抱えられた正綱は、本田作左衛門の傘下で猛烈に働いた。
伊豆国に侵攻して北条方の城を奪うと思えと、小牧長久手の役に参加、小田原城攻めのときは清水湊から家康を乗せて海上から城を視察させるなど活躍、豊臣秀次が家康に贈った三雙の軍船のうち一番大きな国一丸を拝領した。
かくて江戸入府の時、相模、上総両国のうち二千石の領地を受け御船手奉行となった。
関ヶ原の戦いでは、海が荒れて到着が遅れ、仲仙道を進んだ秀忠と同様きびしく叱られる失態を演じたが、やがて家康の怒りもとけ、三崎および走水の警備に当たった。
この武田・徳川水軍時代の向井正重・政勝・正綱の武勲を、向島に住む時代小説作家隆慶一郎が海洋ロマン小説《見知らぬ海へ》として昭和六三年七月から三か月ごとに「小説現代」に連載している。史実にもとづくドキュメンタリー・タッチのもので文章は軽快。隆氏はフランス文学から時代小説に転身した人。向井将監屋敷のあった本所石原のすぐそば向島三丁目に住んでいるのも何かの因縁であろう。

《最高六千石の忠勝》

兵庫助正綱のあとを継いだ初代将監忠勝は、大坂冬の陣で輝かしい武勲をあげた。
慶長六年(一六〇一)にたった五百石で召し抱えられたのに、二度の大坂の役で五百石、千石と加増され、元和九年(一六二三)には五千石と五倍の出世をしている。
そのうえ家光から、代々御船手奉行を世襲、みな将監を称し、軍船に「む」の字の旗印を葵の御紋と並べて掲げてよいという破格の知遇を受けた。
平和の時代が来てもその活動は衰えず、屋敷のあったいまの中央区兜町の先に霊厳寺島を築き、霊厳寺を建てる。深川二丁目の陽岳寺の開基でもある。
とくに注目されるのは、意欲的に新田の開発に当たったこと。寛永二年(一六二五)には、相模国三浦、上総国望陀(もうだ=現在の君津郡のあたり)などで新墾の田千石を得て六千石となった。敵地を進攻する時代でなくなると、たちまち農地改革に乗り出したわけだ。
江戸川区堀江の将監の地名は、忠勝が下総の地でも新田開発をした証拠ではないだろうか?
また、松本村の検地水帳は慶安元年(一六四八)のものだから、すでに忠勝は七年前に亡くなっている。小松川将監という土地の所有者が武士であるのはおかしいという人がいるが、武士が土地を所有して納税する例が絶無とはいえない。小松川や松本村にも、忠勝が開拓した新田があったのではないだろうか?(昭和六三年六月十日東都よみうり掲載)

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鎖国令で水軍史閉じる

《飾り立てた儀礼用の軍船》

徳川水軍の軍備拡張時代に終止符を打つ鎖国令が意外に早くやってきた。
向井氏初代将監忠勝が江戸防衛に苦心しているのに、一方でキリシタンの弾圧と欧米列強の進出を阻止するための鎖国政策が国を守る中心課題となってきた。
大川べりの新大橋北側東岸に幕府御船蔵ができ、将軍家光の命令で伊豆で(三浦三崎ともいう?)七十六丁櫓(ろ)、長さ十五間(約二十七㍍)の巨大軍船天地丸(天下丸ともいう)ができたのが寛永九年(一六三二)のこと。その三年後の同十二年(一六三五)鎖国令が発布された。
このとき日本人の海外渡航は禁止される。五百石積み以上の軍船の製造は禁止され、わが国の造船技術はストップする。(のち物資運搬用千石船を許可)
向井将監忠勝の運命は大きく転換、家康、秀忠、家光と三代続いた栄光の歴史に陰がさしだした。
御船手奉行の仕事は、徳川水軍の“海軍大臣”から、国内船監督の“海上保安庁長官”に切り替えられる。
同時に軍船は華麗に飾り立てられた将軍御座船となり、東照宮と同じにお上の威光のシンボルとなり、ときどき諸大名を船遊びに招待するものとなった。これでは典礼係りである。海の侍の誇りをもった忠勝はこの扱いに失望し、落胆のうちに六年後の寛永十八年(一六四一)十月十四日死んだ。法名は陽岳寺殿天海玄祐居士。ときに六十歳。

《強くなる風当たり》

初代将監忠勝のあと御船手奉行をついだのは五男の将監正方だつた。石高は千石に下げられた。弱冠二十三歳の新奉行に思わぬ落とし穴が待ち受けていた。
寛永十九年(一六四二)五月、将軍家光を隅田川上流の狩猟に案内しての帰り、干潮だったため浅瀬にのり上げ、途中で陸に上がり、スケジュールをメチャメチャにする騒ぎとなった。
「潮の満干を考えないとは職務怠慢もはなはだしい」と怒った家光は、追って沙汰あるまで出仕に及ばずと正方に厳命した。
もはや罪は免れないものと覚悟したが、意外にも「若輩なるがゆえに今回は許す」と恩情あるお沙汰があった。父忠勝や祖父正綱の働きぶりがものを言ったのだろう。
主君の温かい扱いに泣いた正方は、身を粉にして職務に励んだ。
慶安三年(一六五〇)老朽化した安宅丸の修理を命じられ、その役目を果たしたことで将軍の羽織りを賜り、寛文二年(一六六二)には、将軍家の人たちを天地丸に乗せておほめのことばをいただいた。知行は千石から二千石になった。
二代目将監正方が延宝二年(一六七四)に死んだあと、三代目正盛が跡をついだ。

《豪華船も解体》

典礼係りの役目は板につき、知行は二千四百石となった。
新大橋の御船蔵に入らず、大川に野ざらしになっていた天地丸は、建造後五十年の歳月には勝てず、ボロボロになってきた。
かっての将軍家御威光の豪華船がボロになると、口さがない江戸市民は、怪談話をデッチ上げ、毎晩老いさらばえたこえで「伊豆に帰ろう、伊豆に帰ろう」と泣いているなどと言いふらした。
財政ひっ迫してきた幕府は、維持費を惜しんで天和二年(一六八二)正盛に命じて解体させてしまった。
つつく四代目将監正員(まさかず)、五代目将監政使(まさよし)、以下政香(まさか)ー正直ー正通ー正義と将監を世襲するが、どうも江戸川の小松川将監、堀江の将監の鼻、将監屋敷と結びつく話は浮かび上がってこない。
ただ、最後の将監正義が維新後に雑誌『旧幕府』(明治三十四年三月号)に書いた「向井秋村(旧向井将監正義)炉辺談話」によると、江東地区での鷹狩りには、すべて小型の大川御座船が使われ、それぞれ大川御成、亀有御成、小松川御成とよばれたとしている。
将監と江東各地との結びつきは想像以上に深かったことがうかがえる。(昭和六十三年六月二十四日東都よみうり掲載)

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鎖国平和で遠島送り指揮

《黒船襲来で初代軍艦奉行に》

鎖国時代の御船手奉行が、将軍御座船の“艦長”として、しばしば江東地区の鷹狩りのお供をし、大川御成り、亀有御成り、小松川御成りなど、格式ばった行事を取り仕切ったことは、前文、最後の将監・向井秋村(九代目正義)炉辺談話で明らかにした。
御成りの手続き、道筋、順序など、いまのお役所仕事そっくりの決まりがあったが、ここでは省略する。興味深いのは、御成り以外の御船手奉行の仕事を詳しく解説していて、水の都江東との結び付きは一段と深められる。
〔遠島送り〕町奉行から回されてくる遠島者を新島、三宅島に送り付ける仕事。八丈島送りは、前記両島の年寄りの仕事だった。命がけのうえ手当てが少なかったので、配下の者はみな御船手になるのを嫌がった。
〔迴船調べ〕一年に一度、品川にはいった諸国の迴船の総数を調べて其筋へ出すのが役目。大仕事のようだが、迴船問屋さえ調べればすぐわかるので御船手奉行が調べるというのは、たてまえのようなものだった。
〔水泳指揮〕八代将軍吉宗のころからはじまり、毎年六月から八月ごろまで、隅田川の水泳練習場で行われ、御船手が廃止されるまでつづいた。維新後、日本海軍や日本郵船で活躍した者に、このとき指導を受けた人たちが多かった。
向井将監正義は、自分の仕事をくわしく語りおえたあと、御船手奉行が廃止され、御軍艦操練所頭取となった。黒船来襲の当時に話を進める。
外洋船が一雙もない日本に、嘉永六年(一八五三)六月三日、汽走軍艦四雙、同輸送船三雙、帆船二雙のペーリー艦隊が突然現れ、幕藩体制は大きく揺れ動くことになる。
十年後の文久二年(一八六二)、幕府は御船手を廃止、御軍艦操練所をつくり、向井将監正義は初代頭取となった。このとき勝海舟も頭取となり、水夫(かこ)同心を取り締まる正義とともに新時代の海軍力整備にのり出した。旧軍船を整備しおえた翌文久三年、正義は御使番となり、歩兵頭に転じた。十六世紀の南北朝時代以来、四世紀にわたる向井水軍の歴史はおわった。

《忠勝、海外雄飛を夢見る》

向井将監一族は幕末まで御船手奉行(海賊奉行)を完全につとめ上げた。この事実を確認できたのは、前記、雑誌『旧幕府』のコピーと、向井流水法岩本会栗原俊男氏(小樽在住)の史料を陽岳寺向井真幸住職(江東区深川二ー十六ー二十七)から入手したお陰だった。
陽岳寺は霊厳寺と並んで初代将監・向井忠勝の開基で、向井将監正方などの墓もある。その寺の住職が向井姓なら将監一族に違いないと早合点してしまった。
同寺を尋ねると向井住職は、「姓は偶然の一致」とのこと。「わたしは父方が埼玉の忍藩、母方が八王子千人隊の出です」と笑う。
それでも向井将監一族の貴重な史料をたくさん見せてくれた。そして「歴史都市づくりが心の安らぎのために大切です」と激励され、湾岸部や大川端のマネー追及の再開発を苦々しく思われていた。
取材中、向井住職は、「初代将監・向井忠勝は、世界に目を向けた重要な海の武将だった」という。江戸の町づくりに熱心で、新田開発にも励んだことはすでに述べたが、大航海時代を前にして、戦国武士の一人が世界の海に羽ばたこうとして鎖国令で夢破れたことを知らなかった。
忠勝は、江戸入府後、仙台堀に屋敷を構える伊達政宗と親交を結んだ。ともに江東の住人だった。
政宗は、慶長十八年(一六一三)、イスパニア国王とローマ教皇パウロ五世にあて特使支倉常長を派遣した。このとき使われた外洋船バウティスタ号は、忠勝配下の舟大工が建造したもの。出航に当たって配下の御家人十人余りが乗船したという。
忠勝像は、これまでとは比較にならない大きさにふくらんでいった。(昭和六十三年七月八日東都よみうり掲載)

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徳川に仕えて、徳川体制を嫌った

《故郷の江東に子孫在住、証言》

江東区役所で広報の長谷川さんが「たしか向井将監の子孫が江東区に住んでいますよ」と耳打ちしてくれた。是非会いたかった。子孫の目から先祖の足跡をどう考えているか聞きたかったし、南葛西の『将監の鼻』なる地名の由来に手掛かりがあればと期待した。
プライバシーにかかわるから、区役所に所在を調べてもらうわけにはいかない。「南砂出張所にいたとき、転入手続きに窓口に現れた人が、子孫だと話していた」というのを手掛かりに電話帳で向井姓の人に片っ端から電話した。だが、「関係ありませんね」の返事しか聞けなかった。
この続きものを始めたのが縁で、当の本人が電話をくれ、早速インタビューした。日本橋蛎殻町のミキスタ工業社長向井啓(あきら)さん(六九)で、南砂から東陽町のマンションに引っ越していた。「向井将監忠勝の直系ではなく、五男正方の弟正次の家系です」とのこと。
--ご先祖の業績をどうお考えですか。
「亡父(総三さん)がよく話していました。正綱も忠勝も、徳川家に忠勤を励んだように見えるが、徳川に仕えながら徳川を嫌っていた」
意外な発言だが、自由にあこがれる海の侍として当然のことだろう。まして武田水軍時代に正綱の父正重と義兄政勝は徳川に滅ぼされた。江戸入府後の幕藩体制は官僚臭を濃くするばかりだった。
--将監の名があちこちに残るのは、江戸市民が反体制のシンボルとして尊敬したからではないか。
「忠勤いちずの武士とは一線を画くし、隅田川以東から下総、上総にかけて、さらに三浦半島から伊豆半島へと自由を求めて実業家のよう活躍をしたフシがある。大阪の陣のとき忠勝は、木更津の魚師四十数名を連れて行き、その半数を戦死させてしまった。さの論功行賞に、木更津-日本橋間の漁業権と航行権を受けた。これが木更津船で、のちのちまで房総と江戸の間の交通路として発展した。その黒幕として向井家にも実入りがあったようだ」
利権を追う現代政治家と通じ合う一面があったようだ。
江戸川区の最南端旧堀江の地は、かって葛西漁港があり、左近川が江戸川の末流として江戸湾に流れ込んでいた。
ここに忠勝の屋敷があり、将監の鼻として地元で親しまれていたことは心証として納得できる。ただ正史として記録するには、もう一つ古文書などの根拠が欲しいところだ。
向井啓さんは錦糸町の花壇商店街そば育ちで、廃校になった茅場小学校の出身だった。長く市川に住んでいたが、六年前に先祖代々の地で友人の多い隅田区か江東区を終の住処(すみか)にしようと南砂に引っ越し、東陽七の四の十一東陽町スカイハイツ一一〇七に移った。
「江東へ来て毎日水を見ているとやっと安心できます。友人も多いし、死ぬまで住んで先祖を偲びたい」と自由な海賊魂が身内に脈打っている様子だった。

《ほかにもいる将監》

江戸川区に足跡を残す将監は、多分、向井将監忠勝のことであろうと思われて来た。この点、江戸川区史の記述と一部を除いて(武田水軍時代のくだり)同じである。ただ、確認しなければならない点がまだ残されている。将監を名乗る武士があまりに多く、葛西の地に関係している疑いがあるからだ。
その有力な一人に小田原の北条水軍が上総の里見水軍と江戸湾でにらみ合っていた十六世紀中ごろ、北条水軍に高橋将監という伊豆・松崎の海賊衆がいて、第二次国府台の戦いに参加している。
『北条五代記』によると、「兵船多く江戸川につなぎおき給ふ」と葛西湊か長島湊を想像させたうえで、海賊論争が起こったことを書き残している。
ある侍が「賊ではないのに海賊とは何だ」と怒り出したとき、一人が「船乗りの侍を何と呼べばいいのか」と聞きかえし、みんなシーンとなってしまったとある。船を操り、矢や鉄砲を打ち、地面に執着しない海の侍は、海賊と呼ぶのが一番似合っていたわけだ。
高橋将監の時代は、雷不動の大はんにゃなど異色ある風俗とも重なる点が多いように思われる。
もう一人、九州柳川城主立花左近将監も捨て切れない将監である。それというのも、嘉永六年の黒船来航の折、江戸の防衛を固めるため、本所深川に出陣している。南葛西の地にも当然見回りに行ったと思われる。
山本周五郎に『将監さまの細みち』なる時代小説がある。ここにも何かヒントがないか調べたが、全くの人情もので、題は「ここはどこの細みちだ、天神さまの細みちだ」をもじったものだった。
海賊奉行向井将監は、特異な存在として江戸市民に愛されたが、水戸黄門や大岡越前守、服部半蔵のように大衆のアイドルとはなりえなかった。その原因は活躍の幅が士農工商のすべてにわたり、江戸っ子たちにわかりにくかったからだ。思想と実践ともにその全貌を明らかにするのは、もはや無理なのだろうか。(昭和六三年九月九日東都よみうり掲載) (おわり)

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向井將監一族に学ぶ

いま、マンモス都市東京は、マネー、マネーの再開発旋風が吹き荒れている。湾岸部、東京駅周辺、錦糸町北口、上野、池袋などに高層ビルが林立しそう。ジャパン・バッシング(日本叩き)で輸出ができなくなり、政財界あげて内需拡大に転身した姿である。大手企業は最後の大改造だ、円高景気だと狂喜している。庶民生活をわすれた新聞に、円高不況の四文字は登場しなくなった。
なりふり構わぬ突撃の姿は、戦時中も同じ。バスに乗り遅れるなの言葉は聞かれないが、事大主義の日本人の国民性か。高い視聴率を上げる大河ドラマ『武田信玄』も、かっての徳川家康、伊達政宗と同じに、戦場に駆り出される足軽農民の悲しみなどどこ吹く風。これでは東京大空襲十万人の死者の霊も浮かばれまい。
静かでのびのびとした《歴史都市づくり》を、再開発のなかで考えて欲しいと思うとき、江戸時代二百七十年間、終始変わらず江戸湊と隅田川の守備についた御船手奉行向井將監一族ののことを思い出す。戦国時代は輝かしい戦功を上げたが、鎖国時代は忍の一字で耐え抜いた。江戸っ子は、自由への羨望をこめて「海賊奉行」と呼び、「海賊橋」を架け、スター扱いした。
深川陽岳寺の開祖で初代將監の向井忠勝と、最後の御船手奉行で最後の將監の向井正義のことは、すでに『喚鐘』の前身『陽岳寺便り』一号に詳しい。ここでは向井一族の歴史を南北期から幕末までひとすじの大河としてとらえ、弱肉強食の戦乱時代から、低成長の鎖国時代まで、柔軟で弾力的な処世術で生き延びた姿を振り返ってみたい。

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海に生きた栄光の武勲

時代は、放映中の川中島合戦のころ(天正―永禄期)より、五年程下がる。甲斐・信濃のほか上野・三河・美濃にも進出した竹田信玄は、将軍義昭の招きで上洛を決めた。海がなく、塩不足に苦しむ信玄は、駿河進出と同時に水軍の重要性を痛感、ゼロから水軍づくりにのりだす。向井一族の数奇な運命がこのとき始まる。

◎伊勢水軍時代(修理亮長忠ー式部大輔長晴ー治部少輔長勝ー刑部大輔忠綱)

清和源氏の流れをくみ、尾鷲市向井から伊勢に移った向井氏は、南北朝の争いに巻き込まれしばしば戦功を上げた。一時志摩の九鬼水軍に押され、湾内深く追い込まれてしまう。永禄十一年(一五六八)甲斐武田信玄の使者が現れ、伊勢を脱出して武田水軍の編成に力を貸してほしいとたのむ。

◎武田水軍時代(伊賀守正重ー伊兵衛政勝・兵庫頭正綱)

向井正重と養子政勝はこれに応じ、元亀元年(一五七〇)家族、郎党、持舟もろとも伊勢を出て駿河の江尻城(清水市江尻港)に入る。だが、三年後、信玄は病死、勝頼の時代となる。天正七年(一五七九)三河から徳川勢が駿河・持舟城に進攻してくる。正重、政勝は篭城して戦死、長男正綱だけは三保城にいたため生き延びる。
翌八年、勝頼は沼津から伊豆半島に進攻、武田水軍は駿河湾で有力な北条水軍と激突する。北条水軍は強く、敗戦は目に見えてきた。陸上から勝頼は「船を捨てて戦え」と命じた。向井正綱は「船こそわがいのち、陸に上がったのでは勝っても負けだ」と海賊の意地を見せ、勇戦して北条水軍を破った。
フランス文学から時代小説に転身した作家隆慶一郎氏は、はじめて向井兵庫正綱をとりあげ「小説現代」に《見知らぬ海へ》を連載している。(昨年の七、十月号、今年の正月、四月号と不定期)。史実にもとづくドキュメンタリータッチの海洋ロマン小説で、今年あたり直木賞をもらうのではないかと期待されている。

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親の敵、徳川家康に従う

◎徳川水軍時代(兵庫頭改め兵庫助正綱ー養子伊兵衛政勝)

天正十年(一五八二)武田勝頼は信長・家康に攻められて甲斐田野で自害、まもなく信長も本能寺で死んだ。翌十一年、向井氏にとって二度目の転機がきた
駿河湾の武田水軍の残党が小田原の北条氏に降ろうとするとき。向井正綱だけは父と義兄の敵である徳川家康に従うことを決める。忠臣二君に仕えずといた儒教思想は徳川時代の中期に固められ、明治政府が教育勅語に引き継いだ管製思想。
正綱ははじめ食祿たったの二百俵の御家人だったが、家康のもとで猛烈に働いた。伊豆諸城を攻めるとおもうと、打って返して小牧長久手の役のとき故郷伊勢に渡海して、かっての敵九鬼嘉隆と戦うなど戦功をあげる。小田原の役では家康を乗船させるまでに信頼された。江戸入府のとき早くも二千石の御船手奉行となる。正綱は、寛永二年(一六二五)に六九歳で死に、領地の三浦三崎見桃寺に葬られる。

◎江戸時代初期(將監忠勝)

正綱のあと家を継いだ向井忠勝は英才だった。御船手奉行、三崎走水奉行に命じられたほか、江戸の町づくりや宗教活動にまで活躍する。

◎伊達政宗との往来

慶長十八年(一六一三)、伊達政宗は支倉常長をローマに遣わす。慶長十八年といえば、この年の暮れに幕府は伴天連追放令を出し、おなじ年に長崎平戸の貿易が開始された。戦乱から統一へと進む幕府の政策は、世界に向かって羽ばたこうとしている諸大名や文化人の視線を次々に断とうとする。海外渡航と帰国の禁止、時代の波が大きなうねりとなってそして急速にしぼむかのようだ。そのうねりの中で將監忠勝も、伊達政宗との交友を得て、大きな夢をふくらませる。政宗はイスパニヤ王フェリペ三世とローマ教皇パウロ五世へ遣使を派遣せんと、領内でサン・ホワン・バウティスタ号を建造するが、その舟大工は將監忠勝が配下であると共に、出帆にさいしては將監の御家人十人ばかりが乗船していた。伊達政宗の記録である《貞山公治記録巻二十三》に將監忠勝との内々の談合が随所に見えて、カピタン・ソテロとのやり取りもあったようだ。
三十三歳のとき大坂冬の陣が起こると敵船を奪うなど奮戦する。近畿地方の諜報活動にも優れていた。戦後たちまち五千石となり、さらに上総に新田を開拓して六千石にふえる。歴代の向井一族のうちで最高。家康に代々左近衛將監を名乗るよう命じられる。
寛永期はは江戸城下町が完成した年である。江戸城の東南はすぐ江戸湊である。大手町には普代大名の上屋敷が並び、その外側、中央区兜町から新川にかけて、江戸防衛の御船手奉行(四人いて向井家のみ世襲)の屋敷が並んでいた。隅田川沿いに、忠勝は霊巌島を築き、霊巌寺を建てる。今の亀高川河口には將監番所ができる。すべて江戸防衛の一環である。
寛永九年(一六三二)には、将軍家光の命令で伊豆で(三浦三崎ともいう?)巨大軍船天地丸(天下丸ともいう)を造る。このような軍船を一般的に安宅丸と呼んだ。江東区に以前あった安宅町は、大川べりに幕府御船蔵があり、安宅丸が十四艘係留されていたことからとった町名。天地丸は徳川実記に二百丁櫓と誇張されているが、実際は七十六丁櫓、長さ十五間(約二十七メートル)だった。それでも御船蔵に格納できず、大川にそのまま係留されていた。

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鎖国令で水軍史閉じる

徳川水軍の歴史は、寛永十二年(一六三五)の鎖国令で事実上終わる。このとき五百石積み以上の軍船の建造は禁止され、わが国の造船技術もストップする。御船手奉行の仕事は、水軍つまり海軍大臣から、海上保安庁長官の仕事に切り替わる。同時に軍船は、東照宮の社殿のように飾りたてて武威を誇示したり、諸大名を船遊びに招待したりする仕事に変わった。典礼係である。六年後の寛永十八年(一六四一)十月十四日、忠勝は六十歳で死ぬ。法名は陽岳寺殿天海玄祐居士。

◎江戸時代中期(正方ー正盛ー正員ー政使ー政香ー正直ー正通、みな將監)

將監忠勝のあと、御船手奉行をついだのは五男の將監正方だった。石高は一千石に下げられた。寛永十九年(一六四二)五月、御召船に将軍家光を乗せて隅田川に出たとき、銭亀橋で干潮のため船が動かなくなった。「潮の満干の時を知らないとは、職務怠慢である」と出仕を止められたが、前年に役職を継いだばかりで、二十三歳の若輩であるというので罪は許される。お役所勤めの惨めさを思い知らされたにちがいない。それでも父の意志を継いで深川陽岳寺を建て父の菩提寺となし、安宅丸を修理するなどに活躍、一千石を取り戻して二千石となっている。
將監正盛は天和二年(一六八二)天地丸の取り壊しに当たらせられた。金ぴかだった天地丸も五十年たち老朽化が目立っていた。

◎江戸時代末期(將監正義)

向井氏の業績を調べに陽岳寺を訪れたとき、御住職が向井姓なので、將監一族ではないかと勝手に考えていた。「私の父方は、今の埼玉県、忍藩の出で、母方は八王子千人隊の出だと聞いております」と言われたので少しがっかりした。だが、向井家御家譜や向井秋村(將監正義)炉辺談話解説など、貴重な資料をいただく。とくにうれしかったのは、將監正義が、嘉永六年(一八五三)黒船来るとともに御船手奉行が廃止されたとき、軍艦奉行頭取になったことを確認できたことだった。幕末の文久二年(一八六二)まで軍艦奉行を勤め、勝海舟に頭取を譲り渡した。

(1988年12月31日陽岳寺便り掲載)

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