戦国期向井水軍の足跡を辿って(鈴木かほる氏より)

投稿日:2000年1月1日 更新日:

はじめに

伊勢国にその発祥をもつ向井水軍は天正十八年(一五九〇)九月、兵庫助正綱のとき、徳川御船手四人衆の一として駿河より三浦半島に移住した。四人衆とは向井氏のほか間宮酒造丞高則、小浜民部左衛門尉景隆、千賀孫兵衛某である。
中でも向井氏はとりわけ首位にあって、駿河国時代から徳川家康を送迎する御召船奉行の役職にあった。元和元年(一六一五)、船手衆三家が江戸詰めとなると、この向井氏だけが三浦半島に在留し、以後、江戸幕府倒壊に至るまで、永きに亘ってその足跡を遺している。
向井氏については『神奈川地域史研究』十六号に『戦国期武田水軍向井氏について―新出「清和源氏向系図」の紹介―』と題し、その始祖から九代目忠勝までを発表させて戴いたが、ここでは、そのとき省いた説明を加えながら他史料を加え、向井氏の足跡を辿ってみたい。

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一、伊勢国時代の向井氏

向井氏の本貫地(苗字の地)について、『清和源氏向系図』によれば「伊賀国向庄」とされ、この地は、現三重県鈴鹿郡関町加太向井と比定される。向庄は中世、関一族・鹿伏兎(かぶと)氏の居城、加太城の山麓を流れる鈴鹿川支流、加太川沿いにあり、城の向かいにあることに由来する地名である。伊賀、近江、伊勢三国の境に位置することから、太閤検地により国境や郡境が確定するまで、伊賀国とも伊勢国とも意識されてきた地である。古代三関,の一、鈴鹿関が置かれた所で、鈴鹿関廃止後も要衝とされ、鎌倉時代にも『吾妻鏡』に関所として登場し、その後も伊勢豪族らによって私的に関が置かれ続けた地である。

『清和源氏向系図』(以下『向系図』と略す)によれば、向井氏始祖は、源頼義流・仁木実国の後胤・仁木右京大夫義長(元応二年3/3生)の子、四郎尾張守長宗と伝える。
源頼義―義家―義国―義康(足利祖)―義清―義実―実国(仁木祖)―義俊―義継―師義―義勝―頼章。師義―義任。 義勝―義長―満長。   『尊卑分詠』第三篇
仁木義長―満長。仁木義長(向祖)―長興②―長忠③―長春④―長勝⑤―忠綱⑥―正重⑦―正行(政勝)。正重⑦―正綱(徳川幕下初代)―忠勝②。
忠綱⑥―正利―正直―正吉(以下略)     『清和源氏向系図』

因みに、『寛永諸家系図伝』と『寛政重修諸家譜』は向井家三代長忠以降を載せ、それ以前の系譜はない。
『向系図』によれば、始祖四郎尾張守長宗は延文四年(一三五九)3/1生。応永二十五年(一四一八)2/29、六十歳没である。長宗は応安七年(文中三年一三七四)三月、肥後国守護・菊池武政追討(1)のため将軍足利義満に供奉して功績をあげ、その後、度々の戦功により応永四年(一三九七)二月一日、将軍義持より父ゆかりの伊賀国向庄を給り、向姓に改め尾張守と号したとされる。長宗が三十八歳のときである。
二代中務大輔長興は康暦二年(一三八〇)7/9生。応永二十二年七月一日、将軍義持より美濃国山中庄を給ったとある。
この地は、現岐阜県不破郡関ヶ原町大字山中と比定できる。
古代三関の一、不破関に近い交通の要所であり、のちに関ケ原合戦か繰り広げられた地である。伊賀国向庄も、この美濃国山中庄も、共に関と名のつく交通の要所であり、その給地から察すれば、向井氏は当初、水軍というより内陸部で活躍していたと考えられる。

美濃国山中庄は長興の次男奥春(応永十四年2/25生)が山中右衛門と称し、継承したと伝えている。 三代修理亮長忠は応永十二年12/1生。享徳元年(一四五二)5/6、四十七歳没である。永享十年(一四三八)十月、六代将軍義教と鎌倉公方足利持氏が不和となって合戦に及んだとき(永享の乱)、将軍側に属し功績をあげたと伝えている。

四代式部大輔長春は永享九年4/5生。延徳二年(一四九〇)正/12、五十四歳で没している。向井氏は、その始祖から仁木氏同様、一貫して本宗足利氏に従属しているが、応仁乱(一四六七)に際しても、四代長春は将軍義政側として北畠国司教とも側についている。
応仁乱とは、将軍義政が後嗣とした弟義視と、義政の実子義尚が対立した将軍後継者争いに端を発し、山名宗全か義尚側につき諸家を二分した争乱である。
『向系図』によれば応仁元年九月四日、義視が密かに京を出て伊勢国司・北畠教ともの館に身を寄せたとき、四代長春が弟修理と共に一番に警固に参じ、同二年十月、義視が上洛の際には弟修理と共に供奉したと書かれている。
『将軍家譜』(2)をみても、応仁元年五月洛中大に乱る。八月義視密かに京を出て伊勢国へ赴き、北畠中納言教ともに寄る。教とも接待甚厚し(略)同二年四月義政の招きに応じて勢州を発す(略)。
八月十七日今出川殿、岩田の圓明寺へ移り給ひ、夫より伊賀伊勢の人々供奉し参らせ、近江多羅尾へかゝり、みちみち逗留し給ひ、九月十二日京へ着かせ給ふ とあり、『応仁別記』(3)応仁二年九月条にも、このとき、「伊勢伊賀両国人悉伺候」し、その途次において「伊賀仁木参上賀太(かぶと)御一献申」し、「十一日北岩蔵御出向、同十二日御京入、聖護院御同道、自諸家御迎奉公衆悉参、伊賀仁木御供也 其行粧厳重ナル事筆難尽也」とあり、また『乗編応仁記』(4)にも、「伊賀ノ国守仁木三郎路次ノ御供仕テ其行粧夥多ク」と記しており、『向系図』にある向長春兄弟の行動と符合するものである。

すなわち、向井氏は四代長春のとき、すでに北畠水軍愛州氏に従属していたと推される。このときの愛州氏(武田源氏流)の居城は勢州玉丸山城であり、向井氏もまた勢州田丸に居住していたと思われる。
この玉丸山城は伊勢国度会郡内にある。延元元年(一三三六)、北畠親房が宗良親王を奉じ、南朝の拠点として築いた城であり、現三重県度会郡玉城町田丸城跡にあたる。
玉丸山城は康永元年(興国三年一三四二)八月二十八日北朝の将・高上佐守師秋と仁木右京大夫義長によって陥落(5)されたが、元中九年(一三九二)の南北朝合一により再び北畠氏の領有となり、応永年間後半、北畠氏の臣・愛州伊予守忠行が北畠家三大将の一として居城(6)し、伊勢国守護(7)として向井氏、小浜氏など周辺の熊野水軍を統率していたと推される。

北畠氏は、南北朝時代より南伊勢を領し、足利氏と常に睨み合ってきたのだが、正長元年(一四二八)八月、伊勢国司家三代満雅が南朝の小倉宮を擁し、義持に叛旗を翻して敗死したのを最後に、北畠氏の幕府への抵抗はみられない。以後、北畠氏は幕府に従属している。この頃の伊勢国周辺の有力在地武士は、他士と利害関係を同じくすることによって結びつきを強め(8)、勢力拡大傾向をみせていたのであり、北畠氏にとっては、このような彼らを抑えるるためにも幕府の権威が必要であった。
北畠氏が幕府に帰属するようになった以降、向井氏は自然、北畠氏に従属される形となり、この頃、愛州氏の居城、玉丸山城の「勢州田丸」に移住したと推されるのである。
『寛永諸家系図伝』に「勢州田丸に向かって住み焉」と書かれたのは、そのためと思われる。『寛永諸家系図伝』のいう「勢州田丸」と、『寛政重修諸家譜』の「伊勢国度会郡の向井」とはご前後の文面からも同地であるから、寛永寛政譜編纂の当時、伊勢国度会郡田丸向井と称す地が存在したことになる。現在、田丸城跡北1.5キロメートルに度会郡玉城町岡村小字向井と称す一画があるが、そこが向井邸があったことに由来する小字名であろうか。
いずれにせよ向井氏は、伊勢大湊を勢力下におく北畠氏の水軍として、のちに頭角を現す海戦のイロハを愛州氏から学び培っていったのであろう。
五代右衛門佐長勝は寛正元年(一四六〇)8/9生。文亀二年(一五〇二)5/23口論に及び、五人を斬殺し、四十三歳で切腹という残念な死にかたをしている。
六代刑部大輔忠綱は長亨二年(一四八八)2/1生。永正二年(一五〇五)六月、十八歳のとき北条早雲と戦って戦功をあげ、天文二十二年(一五五三)六十六歳で没した。忠綱の没地について『寛政重修諸家譜』によれば、伊勢国慥柄(たしがら)とある。現三重県度会郡南島町慥柄である。この地は忠綱の三男・城右衛門正利(正重弟)以来、子孫が代々居住した地であり、現在、その後胤が向井分家として正利流向井系譜(9)を伝えている。

同家系譜によれば、正利は慥柄において永禄七年(一五六四)8/3、四十三歳で病死し、その子正直は田丸城主・稲葉蔵人守より郡吏を命ぜられ、のちに剃髪して常声と称し慶長十九年(一六一四)7/22、病死している。その子正吉は慥柄の自館の近くに浄土真宗西光寺を創建し、以後、同寺は同家の菩提寺となった。

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二、駿河国時代の向井氏

七代伊賀守正重は永正十六年(一五一九)生。『向系図』によれば弘治年間(一五五五~八)の三十七歳頃、駿河国持舟(用宗)城主・朝比奈駿河守の招きにより、今川氏被官となったとある。向井氏はすでに今川氏時代より駿河に在住していたことは『駿河志料』巻二十有渡郡五袋町の項に 按に向井氏は今川家時代より此地に在著の人なりけん。
清見寺にある向井兵庫助政綱母墓誌に清水県産と記せり とあり、正綱は清水箕輪城で生れたとも書いている。また、武田光弘がその編著『向一族』(10)の中で、
足利将軍家の古き分れ 仁木氏の末孫が紀州にあり、北畠氏に属して系を伝え、やがて水軍を率いて今川氏、武田氏に仕うるに至る。此の時の人を向井伊賀守正重という。
と、今川被官を経たことを述べている。但し出典はない。しかし、のちに武田水軍に移籍した伊丹大隅守康直も永禄元年(一五五八)今川義元に仕え(11)、岡部忠兵衛直規(のちの土屋氏)もまた、今川が兵(つわもの)と称(12)された氏真の勇士十八人の一であった。
伊勢大湊は北畠氏の勢力下であり、古くから関東への海上交通が開け、吉野朝以来、駿河湾における海運は今川氏の制下にあり、向井氏は彼らと接触する中で駿河へ移住した可能性は充分にあるのである。今川氏真が永禄十一年(一五六八)十二月、武田信玄によって駿河を追われると、向井氏は元亀三年(一五七二)二月六日、駿河国清水江尻城主・山縣三郎兵衛昌景の招きにより武田氏に帰属した。そのときの招き状が『向系図』にみえる。


向助兵衛尉(正重)早々令参上 被宛行知行等、海賊之儀可被、仰付者也仍如件 元亀壬申(三) 山縣三郎兵衛奉之      二月六日信玄朱印
朝比奈五郎兵衛殿
朝比奈五郎兵衛という人物は駿河持舟城主・朝比奈駿河守信置(13)のことである差出人の山縣三郎兵衛について『長篠日記』によれば、この翌年、長篠戦で戦死している。小浜民部左衛門尉景隆が九鬼嘉隆に追われて伊勢を出奔し、武田氏に帰属したのも、次にあるように、正重と同年の五月である。

向後海上之奉公別而可相勤之由 言上候之間 一月ニ馬参疋 御分国中諸役所御免許候者也 仍如件
元亀三年壬申    土屋右衛門(昌次)奉之
五月廿一日信玄(朱印)
小浜民部左衛門尉(景隆)殿 「小浜文書」(14)

『甲陽軍鑑』品第三十九「遠三之図を以備定之事」には、すでに、
同年申(元亀三年)夏秋(略)しみずに舟手衆、土屋備前 向井 間宮兄弟に小浜 伊丹 大隅 と、向井、小浜氏らの名がみえている。
小浜氏は信玄より「江尻屋敷壱貫」(15)が給されており、信玄は今川氏旧砦江尻城を取り立て(16)、清水港を水軍の本拠としていたのであり、小浜氏同様に向井氏役宅も、江尻蒲原に与えられていたはずである。

武田水車向井氏を語るには、もう一つ、次の『甲陽軍鑑』の記事を引用せねばならぬであろう。
海賊衆   一、間宮武兵衛 船十嫂
一、間宮酒造丞 船五嫂
一、小浜    あたけ一嫂  小舟十五嫂
一、向井伊兵衛 船五嫂
一、伊丹大隅守 船五嫂
一、岡部忠兵衛 船十二嫂  同心十五騎(五十騎ィ)

上の向井伊兵衛は向井正重養子・正行(寛政譜に政勝)のことであり、実父(18)は長谷川三郎兵衛長久である。
間宮武兵衛、酒造丞信高の兄弟はもと北条水軍であり(19)、伊丹大隅守康直は今川氏旧臣である(20)。岡部忠兵衛貞綱はのちの土屋豊前守で、やはり今川氏旧臣である。この頃の水軍の首領は向井氏ではなく、戦船の主流となる安宅船を持つ小浜氏であった。
向井正重が武田水軍として初めて感状を給ったのは、天正五年六月、北条軍と戦ったときのことである。

急度染一筆候 抑今度敵其表相探候處在所之是
非妻子不悶着応下知其地在城忠節不浅次第候 必恩謝忠功身上可引立候
弥可被働忠信儀専一候 委細令附而落合大蔵少輔口上候之条不能具候 恐々謹言
六月(天正五年) 勝頼御在判
向伊賀守(正重)殿        同同心衆  『向系図』

上記感状は、北条水軍の将・安良里城(静岡県賀茂村)主・梶原備前守景宗が江尻蒲原を火攻めした際、正重は妻子の危険をかえりみず、同国興国域を守り続けたことによる感状であり、給った経緯の詳細は寛永寛政両系譜に述べられているが、感状そのものの文面をみるのは『向系図』が初見である。
その正重も天正七年九月十九日、徳川家康の攻撃により駿河国持舟城において奮闘し、養子伊兵衛正行と共に討死している。正重六十一歳、正行四十二歳であった。持舟城における正重父子討死の様子は、およそ次のとおりである。

天正七年己卯七月十九日
神君駿州ノ敵地ニ御雄ヲ,進メラル 遠州牧野ノ城将松平甚太郎家忠、同周防康親、牧野右馬允康成ヲ先鋒トシ 庵原郡持船ノ城ヲ攻ラル 康成ガ勢一番ニ木戸を破ル 田水右衛門、徳増弥七、山本勝七等戦死ス 其外吾兵城ニ火ヲ放チテ是ヲ陥ス 城将三浦兵部義鏡ヲバ康親ガ臣岡田竹右衛門元次是ヲ討取る(略)城中ノ物主向井伊賀勝政(正重カ)ヲバ星野角右衛門是ヲ討捕ル 雑兵モ四百余人命ヲ爰ニ殞ス 『武徳編年集成』巻十八

天正七年9月十九日条
吾軍持舟城を攻抜 一色左京守将三浦兵部を獲たり 尾崎半平向井伊賀守を斬 たうめ坂持舟之城牧野衆かけかわ衆責崩 三十程うち取候 『家忠日記』

のちの寛文五年(一六六五)、向井兵庫助正興が駿府城に勤番した際、廃城となった持舟城を巡見し、曽祖父正重の功績を偲び、祥月命日にあたる九月十九日、城の山頂に供養碑(22)を建立している。
その碑は現在、用宗城跡の山懐大雲寺に移され大切に保存されている。
八代兵庫頭正綱は弘治二年(一五五六)生。生母は長谷川伊勢守長憲女である。正綱は、父正重が持舟城で討死したとき、三保袋城にいたために生残り、天正七年十月十六日、武田勝頼から父の遺跡を相続することか許された。このことについて『甲陽軍艦』品五十五に、伊賀守正重討死の跡 子息兵庫助正綱に持来る領地を速やかに相渡す とあり、『向系図』に武田勝頼からの知行宛行状を載せている。

その知行地は駿州志太郎、富士郡、安倍郡、庵原郡、有渡郡、榛原郡、山名郡の各々の郡内の一部、合せて一、一八二貫九七〇文である
正綱が父を失ってからの武田水軍としての意気込みには目覚しいものがある。翌天正八年(23)、北条衆・梶原備前守景宗と沼津千本松原沖において船戦し、敵船を乗取り、勝頼より早々に次の直判感状を給った。

今度至伊豆浦及行之砌梶原馳向之所作戦得勝利郷村数ケ所撃破
殊ニ敵船奪捕之誠ニ戦功之至感入候向後弥可励忠勤者也 仍如件
卯月二十五日 勝頼御印判
向井兵庫助殿        『向系図』
上船戦の様子は『武徳編年集成』第十九にも伝えるが『甲陽軍鑑』には春日惣次郎の書忖として、次のように詳細に述べられている。
天正八年庚辰三月末に勝頼公伊豆の国表へ御働なりさるに付四月北条家より梶原海賊を出し候処に武勇より小浜、間宮、駿河先方の海賊船を出し舟軍あり勝頼公浮島原にて御見物ある(略)其日の舟軍にも北条(氏)の舟は武田方の舟三拾艘はいある。間宮さけの丞手をひいて甲州方海賊衆尽負さうに見ゆる。

但向井伊賀子息向井兵庫敵船に向う処を勝頼公御覧あり(略)向丼兵庫只一人の覚悟にて大敵にあひ勝頼無用ニ仕り候へ舟を乗すて早々く(陸)がへあがれとある儀なり(略)兵庫承りて御返事に舟いくさはくがの軍に違い舟よりおり候へば従まんまんの手柄を仕りて「あがると」もくがへ追上られ舟をとられたる

と申せば末代まで海賊の悪名にて候と申て又我ふねをこぎいだし(略)北条家の海賊衆よきものをあまたうちとり敵の舟を此方へ乗取(略)。これを見て武田がたの海賊、間宮、伊丹大隅、岡部忠兵衛衆をのをの舟をはやめ北条衆を追いかけ理運にしてもどる(略)。その日は向井兵庫たくひなきほまれはしりあぐりないとて勝頼公御感状を向井兵庫に下さるとあり、

この勝頼御感状こそ『向系図』にある前掲の感状である。この浮島原戦で小浜氏が勝頼より感状(25)を給わっていたことは既知だが、向井氏も小浜氏と同日付、同文で給っていたのである。
上記事は、勝頼の、船を捨てて陸へ上がれとの命令に対し、戦船してこそ水軍であるとする正綱の強い信念に、断片的ではあるが、父という要を失った水軍としての彼の信念が伝わってくる記事である。これが、武田水軍向井氏にとって正綱に続く二度目の感状である。 勝頼が織田、徳川連合軍に攻められ、相次ぐ臣下の離反もあって天目山山麓で自刃したのは、この僅か三か月後の天正十年三月のことであった。
主君を失って浪人となった正綱に口を付けたのは、むろん徳川家康である。正綱は家康のブレーンで鬼作左と称された本多作左衛門重次の説得により徳川氏被官となった。正綱にとって父の仇である家康に麾下することも、戦国時代の武士の生き様なのである。このときの食禄か二百俵。これが徳川水軍向井氏の出発点であった。

そして、翌十一年には本多重次と共に伊豆北条氏を攻め、矢疵を負いながらも敵大将・鈴木団十郎の首を取り八月十四日、初めて家康より感書を下された。

向井兵庫助モ豆州田子ニ山本信濃守カ居ケルヲ塞船手ヨリ攻寄セ敵敗軍ス兵庫助モ矢疵ヲ被ル 『武徳大成記』巻十四
尚々向井殿御高名之段御手柄不得申候 御心得可有之ふかふかと御悦喜候御意候 万々其表三枚はし興国寺迄御飛脚諸事油断無之様ニ可被仰付候 以上 『向系図』

上は、本多重次が注進したことにより、家康が正綱を励ました御感の状である。このとき本多重次は正綱に伴って伊豆国へ赴いたが、阿部善九郎正勝、本多弥太郎正信、大久保新十郎忠泰(のちの忠隣)の三人は、家康と共に甲州の新府にいた(26)のであり、家康の意をうけて発せられた返報であることは確かである。これが、徳川水軍向井氏としての一番手柄である。

そして、翌天正十二年二月の長久手役には、伊勢国小浜浦において天下名立たる九鬼水軍・大隅守嘉隆に勝利を得るという目覚しい熟達ぶりをみせている。向井水軍の名を天下に知らしめたのは、このときであったろう。
『駿国雑志』巻三十五上によれば、
天正年中東照宮駿河御在城の時 向井将監某を以て御船手の将とす とある。向井氏がその実力を認められて、徳川水軍の首位に立ったのはこの頃であろう。

『武徳編年一代記』天正十八年二月十四日条に
神君清水ヨリ向井兵庫助ガ預リノ国一丸ト云御船ニメサル蒲原ヨリアガラセラル中久保ニ御陣アリ とあるから、天正十八年二月にはすでに家康を送迎する御召船奉行として、清水港江尻渋川口の船蔵で国一丸を預っていたのであり、近くには当然、役宅があったはずである。おそらく、その邸地は武田時代からの地、すなわち清水港江尻蒲原であろう。

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三、三浦半島における向井氏

向氏が向井氏と書くようになった兵庫守正綱からであり、家紋に上り藤丸を用いるようになったのも正綱からである。
『向系図』では、初めて徳川氏に麾下した正綱を初代として代々を数えているから、以下本稿もこれに従うことにする。

家康の関東入国に伴って正綱は天正十八年九月、船手四人衆の一として三浦郡三崎に移住(27)した。そのときの知行地は相模、上総両国内において二千石である。正綱三十四歳、忠勝八歳。これが遥か勢州にその発祥をもつ向井氏が、三浦半島に関わる最初であった。
正綱の二千石の知行地は不詳であるが、次の寄進状によれば、正綱が元和六年(一六二〇)極月三日付で三浦郡二町谷村円照寺と真福寺、それに三崎町最福寺の三寺に屋敷地を寄進していることから、この二村は正綱領の一部であったことが判る。

二町谷知行之内ニ而屋敷を壱反三セ寄進致候者也 仍如件
向井兵庫頭    元羽六年申之壬 極月三日 政綱(花押)
宝満寺     (三浦市円照寺蔵)
二町谷知行之内ニ而屋敷四セ寄進致候者也 仍如件
向井兵庫頭    元和六年申之壬 極月三日 政綱(花押)
真福寺     (三浦市真福寺蔵)
二町谷知行之内ニ而屋敷七セ同壱セ観流坊分 寄進致候者也 仍如件 向井兵庫頭 元和六年申之壬 極月三日 政綱(花押)
最福寺     (三浦市最福寺蔵)

左近将監二代忠勝は天正十年五月十五日生。生母は長谷川三郎兵衛長久女である。将監の称を最初に用いたのは、この忠勝である。
『向系図』によれば、忠勝は慶長二年(一五九七)より将軍秀忠に召され、同六年には相模国内において五百石を拝領し御召船奉行となった。元和三年二月十一日には大坂陣の功績を讃えられ、父とは別に三千石を知行する身となり、寛永元年三月二十六日の父の死に伴ってその遺領を継承し、合わせて五千石を知行し、さらに同二年七月二十七日には六千六石六斗余という、旗本とはいえ破格な待遇をうけるに至った。
そのときの知行宛行状は、『向系図』や『譜牒餘録後編』巻三十一に掲載されているから、それを参照してほしい。

忠勝は秀忠よりかなりの信頼を得ていたようで、慶長十六年五月、イスパニア使節として来日したビスカイノは『金銀島探検報告』の中で、次のように書いている。
秀忠は狩猟その他で外出するときは、よく忠勝を随行させ、そのため忠勝は他の家臣からの羨望をうけ、特に人質として城下にある大名の子息などは身分の卑しいことなどを中傷したようだが、忠勝は思慮ある人物で父子ともによくこれに耐え、課せられた仕事に対し忠誠をもって家康、秀忠に尽くしたという。使節ビスカイノ一行を接待し、必要品を調達したのも忠勝であり、その采配ぶりには秀忠から償された、と。

向井家嫡流の中で六千石余を給ったのは忠勝のみであり、向井家代々の中でこの忠勝の時代が、最も華やかな時代であったといえよう。
忠勝が領した上総国望陀郡三ケ村、周隼郡太和田村、相模国三浦郡二十六ケ村等の詳細は不明であるが、『新編相模国風土記稿』巻百十二によれば、寛永十五年の総検地が忠勝の手によって実施された津久井村は確実(28)に含まれ、また、寛永十八年に忠勝領となった森崎村、それに元和年中まで御料地であった城ケ島村を拾い出すことができる。

忠勝は慶長二十年(一六一五)大坂陣の帰陣後、その功として北条氏規の旧領三崎宝蔵山の地を拝領し、翌元和二年八月、その地に父正綱とは別に新邸を構えている。実はそのとき、この忠勝新邸を英平戸商館長リチャード=コックスが見学した事実がある。それは元和二年の家康の死により、新将軍秀忠から新貿易詐可証を給ったコックスがウイリアム=アダムスに伴われ、三崎の正綱邸を訪れたときのことである。彼は『英商館日記』の中で忠勝新邸を見学し、こう書いている。
我々に、新たに建築された彼の息子(忠勝)の家をみせてくれたが、これはとても素晴らしい場所であった。
忠勝の三崎邸は元和二年に宝蔵山上に新築されたことは確かである。忠勝は寛永十年、幕府の命によって建造した巨船安宅船成就を記念し、宝蔵山の邸地内に自らの事跡を刻み碑を建立している。同碑文については『向系図』や『三崎志』(29)に紹介してあるからここでは省くが、『向系図』に
寛永十癸酉年相模国三崎法城之内岩之内ニ而七尺四方厚サ壱尺之石三十文記切附置 とあり、『三崎志』によれば、この碑は三崎船蔵の山際にあったとし、『三浦郡志』によれば明治維新後も久しく存在したという。しかし、今は残念なから失われてしまつた。
『向系図』によれば、忠勝は寛永七年暮に江戸霊岸島八丁堀屋敷を新たに拝領している。
この八丁堀屋敷というのが次の『豊島郡江戸庄図』(寛永江戸図)に「将監番所」とみえる地である。明治十七年の実測図(32)をみると、将監番所のあった亀島川べりに将監河岸という称を残していたが、現在では中央区新川一丁目と改弥されてしまった。しかし番所脇から八丁堀に架けられた高橋という呼称は、当時のままである。

忠勝邸はこの八丁堀のほか、上屋敷と下屋敷があったことが、前掲の『豊島郡江戸庄図』で判る。両屋敷はおそらく父正綱より継承されたものであろう。当時の江戸港は日本橋川筋をもってその中心をなしていたのであり、上屋敷から日本橋川を隔てた斜向かいには、ウイリアム=アダムスの江戸邸があった。
『豊島郡江戸庄図』は寛永九年当時のものとされているから、アダムスはすでに長崎平戸へ移住しているから、「あんじん丁」とみえるだけであるが、一方は海の一切を司る船奉行として、一方は幕府外交顧問として、二人は共に目と鼻の先に邸宅を与えられ、海外貿易に寄与したわけである。忠勝は父と共に大型帆船の航海技術や水先案内、造船のことなど、アダムスから学んだものも少なくなかったであろう。

上屋敷の傍らに架けられた橋は将監橋と呼ばれていたが、明治元年に海運橋と改称され、将監橋の名は消えた。この橋は同八年、木造から石橋に改架され、さらに昭和二年鉄橋に改架されたが、そのとき「かいうんばし」という石橋の旧親柱(現中央区日本橋1―20)だけが残され、今にその名を偲ぶことができる。

また、上屋敷から日本橋川を隔てた向岸は、かって安宅町と称したが、現在では江東区新大橋一丁目と改称され、今、新大橋((元禄六年創設)の傍らに『御船蔵跡』の碑が建ち、次のように解説されている。 はじめ寛永九年、この付近に幕府は軍艦安宅丸を伊豆から回航、格納し、天和二年に至って解体した。のちここを明治まで幕府艦船の格納所として使用してきたので御船蔵と称した。この付近にあった安宅町という地名は安宅丸の由来から生じたものである。   江東区
忠勝は、自らの手によって建造した官船安宅丸をはじめ、御座船天地丸、大龍丸などを預り幕府御船蔵に係留し、それを管掌していたのであり、どの屋敷も船蔵を守るように構えられていたわけである。

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四、上総国の向井氏

『里見家分限帳集成』(33)(慶長十五年)のなかに、里見氏船方としての次の向井甚之助の名をみることができる。
安西又肋  船手頭 百石         丸之郡朝比奈村(安房軍千倉町朝比奈)五拾石 長狭郡池田村(鴨川市池田) 五拾石
佐野才三郎 船手小頭 五拾石壱斗三升壱合 丸之郡川居村(安房郡丸山町川合)
吉田新左衛 船手小頭 五拾石   長狭郡奈良林村(鴨川市奈良林)
向井甚之助 船手小頭 五拾石   長狭郡池田村(鴨川市池田)
真田七左衛門 船手組頭 五拾俵 組下並中間十人ヅツ五十人 蔵米取
川名彦右衛門 御船手同断 五拾俵 蔵米取

上の向井甚之助という人物は向井伊賀守正重と同系と(34)みられているが、どうも同系統系図にその名はみえない。甚之助は里見水軍の知行取りの武士として、配下に周辺の漁民海士層数人を率いる武将であった。船手頭の安西又助は鎌倉期以来、安房勝山に居住した安西一族とみられ、その始祖は三浦為継の弟・駿河守為俊(35)である。佐野才三郎(36)は『小田原衆所領役帳』の半役被仰付衆のなかにみえる「南条寄子・佐野藤左衛門」の一派か、或いは、三浦一族の佐原十郎義連の孫光盛の子で佐野阿闇梨と号した、盛賀とも考えられる。そして、真田七左衛門は三浦岡崎義実の子・真田与一義忠の系統であろうか。

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おわりに

以上、向井氏始祖から徳川水軍となった将監忠勝に至るまでの足取りを辿ってみた。
向井氏の苗字の地(本貫地)伊賀国向庄、すなわち、現三重県鈴鹿郡関町加太向井は伊勢大湊から陸地に入った地にあり、向井氏は当初、水軍というより内陸部で活躍していたと考えられる。伊勢国司北畠氏が幕府と和解した以降、自然、北畠水軍に従属される形となり、守護愛州氏のもとで、のちに頭角を現す海戦のイロハを学び培っていったのであろう。
駿河国に移住したのは弘治年間、正重のときであり、このとき駿河は今川領であるから、『向系図』にあるように今川水軍を経て、武田水軍に移籍した可能性か強い。

そして、小領主であった向井氏が水軍として天下にその名を轟かせるに至ったのは、徳川氏被官となってからのことである。

平成10年刊『三浦半島の文化』8号 三浦半島の文化を考える会刊行より

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