天明伏見町一揆越訴顛末記~田沼意次失脚の一要因についての一考 (京都東山学園教諭 石橋昇三郎より)

投稿日:2001年1月1日 更新日:

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一、 はじめに

十七年前、不思議な縁で知った「義民丸屋九兵衛之碑」の九兵衛なる人物が、その後のルーツ調査によって筆者の実家、梅本家の先祖であることを突き止め、実に二百年振りに先祖の墓石との対面が叶った。この石碑との奇遇によって、長年、梅本家では謎とされていた先祖の事績等を最近になってやっと知得することとなり、その後の調査研究の結果この拙稿の運びとなった。

ところで、この拙稿は、末裔である筆者が、二百年前の江戸時代天明期(一七八一~八八年)、京都伏見に起った町一揆で、伏見奉行小堀和泉守政方(遠州の子孫)の暴政に抵抗し、その身命を賭した同志七名の中で、江戸寺社奉行松平伯耆守への越訴(駕箭訴)事件に関わった丸屋九兵衛の素姓・身分を中心に調査研究を行い、彼の背後関係からこの事件の顛末を分析し、事の真相を究明した結果、実は、この伏見騒動の越訴事件が時の老中田沼意次失脚の一要因であり、丸屋九兵衛が大きく関わっていたとする考察によるものである。
つまり、田沼失脚の一要因ならしめた伏見町一揆の同志の中で、事件の真相の鍵を握ったであろうとする丸屋九兵衛の真の素姓・身分の解明がこの拙稿を生む動機となった。

また、彼の素姓の解明に踏み切ったきっかけについて言えば、この事件を紹介しているこれまでの諸文献が、彼の説明として、町年寄であったにも拘らず、「百姓」「農業を営む者」としたり、丸尾久兵衛などと誤植したままの新聞記事(1)があったり、辞典でさえ、この事件を「天明伏見百姓一揆」などと扱っていることへの末裔としての不満と疑問から出たものである。
当初、この拙稿の執筆をためらってはいたが、初期の調査段階で、この事件の実録的史料とされている『雨中之鑵子』(2)の作者とその成立についての原田伴彦博士の論考によって、この事件の背景には、「直接この事件に関係したか背後にあって尽力した人物によって」作者に提供されたとする「於関東願書之表御吟味荒増之巻」なる今で言う最高裁判所証人尋問の状景を克明に記録したと思える幕府側関係文書の存在を知り、この点については、筆者が丸屋九兵衛の素姓等の調査段階で既に推測していた視点でもあった為、原田博士のこの論考が、筆者にとってはこの拙稿を書く勇気づけとなり、後ろ盾ともなり発表にふみきったのである。

ところで、義民丸屋九兵衛の素姓、身分については、これまで、「無筆」の「農人にて山作をかせぐ」「町年寄」と記す『雨中之鑵子』(3)に負うところの「農業を営む」「百姓」という文献上での定説であったが、梅本家の伝承・戸籍原本資料等と伏見御香宮義民顕彰会資料の調査研究の結果、丸屋九兵衛が実は、平安朝末期の文治年間(一一八五~一一九〇年)以来の天皇の御衣をはじめ皇室装束の紅染の調進を勤めた禁裏六丁町の鷹司殿町に住した禁裏付の紅染屋「丸屋」筋の者と推察されるに至った。
そのことにより、先きの原田博士が指摘された『雨中之鑵子』にみる「関係文書」と、「御衣紋方」(4)という語句を作者が使っていることからして、この事件の背景には、この禁裏御用の「丸屋」筋と親密な人物の背後的存在が考えられ、幕閣筋もしくは公卿が絡んでいるとみた訳である。仮に前者とするならば、この当時の京染(特に紅染・紫染)と諸国地方絹としての丹後宮津藩支配下の丹後縮緬絹織物との関係(5)からして、実に(九兵衛らが越訴した)寺社奉行松平伯耆守資承(すけつぐ)(宮津藩主)が考えられる。参考までにいうと、資承の実兄松平正升(まさのり)が従五位下織部正(かみ)(織物・染物を掌る役所の長)に叙任されてもいる。

更に、元京都西町奉行兼帯禁裏御所取締掛で、当時江戸町奉行(越訴吟味立会)、その後、後職として宮内卿殿家老に落ち着いた山村信濃守良旺がいるが、時の朝廷から信頼厚かった点からも可能性ある人物とみたい。
次に、後者と考えるならば、先ず挙げられるのが『雨中之鑵子』巻九の記事にみえる「御衣紋方」なる語句から、当時の高倉永範・内蔵頭(くらのかみ)山科忠言ら衣紋家の公卿が思い当たる。

更に、これら衣紋家や堂上家(後述する二条家・西園寺家)の公家衆とは禁裏付の老舗「丸屋」が親密であったことから、丸屋筋の名が伏見騒動事件に関わり、越訴したという情報が、時の摂家鷹司家にも入ったものと充分推察されることから、摂家であり、時の光格天皇を甥に持つ鷹司輔平(天明七年三月一日を前後して、左大臣・関白)を公卿では最有力候補とみた。
そこで、あえて「背後にあって尽力した人物」を挙げるとなれば、公家・武家とも首脳的立場にある人物であろうから、公家にあっては、本家「丸屋」筋と永年親密であった朝廷側としての鷹司輔平ではなかったかと思われる。
恐らく、この事件には、公卿・幕閣首脳による機密工作が極秘裏に働いたが故に、『雨中之鑵子』作者の手に関係文書が幕府公文書類の私的処理(6)として渡ったものと思われる。

しかし、両首脳である鷹司輔平と松平定信の二人の間におけるやりとりだけで、果して、かの老中田沼意次を失脚に追いやることが容易に出来たであろうか。そこで、思い立ったのが「朝廷の憤怒」である。この点について思い当る節がないでもない。

というのは、一つには、天明七年の洛中での「天明の飢饉」による米価高騰の折、町衆が「お千度参り」なるデモンストレーションを御所の周りで繰り広げたが、時の東町奉行丸毛政良が、町民を救済するどころか、逆に米商人近江屋忠蔵らと結託し、米を隠匿し、米価をつり上げ、暴利を貪り、町年寄をも圧迫した為、町衆が「丸毛和泉守は商人なり」、奉行は「丸屋毛兵衛だ」と綽名して嘲ったという(7)。
こうした事態を朝廷は手をこまねいているわけにいかないとして、時の関白鷹司輔平が、光格天皇の耳に入れ、眠懇の摂津尼崎城主松平大膳亮忠告を通じて、東北地方の庄内米の購入を手配し、鷹司家の御殿で米相場価格で直売した。
関白御殿で米を売るという通達は、堂上方に出入りする扇子商西村近江・鼓商三木長兵衛・呉服染物請取商播磨屋久兵衛の三人によって上・下京の町年寄に伝えられたが、町人の身分で配符をまわした罪で、手錠(くさり)町預け等になった。
鷹司家では彼らに見舞いの食料品を届けたり、奉行所へ近江の咎(とがめ)の様子を尋ねたりして、町衆(堂上方出入り商人)思いの行為があった程であるから、永年の禁裏付御用の「丸屋」筋に何かあったとなれば、尚更のことではなかったであろうか。

二つには、将軍吉宗の時代の延享二年における、勝手掛老中という幕閣最高政権担当者であった松平乗邑(のりさと)の罷免に関するものであるが、『徳川実紀』はこの件を、彼が五摂家の領地を検地させたことから、一条家より江戸への抗議があり、その為、突然罷免させられたとしており、文末に「そのことたしかに知る者なし」と記している。
これら二つの前例からも考え合わせると、この伏見騒動の一件も、裏面史的には、朝廷の怒りを呼ぶこととなり、朝幕間のやりとりが極秘裡にあったことと推察される。

つまり、この事件の真相を推測すれば、九兵衛らによる越訴後の天明五年十二月一日、やっと溜間詰に昇席した定信(田安家の継嗣問題で田沼に私憤もつ)にあっては、朝幕間の一和・幕府の御正道・綱紀の粛正などの上からしても、小堀政方を「御役御免」としたのは、諸大名(特に田沼派排撃)へのみせしめとする上では、当然の処置であったろう。

とはいっても、田沼派が未だ重要ポストを占める幕閣にあっては、親藩・譜代大名グループの意次失脚工作は長期化するばかりであったが、折しもタイミング良く、鷹司輔平の耳打ちから、閑院宮家としての私憤(田沼による将軍家治への継嗣工作)と禁裏付「丸屋」への温情を抱いた光格天皇の「意次罷免」の宣下が「そのことたしかに知る者なし」的に極秘裡に将軍家治(正室は、絶世の美女といわれた、閑院宮倫子で輔平の姉でもある)に下り、閑院宮家からの私憤的圧迫を受けた家治が、かつての徳川吉宗が乗邑に抱いたであろう心境で、やむなく「意次罷免」の命を下し、その後ショックを受けた家治が急遽、病床につき、五十歳という若さで天明六年九月八日、意次の罷免から僅に十日余り後に他界したものと推測できないであろうか。

かくて、朝幕間にあっては、田沼意次の失脚をこの伏見騒動事件と結びつけた機密工作が、天明二年以来の「尊号一件」や天明大火後の御所「寛政御造営」の「旧儀之復古」で相協力し合う鷹司輔平と松平定信との開で極秘裡に進められ、その結果、小堀家断絶・田沼派排撃の末、老中田沼意次を失脚に追い込み、一方の訴人町人側を都市騒擾史上、稀とされる無罪放免(全面勝訴)へと導いたものと考えられる。
つまるところ、田沼意次失脚には、この伏見騒動の町一揆が引き金となり、九兵衛らの越訴事件が直接の原因として関わり、朝幕間にあって、極秘裡に利用されたものと思えてならないのである。

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二、ルーツ「義民丸屋九兵衛」の信憑性について

本節では、拙稿のきっかけとなった義民碑と梅本家伝承からルーツの信憑性について述べたい。初めにも記したように、奇遇な出合いで知った義民碑「義民丸屋九兵衛之碑」は、筆者が大学四回生であった頃、文化倶楽部で知り会った三縁勝弘氏の御坊、源光院(伏見区上板橋、百万遍末寺)へ伺った折のこと、境内に屹立していたものであるが、石碑の題字を見るなり、思わず一驚した。碑文には、上段を横書きで、「義民丸屋九兵衛之碑」とし、左横に「基弘題」と書かれ、下段の縦数行からなる文末には「大正八年一月正四位男爵藤原公平撰并書」とある。基弘とは公爵二条基弘公であることを知り、公平(きみとし)公が西園寺家の分流の四辻家で、またその支流の北河原家であることが東大資料編纂所の御協力により判明し、公平公の子はちなみに、現、東大寺管長の北河原公共氏(塔頭中性院)である。

ところで、題字の「丸屋九兵衛」を見た途端、同姓同名の人物が頭に思い浮かんだ。筆者が幼い頃、祖母からよく聞かされていた人物の名であったため、当時の三縁住職にこの人物の説明を乞うたところ、三縁氏によれば、「九兵衛という人は九助を伴なって江戸へ直訴に行った人で、相当富裕な人であった為か、経済的な面で相当活躍された人と聞きます。また当方の寺だけでなく、ここらの他の浄土宗の寺にも寄進されていたと伝え聞いています。」とのことであった。
その後、今から思えば『雨中之鑵子』の刊本だった訳であるが、少し拝読させて頂き、調査するつもりであったが、折しも卒業前の私的雑務の為、ついルーツの本格的調査意欲も薄れがちになり、十七年の歳月がまたたく間に経った。折にふれ、「九兵衛氏」を気には止めていたが、幸運にも、一昨年夏八月十三日付の「毎日新聞」タ刊の記事に「江戸中期伏見の町一揆指導―義民三人の遺骨里帰り(11)」との見出しが出ているとの実兄からの連絡を受けるや、再び「九兵衛氏」への思いが脳裡に甦った。自分も、そろそろルーツを考える年頃になったかと思いきや、今まで先祖のことを一番知りたがっていた実父の為にもと思い立ち、本格的ルーツ調査を開始した次第である。

さて、ルーツを語るには、それなりに、当家の史料を基にすべきではあるが、残念ながら、梅本家子孫にいたっては、文献的資料などが、度重なった戦火に遇ったり、昔なんらかの理由で散失した為もあってか、僅な物的遺品資料と当家親戚筋に代々伝わってきた伝承によるしかルーツの信憑性を訴える術はない。 そこで、つい先き頃まで、「丸屋はん」と屋号名で親しみ呼ばれてきた梅本家に伝わる伝承と遺品資料を御香官義民顕彰会資料等々の調査照合によって、伏見義民の丸屋九兵衛の子孫であると確信するに至った。
ここで、伝承にいう八項目をあえて、聴取したまま列挙すると、

一、九兵衛という人が高槻に最初に来た人で、九兵衛さんは三代続いた。

二、昔、丹波橋の方から来たが、立派な家だった。高槻に移って以来、西教寺西側に四丁程の土地があり、以来自作農であった。中庭と前庭のある、村にしては大きな立派な家であった「丸屋」は現在の母屋筋の勉氏で十五代目になる。

三、摂津島上郡安満村(西国街道筋)に丸屋喜兵衛夫妻がいて、今でも「丸屋の池」があり、安満からこの西天川村に来たとも聞く。

四、叺(かます)(穀物などを入れるむしろ製の袋)に小判を詰め、馬に乗り西天川村に来たと聞く。内装の立派な家(丸屋米蔵の宅)であった。

五、九兵衛(三代目九兵衛、こと弥兵衛)さんの娘が、同西天川村(現、春日町)にある西教寺(東方山、真宗本願寺派)と婚姻関係があったと聞くが、寺側から切に娘を嫁に戴きたいと申し出があったという。寺には伽藍の撞播など相当寄進し丸屋九兵衛の銘もあったと聞く。

六、昔、京都の錦の方で、染物屋をしていたと聞く。

七、九兵衛の長男九右衛門が高槻城の医者(御馬医とも聞く)であり、帯刀で馬に乗り羽振りよく振舞い、村の人達も頭を下げたと聞く。引越しするこの二、三年前までは、母屋(勉  氏)の二階には黒漆塗りの医者駕籠があった。次いで、国松氏にいたっては、明治二十五年分家以後、東京に赴き、医者であったが、何故か、当時駐英大使で秩父宮妃の父にあたる松平恒雄氏(一八七七~一九四九)とは君付け山来る仲であり、スナップ写真と手紙もあった。その子供達二人も束京帝大医学部生であった。

八、母屋筋の勉氏宅には、代々伝わる壷が二つあったが、一つは、高槻藩典医の和田東郭氏の孫あたりの方が、毎日訪れては是非譲ってほしいと申し出があった程の黄味がかった唐物壷で、天女の舞い姿の絵入りのものであったが、親戚筋の者が割って今は無い。もう一つは写真資料の陶器で、明・清時代の物と推定されているが、コンペイ糖入れに使われていたと伝えられている。

また、一つには、真宗本願寺派(西大谷)の(写真資料)和讃があるが、後の章で触れることとしたい。
ところで、次に、①御香宮伏見義民顕彰会調査資料と②梅本(丸屋)家の系図より伝承の信憑性について記したい。
①の調査資料によれば、京町北七丁目に住した義民九兵衛に関しての説明には、事件当時か定かではないが、同町北八丁目の丸屋忠兵衛(現在も衣装倉二つあり、当時は、京染呉服屋であった)を総本家とし、その分家治兵衛の次男が初代丸屋九兵衛であり、元文年間に分家し、明和九年十一月八日死去、法名「一到西帰信士」とある。また、二代目九兵衛が当の天明義民であり、その伜三代目が弥兵衛である。
ところで、興味あるものとしては、文珠九助氏の伜に限っては、事件落着後、小堀家残党の迫害からは薩摩藩の大藩擁護により事を免れたとされ、他の丸屋九兵衛以下六名の義民の伜達は悉く「不明」とされている。御香宮の説明では、これは、恐らく迫害で、闇に葬られたものとされてきた。

ところが、昨今まで、それぞれ義民の直系血縁者は絶えたであろうとされているが、分家子孫が永々と存続していることも筆者の調査も含めて、わかってきており、中でも焼塩屋権兵衛氏については、現在、平田薫蔵氏がおられ、かつての土器師としての遺品資料から、当時は、丸屋と同じく、禁裏・将軍家へも祝典及び祭器としての御用を勤めた(12)「焼塩屋」であることが判明した。
となると、恐らく丸屋九兵衛と同じ立場にあったと思われる。

ところで、この中の丸屋九兵衛の伜、弥兵衛のみが、直系血縁者として生きながらえたことになり、跡目の上から、父の越訴決行前には、既に、三代目丸屋九兵衛を襲名していたものと察せられる。
また、義民の説明には、文珠九助以下の他の義民には「何某を商む」とある・のに、丸屋九兵衛のみが、先きの「雨中之鑵子』に依ったものか、「農業を営む」とあり、驚いた。町年寄までする者が何故、農業を営み、無筆かと強い疑問を抱いたのである。次いで、②の梅本家の戸籍騰本(13)資料による系図を真憑性の上から敢えて実名で記し、①と②を付き合せることとする(敬称略)

次に、①、②の資料から、先きに述べた梅本家の伝承の八項目の信憑性の認証の是非を考えてみたい。 一にいう、九兵衛名が三代統いた点については、商家にみられる重複性からして、九兵衛・弥兵衛名の人物が、時代にマッチしない名で筆者と同世代であること。 三にいう、安満村の点は、現在も西国街道筋に家(現在、安満東の町5の25―石井冨喜夫氏宅)とその横に「丸屋の池」と呼ばれる小さな池(池簀か)があり、石井氏によれば、丸屋喜兵衛夫婦(九兵衛と親戚筋か)が参勤交代の街道筋にて一膳飯屋風の商いをしていた様で、故あって、家を離れられ、石井氏の先祖が譲り受けたとされている。 五にいう、西教寺住職との姻戚関係については、寺側過去帳によって事実であることが判明(写真資料参照)し、当時の住職がこの機を境に、相当羽振りが良くなったとも、当時の寺側子孫の伝承に聞く。六にいう、経済的な富裕については、次の章で述べるが、紅染屋(紅屋)であったことから少なからず富裕であったことが判明した。
こうしてみると、これら梅本家の伝承内容にはかなり高い真憑性か認められるのではないか。

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三、丸屋九兵衛の屋号「丸屋」と素姓について

先述したように、天明伏見義民に関する既刊の文献は全て『雨中之鑵子』に基づいでいるが、丸屋九兵衛についての人物像もこれに負うところ少なくない。
『雨中之鑵子』巻六の文末には、
「………爰に下板橋二丁目に剃刀鍛冶文珠四郎包光といふて、代々薩州の御用承り、勿論御家老中の定宿にて、御参勤にも御交代にも此文珠は御家老中の本陣なり、通り名は宗兵衛といふを、伜へ 譲り、其身は九助と改めて、町年寄役を勤め居たり。六十歳、又京町七丁目に丸屋九兵衛とて、壮年の者あり、農人にて朝より夕に及ぶ迄、山作をかせぐゆへ、雉子のこと異名す。是内にいざるゆへか。今一人は麹屋伝兵衛とて大文字町の者なり……」
と、天明五年七月江戸へ直訴に向った義民三人の説明箇所がある。

この中で、九兵衛については、同巻七でも「九兵衛は無筆故、如何と独身の虚無僧に中村靭負といへるを召連れ」とし、「無筆」の「農人」なる町年寄との素姓身分として紹介しているが、作者は、何故、九兵衛について、もう少し詳しい説明描写が出来なかったのか。九助とは余りにも具体性を欠く差のある描写である。

ここで私見を述べるならば、『雨中之鑵子』作者は、あえて、九兵衛の素姓身分に関わる描写説明を故あって憚り、暗に、はぐらかしているように思えてならない。この点で思い当る節が無いでもない。この巻六より先きの巻三には、丸屋九兵衛とは別人の九兵衛が主人公として登場する記事があるが、その巻三「百姓九兵衛伝助争論の事附仕置非道の事」における文章を読む読者は、うっかりすると百姓九兵衛と丸屋九兵衛とを作者によって錯覚させられる嫌があるように思われることである。

作者は、意図的に丸屋九兵衛の真の商い渡世というか素姓身分を暗に隠すか、はぐらかしているように思える。この点については、作者が、つい本音というか、九兵衛の素蛙身分、商い渡世を文章中のところどころで仄めかしている点で、逆に、憚りはぐらかし切れていないとも思えるので、その記事が、却って九兵衛が真の首謀者であったことを示唆しているともとれる。その点の描写箇所を挙げてみたい。

先ず、真のリーダーと思わす箇所を挙げると、
一、『雨中之鑵子』の「雨中」という語句が、丸屋九兵衛が先ず一人で直訴に出かけた折の文章として、巻七に「ある日夜に入り、雨そふるに付、干葉与七郎九兵衛に申けるは、今宵は雨中の事なれば、一宿候へ夜と共に物語りすべし」とあることによったものと思われること。
二、直訴が露顕した際、奉行筋が義民らの宅を七手に別れて閉居に当る際、同巻に「其一手は丸屋九兵衛、一手は下板橋、一手は大文字其外四ケ所に到る」と筆頭名指しで記していること。
三、伏見奉行家老用人が種々評定のうえ、強制的に町々へ文言認めと印形のために配った写しを巻八に記載し、「一、此度京町北七丁目丸屋九兵衛、板橋二丁目文珠九助、聚楽組大文字町麹屋伝兵衛、右三人の者、当七月頃より何り願筋有之趣にて………」としているが、この写しの部分が、今回の調べで、天明五年九月に書かれた堀内村文書で維新前民政資料(14)「文殊九助等直訴に関係無き云々」(写本)なる内容と同じである(が、「一、此度京町北壱丁目」とある)ことが判り、当時の奉行からみても、九兵衛を筆頭者扱いしていること。

次に、素姓身分については、次の章で述べるところの丸屋九兵衛が実は禁裏御用の紅染屋筋であったことをほのめかしている描写部分があること。その箇所は、巻九において、越訴後、一旦、九兵衛らが帰郷を許され深川を出発したが、不思議にも、是より先に、同志の焼塩屋権兵衛が漸く御免蒙るといって閉居されていた身から、旅用意をし、陽岳寺に至り.両人に逢ったという筋書きであるが、三人が帰路の用心を談じ会い、この権兵衛が京都の御衣紋方に故あるとし、堂上方并関東御装束の御用、御衣紋方の梅原九助、堤権兵衝、長谷川九兵衛と名乗り、三人共帯力にて駅々自由にて明る年の正月九日京に入り、旅労れを養うて十六日伏見へ帰ったというストーリー。ここでは、禁裏と将軍家御用の瓦、土器師である焼塩屋権兵衛と丸屋九兵衛をずり替えていることである。

こうしてみてくると、どうも『雨中之鑵子』作者は、必要なまでに頑に丸屋九兵衛の素姓を憚かって明らかにしていないのである。
それは何故か,恐らく、この事件の背後にいて尽力した者の素姓身分の発覚を恐れる余りから九兵衛についても素姓を明かさなかったものと推測される。

また、作者は、人名、地名に、高槻藩に関係するものとして、例えば高山右近、永井伊勢守・下成相(現成合)などを文章中に使っている点もあり、作者が九兵衛筋の者とも考えられる。そこで、これらの点の究明の手掛りとなり、拙論の重要ポイントと考えられた二点について私見を述べよう。二点とは、梅本家伝承にいう①「昔、錦の方で、染物屋をしていた」と②「今続いておれば十五代目に当る」についてである。

①の「錦の方で染物屋をしていた」という点に着眼し、先ず、屋号「丸屋」の調査として、京都西陣織物会館をはじめとして、京都の染織に関する会館にも足を運び、『京都町触集成』をも調べたが、「丸屋九兵衛」なる人物は、年齢・地域名との関係からは見い出せなかった。その後、親戚筋から聞いたことで、昔この西陣会館におられた御長老の話しを思い出し、「丸屋は、現代でも京都市中にその名の町名が多くある程でも分かるように、古くから由緒ある屋号で、抑、天皇の御衣を染めた皇室御用の染屋である」という。
そこで、手掛りは無いものかと、『京都大事典』(淡交牡)の附録部分にある京都商工会議所調査資料の「創業百年以上の企業」を調べたところ、「染色整理業の部」の中に何んと、「丸屋染工株式会社」なる「丸屋」一軒を発見した。後日、先方の山本陽一郎氏にお許しを得て、宿坊黒谷の瑞泉院(浄土宗)にて保管の丸屋家の過去帳を拝見し、うち一冊の表紙をめくるや、「丸屋」の由緒書らしきものを発見、綿々と毛筆で書かれていた。この文面がルーツ究明上、重大な手掛りとなった点で、ここに書き下し紹介したい。
文中の傍に付した―線と太字は論究となった箇所。

惟みるに桓武帝平安御遷都と共に染殿織殿の司ををき各朝廷の直轄とせられる而して染殿に属するものは紅紫黄櫨(ろ)の参裡を以て朝廷の定色とせられ民間に於ては之れが使用を禁ぜられたるものなるが其後十数世紀を経て之を民間に移され各々その業を営むことを許されたるもの黄櫨色は茶屋紫色は江戸屋紅色は丸屋とす
而して之等之家は均しく朝廷の御用を蒙るものにして世襲として永久子孫に継承するものたりしに、そもそも丸屋なる商号は祖先の最も苦心せし処にして総ての事物に対しては円満ならざるべからず。
円満にして何事にも通達せざるものなく一個の心より一家に及ぼし、一家より一郷に一郷より一国に其善良な感化を及ぼし終に宇宙の大も円満に依りて解火せらるゝものとの深意を寓したるものと伝承せり誠に眼庸すべき金言にして後世の一族宜しくここに留意して祖先の恩恵に浴せざる可からず然れども当時は未だ文化の盛ならざりし時代なるを以て業そのものに対する事蹟の詳細を知る能はざるは遺憾の極みとす
然れども中古の祖宗七氏美濃より出で寛政の初年頃より市内下長者町烏丸西入町に居住し皇室の御用を蒙り尚伊勢大廟の御用品の染色に属するものは悉く其命を拝せざるはなく数世連綿として皇恩に浴したりと雖も文治年間以来明治初年に至り維新の変革に遭遇して工場は再度兵燹(せん)にかかり記録及貴重なる家尽の一部を煙滅たるは千載の遺憾とす
之に於て居を現在の処に移し業務を継続し依然一皇室の御用命を奉戴し近くは今上天皇陛下御即位式の御大礼服の染色より最近明治神宮の御用品に至る迄御調進の栄を蒙るは全て祖先の遺訓を守り古来の染法を伝へ商号の名実を汚さざる歴代業主の誠神を失せざるに依るものたるを信ず
斯かかる尊ぶ可き歴史を有する丸屋商号のもとに養成せられたる徒弟も其数多く幾度人を以て数ふ可くと雖も能くその本分を守りこの貴重なる丸の暖簾(15)を分授せられたるもの今や参拾戸に及び、而してその業を盛にし独立自営せらるるは祖先の遺功に対する報恩の一端と信ず、予等亦幸にこの光栄に列す
於之かに今同族相協同し業務の発達を図り其祖先を初め一族故人の冥福を祈り永久に之を継続する機関とし丸の内会(15)を組織し其目的を遂行せんと欲するものに外ならざるなり

という内容で、どうやら大正年間頃の筆かと思われる。また、この由緒書の内容については、足立政男氏・上村六郎氏の研究と「中古の祖」の宗七氏が、古文書『最上屋喜八家文書』(16)に実在した人物であったこととも考え合わせると、かなり真憑性の高いものとも思われ、茶屋家(四郎次郎)由来や、上代紅染染色史上、貴重な史料となるものと信ずる。

②にいう「続いておれば十五代目」なる伝承に関しては、高槻での祖、三代目九兵衛こと弥兵衛から現在の梅本家母家筋の勉氏までは六代続いて二百年が経過しているが、今から五百年程前まで遡れようか。この点については先きの伝承にいう「壷」の伝来とも関わるが、西暦一四九〇年前後となり、室町時代中期、足利義政の頃まで遡れる計算になる。となると、秀吉が築いた伏見城下町においては、丸屋九兵衛の商い渡世は、伏見京町筋に来る以前から祖先によって行なわれていた筈であり、丸屋の商号の由緒書からしても、伝承にいう「錦あたり」かで、代々続いていたと察せられる。
ところで、先きの丸屋染工(山本家)の商号「丸屋」の由来文書の真憑性についての裏付けとして挙げた研究文献を紹介したい。
足立氏の「京染呉服仲買商人の系譜」によれば、「京染の起源は、西陣織物と同様に頗る古く、桓武帝平安遷都の時代に遡りうる。
延暦十三年(七九四)、平安京の造営と同時に、今の中立売通り大宮東入るの地に織物司を置き、この南に織手町を設け製織せしめ、その他に染殿、染戸等染色の司を設け大いに斯業を勧奨せられた。
当時の平安貴族の豪奢な生活は衣服の華美を競いさせ、しいては、これが京染技術の進歩を促した。京染が日本における高級染物であったことは後奈良帝の武田信玄の「掟書」の一節に、万石以上の武士にあらざれば、「京染」は法度にしている事実に徴しても、知れるとし、このことは紅染屋が富裕であったことを裏付けている。

さらに、「徳川時代になって、殊に、貞享、元禄に至り、西陣織物が定着発達して来るに伴って染色技術も大いに進み……中略……四民の需用も大いに高まり、特に紅染・紫染、茶染等の専業染屋が出現した。またこの頃には、染屋の店舗地域は西洞院四条の南に多く集まっていたようである。染屋に株仲間の制度が行われ、幕府の保護を受けるに至り、諸国染色業ありしも上等の織物は大抵京都に送り染上げるのが常であった」とされている。
又、上村氏の『万葉染色考』では、元治元年(一八六四)に石川明徳が『故事類苑」を引用して書いたものによって、江戸時代の紅染屋を紹介され、京都土産、染物の条に、紅染司は鳥丸上長者町小紅屋和泉拠(一五九〇年創業)らがありとし、また藤原公衡の管見記には、既に「正和四年(一三一五)四月二十五日……中略……紅染、四条、茜染、浄円云々」の記録が見えるとしながらも、丸屋の存在については一切記しておられない。直接お聞きしたところでは一切御存知ではなかったのである。
この二氏の研究等から、紅染の「丸屋」が室町時代以来、本家が禁裏六丁町に侈り、分家筋が、下京(一条以南とりわけ東は室町、西は西洞院が中心的な商業区域)における祇園社の座商の染殿座(祇園神人の座)に属し、近世に到るも、祇園社の山鉾区域に属したと(18)推察される。
また、紫染については、元禄の『人倫訓蒙図彙』が、紫師(19)として、上京石川屋が名高いとするが、油小路通蛸薬師下ル江戸屋では江戸紫を染め、当時すでに京紫と江戸紫との染法の区別があったとしている。このことは先きの「丸屋」の由緒文章を信憑性高いものとしたといえよう。

つまり、以上のことから、義民丸屋九兵衛自身あるいは彼の祖が、梅本家伝承にいう「錦」を近世の染殿座(20)が錦小路町にあった時点をさし、その後、応仁の乱後の禁裏六丁附として上京に移った本家「丸屋」筋であったか、もしくは、その分家として江戸時代の株仲間の紅屋(紅染と口紅)で、江戸屋(紫染)同様に、錦小路通りの室町~西洞院の区域にいたとも考えられる。
そこで、丸屋九兵衛が本家筋の者として仮定して、先きの「中古の祖宗七氏」について触れよう。

文治年間(一一八五~一一九〇年)以来世襲として継嗣した「丸屋」の業主が、何んらかの理由で途中絶えかかり、やむなく宗七氏を美濃より迎えて継続したと見える。実にこの時期が遇然にも伏見騒動事件落着の天明八年直後のことである。また、宗七氏の居住した地名は室町期応仁の乱後、朝廷に奉仕することによって強力であった禁裏駕輿丁座がその後、禁裏六丁組(21)となった地域であり、これが鷹司家に由緒ある鷹司殿町内にあって、旧名、新在家中の町通り(22)、現在の下長者町通烏丸西入るに位置したことになる。

つまり、丸屋染工(山本家)の祖は、京染のはしりである平安朝の染殿司被官の紅師以来の染法技術を保元・平治乱(一一五六~一一五九年)後、民業としての「丸屋」の商号をもって文治年間以来朝廷御用の紅染専業として継承するも、江戸期天明末に事あった為か同族筋の養子による継嗣で、その後も継続し、維新蛤御門の変の兵燹に遇い、一旦は小川通一条下ルに移られ、その後、大正か昭和に到り、弟(陽一郎氏の父)さんに業務を譲られ、新たに上立売堀川東入にて継承されている訳である。
この屋号の由緒文書の存在については、山本家では御存知なかったが、その後の調べでは、かつての小川通一条下ルにあった屋敷(現在も住居)には、倉の横に能舞台(恐らく、紅染能装束の披露か公家・武家への接待用か)まであって、昔はかなり富裕な商家であったと聞く。

次に、丸屋の分家筋で、天明期に、錦小路あたりの紅屋筋の者と仮定するに、果して丸屋が存在したかということになるが、幸にして、二つの文献資料によって知ることが出来た。一つは、沢田章氏の「御広舗呉服御用仲間と紅染屋」(23)によるもので、天明四年辰二月当時の紅屋四十軒を紹介し、その中には、まるや忠兵衛(室町上長者町下ル丁)・紅屋行司まるや徳兵衛(錦小路油小路東入丁)・まるや利兵衛(小川通下立売下ル丁)ら三軒が存在する。
さらに沢田氏によれば、「江戸時代に於て紅染屋が何時頃より起りしか確たる資料の徴すべきものを発見せぬが、既に天和年中には、紅屋仲間が成立して「稲荷講」(24)と称し、仲間定書を制定したことが知れる。尤もこの稲荷講なる紅染仲間は公認を経たものでなく、私の組合(構)に過ぎないが、享保二十(一七三六)年四月京都町奉行所にて紅花問屋十四軒を公認すると同時に、紅染屋は上下京合して百四十七軒を指定し、この以外は紅染営業停止することとなった」また「大津、伏見に紅花問屋があった」とも記されているが、伏見の何某氏かは分からない。

今一つは、井上頼寿氏であり、伏見稲荷大社刊「朱」(あけ)第七号にみる論考『紅屋仲間と稲荷講』によるもので、「安永五年丙申春正月神事搆中丙申二月奉納名簿」には四条以南の紅屋に丸屋何某氏が十軒名を連ねている事実である。またこの稲荷講についていえば、「新規加入にはまず稲荷寄進料として、銀子二十枚を納める掟があり、毎歳正月八日と七月十七日の両度には円山の双林寺の関阿弥で講を催し、何事によらず、商売上のとりきめは、この稲荷講にのっとって行い、稲荷大社への寄進も怠りなく勤めた」という。ここで気になるのは、双林寺での講が催される日が、九兵衛らの直訴前であり、一旦帰郷を許され帰ったとする日に近いこと。

さらに、この稲荷が官幣大社である上に、特に有職故実の学問を通じて、この稲荷社御殿預であった荷田(東羽倉家)春満(あずままろ)・在満(ありまろ)がそれぞれ将軍吉宗、その子田安宗武に仕えた関係があり、この事件当時の御殿預は羽倉摂津守荷田信郷(のぶさと)、目付は羽倉伯耆守荷田信之である。吉宗→田安宗武となると当然、吉宗の孫の松平定信も、羽倉家を通じて有職故実の学問に通じた(26)ものと思う。
仮に、丸屋九兵衛が、紅屋として稲荷講に加入しておらずとも、羽倉家が定信と輔平ら公卿とのパイブ役になったであろうことは十分考えられる。また『雨中之鑵子』作者が、その「序」の記事で、自分は六十に余る男で、妻子、兄弟もなく、俳諧を好む李風(俳号)といい、ある日酒を二三盃かたむけて寝入ったあと、夢に、李風の枕近くに異鉢の老翁忽然と顕れ、我こそ此清水谷に年久しき狐にて、此所の稲荷の社守護なるが云々、と稲荷の狐を登場させていることから、どうやら羽倉家の人物が『雨中之鑵子』作者の第一候補とも考えられないでもない。
かつて荷田春満(羽倉斉(いつき))は、吉良邸の見取図を秘かに大石に渡して本懐を遂げさせた陰の人物(27)であったという程である。『雨中鑵子』作者については、今後の研究課題としたい。

ところで、この稲荷講の他にも実に興味深い点のあることに気付いた訳である。それは、梅本家伝承にいう「錦小路通り」の附近には、何故か丸屋九兵衛と伏見騒動に関係する事柄が幾つか現われたことである。二、三列挙すると、
一、祇園社山鉾に関する占出山「占出山町文書」と「願書」との関係
二、丸屋染工山本家の忠兵衛氏と先述のまるや忠兵衛との関係
三、梅本家医者輩出と高槻藩典医和田東郭(一七四四~一八〇三)との関係

先ず一については、この伏見義民の「願書」の部分のみが、実にこの錦小路通り烏丸西入ルに位置する占出山町の『故実録』(28)に記録されているという事実である。この中に「伏見驛騒動願書」という表題で記載されているが、調査の結果、『雨中之鑵子』「願書」に比べて人名の羅列が異なり、町人名もより多く詳しい。
また、「於関東願書之表吟味荒増之巻」部分が無いことから、恐らく占出山町独自のものと考えられる。この点について推測すれば、九兵衛九助が駕籠訴後、帰郷を許され権兵衛ら三人が京都には天明六年正月九日に入り、同月十六日に伏見に帰り、町民の大歓迎をうけた筈である。何故に京都に一週間近く停泊したのか、一日も早く郷里の家族との再会を待ちわびていたであろうに。
これは恐らく丸屋同族の[まるや徳兵衛」方かに、停泊中、持ち帰った「願書」の本紙が、彼らの語りも加わった上で、占出山町文書の一つとして書き記されたものとも考えられる。
また、直訴への密議で再三、京都先斗町の離れ座敷を選んだのは、伏見奉行管轄下でなかっただけでなく、むしろ京都の方が何かと(公卿・大名屋敷との連絡可能)便利であった為、富商行きつけの場所として利用したとも考えられる。さらに、この占出山町は近隣の町と供に、古くから新任町奉行・所司代役引き渡しの際には、町が当番制で就任大名の出迎えもしていることも興味深い点である。

また、占出山と現在の新京極通四条表通りに位置する「染殿地蔵」とが共に、昔から安産守護として信仰されている所であるが、この染殿地蔵は、染殿院の俗称で、当時どの宗派にも属しない金蓮寺の塔頭で十住心院と称し、本尊の地蔵菩薩が空海の作とされ、のち文徳天皇の皇后藤原明子(染殿皇后、摂政藤原良房の女)が本尊に帰依し、清和天皇を出産したということからその名が生まれ、江戸期には名地蔵の一つであり、寺名から染色業者の信仰も集めたといわれる。
ちなみに、この金蓮寺住職は高齢の山羽浄阿(学龍)氏で、御縁というか東山OBとのこと。氏の御説明によると、かつての天明の大火によって記録文書類は一切焼失したとのこと。現在、この本尊前にある寄贈石「清浄」に刻まれている嘉永年間の津国屋伊八郎(31)という紅染関係者の名が印象深かった。

二については、先述の紅屋仲間の「まるや忠兵衛」が室町上長者町下ル丁とあったが、この地が丸屋染工方の中古の祖宗七氏の住居地とほぼ同じになる点で、同一の人物とみる。

念の為、本家丸屋に忠兵衛氏なる人物がいたかを宗七氏以来の菩提寺瑞泉院の過去帳より法名を拾らうと、寛保以前には丸屋はなく
1742寛保二年三月十七日 黄誉玄流居士 西洞院押小路下ル 丸屋長兵衛(忠兵衛の分家)
1743寛保三年六月二十九日 光誉?空且夕信士 丸屋吉右衛門(宗七の分家で山賀家)
1764明和元年十一月七日 釈浄貞 丸屋忠兵衛父
1773安永二年六月三日 釈尼妙清 丸屋忠兵衛妻トミ
1802享和二年五月二日 光岳明照信士 後藤宗七父
1815文化十二年六月九日 釈浄休 丸屋忠兵衛 性運父
文化十二年十月二十五日 釈寿貞 性運母
1824文政七年八月三十日 済誉陵海居士 後藤宗七
1846弘化三年一月二十二日 智苗童女 丸屋喜兵衛子(忠兵衛の分家)
1853嘉永丑子七月四日 当院十一世(栖松院)
航蓮社得誉真海性運和尚 離山後大坂ニ死ス

とあり何と、総本家「丸屋」から性運こと忠兵衛(法名上の三代目忠兵衛)氏が天明後の寛政年間頃に急遽仏門に入ったことが知れる。総本家丸屋は、これで一旦絶ち切れるが、丸屋の同族筋宗七(後藤家)氏が継承し、後、その分家の山本家に「丸屋」の商号を継がせ、後藤家は、「丸紅染色有限会社」として独立されたことが判明した。
性運こと忠兵衛氏が栖松院(永禄七年建立、のち、嘉永年間、瑞泉院に養親院と共に合併されるが、当時の信者は、禁裏出入りの家元的商人が多かった)第十一世住職となった背景には、恐らく、本家筋丸屋として、この事件に関わっていたがための朝廷への詫びと、亡き九兵衛への追善供養、恐らくは、迫害から逃れる為の出家が考えられる。それも鷹司輔平の関白辞任と期を一つにしたとも考えられるが、離山後、大阪高槻で亡くなっている。
となると、総本家丸屋は元、公卿日野家出身親鸞開宗の浄土真宗の信徒であった関係で、事件後、本家筋か分家筋の九兵衛伜が、高槻藩内に住するも、真宗本願寺派西教寺の近くに居を構え姻戚関係をもったものと推察される。

また、丸屋分家筋に西洞院押小路下ルに丸屋長兵衛なる人物がいたことも分かった。
さらに、忠兵衛氏とは、兄弟筋と思える喜兵衛氏が、子供の法名のみあることから、先述の梅本家伝承にいう安満に一時居たとする丸屋喜兵衛夫婦とも考えられないでもないがゞ果たしてどうか。
さらに加えて、先きに紹介した『稲荷講志』にみる十名の丸屋は、「寛政九年己十一月八日付稲荷社冬御祭再興願主人名簿」には一軒の記述もない。この稲荷講名簿といい、丸屋染工過去帳といい、「伏見町誌」にいうところの、伏見における丸屋同族筋が九兵衛没後十年足らずにして悉く離散(32)したように、京都市中における「丸屋」同族筋にも、累が及んだことを物語っているのではないか。ということは九兵衛が真の首謀者であったとも考えられる。

三については、室町期より禁裏と町衆のパイプ役としての衣紋家の山科家があるが、ことに内蔵頭(33)山科言継が、禁裏の施薬院にも出入りしていた関係で、投薬・往診を六丁町の町衆に藪医者的に施し、調薬「香雲散」によって生計を立て、時の伏見宮貞数親王が病気の為、投薬の所望を求められたが、自分は素人であるとの自覚を以て断り、医者半井驢庵(34)を推薦したという(35)。となると、丸屋と衣紋方山科家の関係からすれば当然、丸屋にも医薬知識は伝授されたことと察せられるが、むしろ老舗の「丸屋」独自でも和漢医薬の知識は当時とすれば相当なものであったと思われる。
というのは、紅染に使う紅花が婦人病に効用あり、梅も烏梅(燻梅)が有機酸を多量に含有するため、下痢・咳・体力減退、腹痛に効用あり、濃縮の梅肉エキスは食あたり、痛風、高血圧症・糖尿病・胃腸病の体質改善にも効くとされていることからしても、九兵衛の孫、九右衛門が高槻城の医者(36)(やぶ医者とも御馬医ともいう)としては充分勤まったものと思われる。

故に、高槻に伜弥兵衛が移った当時から屋敷の前に植えた梅、それも、蕪村の句“おちこちや梅の木の間や伏見人″というように、安永~天明期にかけての伏見の城山が短命な桃樹に替って、梅樹におおわれたという梅を伏見の片見として育てあげ、医薬としても使ったとも推察される。その後、国松氏に至っては本格的医者であり、高槻藩典医和田東郭(事件当時、柳馬場四条上ルに住み、のち御医を拝し法眼にのぽる。
父は瘍科で高槻侯に仕えた。摂津高槻の人)の子孫(高槻市本町に住)がよく丸屋(梅本)を訪れ、唐物陶磁器を眺めては所望するのが常であったという,その国松氏も長男であるにも拘らず何故か明治二十五年に分家し、上京しては、当時の駐英大使松平恒雄氏(37)とは君付けできる仲だったという。

また天明期、京都にあった高槻藩屋敷も錦小路通り大宮上るに位置し、藩主も大坂城代、京都所司代留守役をもした(38)譜代大名の永井氏であり、公卿とはかなり眤懇の仲であったという。そういう永井氏の高槻藩へ、公卿の推挙もしくは、和田家の推挙があり、迫害から免れる安全パイとしてあえて、京都郡代・高槻代官小堀(政方の分家)数馬、縫殿父子の関わる高槻城下の一角の地に三代目九兵衛こと弥兵衛が居を構えたものと推察される。

このようにみてくると、義民丸屋九兵衛は錦小路通りあたりの紅染屋筋であったように思えてならないのである。
ところが、一つ疑問が残る。義民丸屋九兵衛は伏見京町北七丁目に住し、農人にて山作りする者と『雨中之鑵子』はいうが、果して伏見では何を商っていたのであろうか。手掛りに、当時、九兵衛氏と親戚筋で総本家に当るという伏見京町北八丁目に住した丸屋忠兵衛氏で現在、松村三郎氏の保管される過去帳を拝見したところ、忠兵衛氏は逆の分家筋と判明したが、他に「梅屋了薫」「灰屋宗兵衛」なる法名を発見。
また、九兵衛氏の住居は二軒(39)あり、うち一軒は少し離れ、八帖程の、床には藍染に使うような壷は埋めていない「室」があったと聞く。この室については、京都染色試験場の藤井氏によって、紅染の材料の烏梅か燻梅作りに使った可能性もあることがわかった。となると、「梅屋」と梅酢・「灰屋」と灰汁(あく)とが妙に合致するではないか。
伏見城山の梅樹から取れた梅の酸性の烏梅(梅酢)とアルカリ性の灰汁(米俵藁灰汁)が紅花による紅染には必要で、紅染の発色はこの烏梅の酸味にかかっていると言われる程である。

ところで、天明騒動で惣年寄役として奉行側であった下村宗左衛門(大文字屋大丸の祖、下村彦右衛門正啓から何代目か)が、伏見の京町北八丁目を本拠として京都などに支店を出したと同じように、丸屋九兵衛も京都を本拠とし、伏見では「室」を燻梅工場、もしくは烏梅・紅花の貯蔵庫としたか、あるいは紅花問屋であったとも推測できる。あるいは、本拠地が逆であったかもしれない。
いずれにせよ、紅染関連事業を営んでいたと考えられる。こう考えると,隠居する身で、「農人にて朝より夕に及ぶまで」梅畠に入り、伝承にいう「叺」に梅・烏晦を入れ、梅作り「山作」に精を出す様子とが合致しないでもない。
また余談かも知れないが、「雉子のこ」とあることから、江戸幕府御庭番の隠密長屋が「雉子橋」門内にあったことを暗示しているようにも取れる。確か、松平定信は隠密政治でも町奉行よりも町人の隠密を相廻した点で、名高い人物であった(40)というが、思い過ごしであろうか。
かくして、彼が京都・伏見を股にかけた紅染屋筋の者であり、本家[丸屋」が禁裏御用付の紅染屋であり、恐らく将軍家御用も焼塩屋同様に考えられるが、その背景的素姓ゆえに、この伏見騒動事件では、恐らく、首謀者として活躍し、塗炭にあえぐ伏見市中を、身命をかけた同志六名と共に救ったと推察される。

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四、田沼意次失脚の真相

天明三年浅間山の大噴火に踵(くびす)を接して襲来した大飢饉は、農民に重税と頻発する災害の二重の責め苦を強いり、窮乏のあまり、貧農、離村を激化させ、無頼の遊民の横行が目立ち、百姓一揆、都市・騒擾(打ちこわし)と並んで領主層を脅かす全国的な社会不安の元凶となり、都市騒優にいたっては実に最大のピークを迎えた年であった。
こうした天明期にあって、田沼意次が、問屋、株仲間などの育成強化、商業資本との結託政策、商品作物栽培奨励、下総印旛沼手賀沼開拓計画、外国貿易の奨励、貨幣経済政策などを実施したが、それとは裏腹に、武士の困窮に拍車をかけ、儒者ら知識階級の不満著しく、天明飢饉にもみるべき具体策が打ち出せなかった点などで幕府体制の基礎の動揺を招くものとなり、世人の恨みを買い、やがて定信らによる田沼政権の倒壊と期を一にして、この伏見騒動は火ぶたを切った。

そもそも、騒動の発端は、幕初以来、特権として認められてきた伏見宿入船に対する石銭を小堀が横領した為、町民が激昂し、奉行所役人と乱闘して奉行の処置を改めさせたが、政方はさらに、冥加銀上納と引き換えに、淀川筋の魚類売権を京都の問屋商人に与えようとしたので、同地の漁民四百余人が三日三晩奉行所に坐りこみ、デモンストレーションを行い、遂にその計画を撤回させた。

しかし、政方の無軌道な行為は家来たちによる跳梁ぶりを許す元となり、遂には「御用金の仰付」「取逃無尽取立・加入強要」「参府の用金千五百両」「惣年寄の横領(41)」「役儀取上料百五十両」「金子のゆすり取」「質屋会所と大金取立」「米問屋許可取消料」「博突会所設置」「釣銭取引の停止」「首代と入墨代の取立」「七ヵ年に十万両の取立」などの暴政と現われやまなかったので、憤懣を爆発させ、義人の出現となり、江戸寺社奉行への駕籠訴を敢行、その後、定信が溜間詰に昇席するや、天明五年十二月小堀政方は「御役御免」となり、その後改易に処せられた。これと前後して、定信ら譜代層の田沼一派排撃はこの伏見町民の闘争を直接の背景として開始され、やがて田沼失脚の工作手段として利用されたが、背後では私憤もつ朝廷側の摂家鷹司輔平の尽力の功あって田沼失脚・訴人側町人全面勝訴となったと考えられる。

ところで、天明五年十二月、政方伏見奉行御役御免となり、後任の久留島信濃守指揮のもと、京都町奉行で再吟味が行なわれ、時の京町奉行丸毛は奉行側・町人側合わせて百八十余名の吟味にも田沼一派排撃の兆しを気にし、一向に身が入らず手間を取るばかり、吟昧は遅々として進まず、一方の義民へは厳しい取扱いと拷問があってか、天明七年九月には、伏見屋・柴屋・板屋が相継ぎ牢死、十一月四日、禁裏・将軍家御用の焼塩屋権兵衛までが牢死、このままでは九兵衛、九助の身も安じられたか、同年十二月、定信老中首座となるや、この吟味が急速、江戸竜の口評定所で行なわれることになったが、明けて天明八年一月三日、九助公事宿にて病死、同月二十三日、九兵衛も白州にて精根尽き、判決見ずして病死。五月に裁断下る。
かくて、吟味遅延の責で同年十二月十六日京都所司代戸田因幡守忠寛も朝廷に対する幕府の「関東の御威光」なる面子もあってか罷免されるや、跡役としての松平乗完に替り、急遽、定信自らが上京し、所司代役引継ぎという違列をやってのけたこの違列行為は、彼の寛政五年における老中辞任の様態とも合わせ、どうも気になるところである。

つまり、定信の老中職の身の引き方が鷹司輔平の突然の関白辞任と結びつくとみたい。
というのは、輔平は、かつての将軍家宣の正徳の政局で活躍した新井白石の進言により創立した閑院宮家、直仁親王の末子であり、三つ歳上の姉が閑院宮倫子、時の将軍家治の正室であり、光格天皇を甥に持つ関係にある。
後、鷹司家に入り継嗣し、この鷹司家も吉井松平家と姻戚関係にあったこともあって、輔平と御三卿出身の定信とは眤懇の間柄である。その上、定信の父田安宗武は御三卿であるばかりでなく、特に有職故実の面でも子定信共にこの筋の学界的存在であり、この点でも朝廷側からは厚い信頼を得ていた。
そういう背景にあって、かつて、将軍家治は絶世の美女と言われた閑院宮倫子を妻にむかえ仲睦じかったが、男子無く、一橋治済と田沼意次による継嗣工作によって、妾お知保との間に家基をもうけた経緯がある。

閑院宮家の血を引く輔平にしてみれば、閑院宮家と将軍家との関係を成り上り者の田沼によって傷つけられ、ひいては、閑院宮家をないがしろにしたとし、田沼に対する少なからぬ私憤が姉倫子共どもあったに違いない。
倫子が三十四歳という若さで他界して以来、田沼意次への彼の私憤が、時同じくして、田沼失脚を窺っていた譜代大名グループのりーダーとしての定信の私憤(田安家の継嗣 問題)とが意を合していたやさき、京都伏見では、天明二年以来続 く田沼派の伏見奉行小堀政方の暴政に抵抗する「伏見騒動」がタイ ミング良く起った。
やがて、九兵衛らが寺社奉行への越訴(駕籍訴)を敢行し、禁裏御用達筋の「丸屋」のみならず、「焼塩屋」までが関係しているとの情報を、衣紋方の高倉永範、山科忠言らより得て、輔平は絶好の機とみるや、田沼罷免に追いやる最大の要因として、この事件を利用し、定信との間で極密裡に進展させ、訴人側町人(義民七名)勝訴とする一方、小堀政方罷免・改易それを前後しての田沼一派排撃工作を進め、ついには朝廷の二重(倫子,丸屋)の怒りをかった形として秘かに将軍家治に圧力が掛り、将軍の専決により命下って「そのことたしかに知る者なし」的に田沼罷免となったのが真相ではなかろうか。このことは同時に、今日までの先学の田沼意次に関する収賄汚職談の是非についての再検討の必要を意味する。

また、意次失脚の発端は、今日では、その子意知の刺殺事件にあるとされているが、これを暗殺説とするならば、江上照彦氏のいう「例のチチング(Titsing、Isaac.一七四四~一八一二。意次の開国貿易と造船計画に参画したォランダ人の出島商館長)もまた、腹黒い保守派が、田沼父子の革新政策をつぶすために、若い意知を殺して、その将来の展開を未然にふせいだのだ、との噂話を河きのこしている」や「意知殺人事件の黒幕こそ、ほかでもない(42)定信なのだ」などからすると、意知刺殺事件も、定信、輔平が意次失脚の工作の一つとした感がないでもない。但し、江上氏のいわれる「腹黒い」人物はむしろ一橋治済ではなかったか。

というのは、輔平、定信にあっては、事件落着後、「寛政御造営」においては、朝幕の「旧儀の復古」「関東の御威光」の両方を打ち立てることに相協力し、天明二年以来の「太上天皇尊号一件」では共に「公武御したしみ」に勤めた仲であった程、強い絆で結ばれていた。
しかし、この開、朝廷側のこの「尊号一件」を利用して、次の将軍家斉の父一橋治済が「大御所」の贈号を欲求した。定信はこれを抑さえんがために、やむなく「尊号一件」も突き返さざるを得ない苦しい立場に立たされたのである。

こうした状況下にあって、輔平は、念願の田沼失脚、訴人側町人勝訴を叶えはしたが、幾度か老中辞任の意を持つ定信と同じ心境、立場に立たされ、治済の打ち出した「大御所贈号問題」が影響し「尊号一件」に行きづまりを感じ、定信よりも一足早く、寛政三年、関白を辞し、その後寛政九年七月二十一日、世を厭い、出家の身となったものであろう。

一方の定信も、親藩、譜代層の長として溜問詰に入って以来、御三家・三卿の後推しで老中に就任し、「寛政の改革」に着手するに及び、一度は、江戸霊巌島吉祥院の歓喜天願文(43)にみられる様に、正に伏見義民よろしく義民の心境で、「越中守一命は勿論之事、妻子之一命にも懸け奉り候」という硬い決意を表わし、吉宗の享保改革路線を踏襲した。
しかし、幕府の財政的危機からの脱却を改革の中心としたが効あがらず、幾度かは老中辞意を願い出たが叶えられず、幕閣の黒幕的存在の一橋治済には、かつての「田安家継嗣問題」でいいようにあしらわれ、またや「大御所贈号問題」では苦しい立場に追い込まれた。これ以上治済に利明されるのは御免蒙ると、先きを見越してか、彼も政治的人間関係の悪辣にいや気がさし、輔平同様についに寛政五年七月老中を退き、その後再び白河藩主として悠々自適の生活を送ったというのが真相ではないか。

なぜならば、もし定信の身の引き方が何か失政でもしたが為の罷免であったとするならば、なぜ、定信に代わった老中主座松平信明らはじめ「寛政の遺老」たちによって、定信の改革政治の基調が文化年間まで受け継がれたのか。
さらに、定信退任してしばらく後、かの意次の六代の孫田沼意正にいたっては、閑院宮家の私憤もどうやらさめた、仁孝天皇の時代、文政五年には田沼家復帰ともいうべく若年寄に昇進しているし、また、かつての延享二年罷免になった松平乗邑の孫も、桜町天皇・一条家から光格天皇・鷹司家に代った時代にあって、寛政一年には、例の京都所司代から老中にまで抜擢されているという史実をみるとき、ここにも松平乗邑と田沼意次の「そのことたしかに知る者なし」的罷免劇の真相の共通性が窺えるように思えるのである。
かくして、輔平・定信退任後に至っては、将軍家斉は父の意を継いでか「大御所」時代を断行するに至る。また一方の「尊号」は明治十七年、明治天皇が光格天皇の父の典仁親王に対し、慶光天皇の号を追贈するに至る。

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五、むすび

天明吠見騒動事件に絡めて、「田沼意次失脚の一要因についての一考察」という実に大それた表題とした理由は、この考察の基礎となった丸屋九兵衛なる入物の素姓・身分が、これまでの文献に述べられていること(百姓)と、末裔として調査した素姓上の伝承内容(染屋)とがあまりにも食い違っている点の解明から派生した推論の結果生まれたものである。この拙論には、出来るだけ末裔としてお私情を避け、客観的に取り組んだつもりであるが、文章中には多々不適切な部分や修辞上まずい点があったことと思われるが、意のある所をお汲み頂きお許し順いたい。また、この拙論が田沼意次の研究に何んらかの問題提起となり、義民・一揆研究や上代紅染染色史などへの一助ともなれば幸であり、御叱正、御指導が頂ければ幸甚である。

むすびにあたり、末裔としての私感を少し述べたい。
この伏見義民七氏の業績を考える時、時代が異なる現代にあっても、今尚、現代を生きる我々に学ぶべき何かを教えてくれているように思えます。近頃、何か大切で、何を改め、何を護り、何を愛し育てて行かねばならないのか、皆目その筋道が失われているように思うのは、私だけでしようか。何か事をやり、注意すると、「自分だけと違う、皆もやっている」「時代が違う」という一言が返る昨今、これは、余りにも急ピッチで発展した物質文化が精神文化を追いやった結果生まれた利己主義に根ざした言葉ではないでしょうか。

昨年五月、薩藩九烈士・木曾川薩摩義士平田靭負(ゆきえ)・伏見義民の合同「追慕慰霊法要」が伏見区鷹匠町にある大黒密寺(薩摩藩菩提寺)で行なわれ、西郷隆盛・坂本龍馬会見の部星にて行なわれた講演の席上で、追慕会会長の川畑愛義先生(京都大学名誉教授医学博士)は次のように述べられている。「国際社会が今や、都市砂漠と化し、戦後日本は昔の日本人の持った義理・人情が忘れさられている。

義士と言えば、赤穂義士の方が有名になっているが、これは一主君の為にやったまでのことで、木曾川治水工事という謂ば公共の為、人民の為に自刃した平田靭負翁や伏見人民の為に闘い散った伏見義民とは異質のものであり、むしろ、平田靭負や伏見義民の方が有名になっても良い筈であり、今までアピールが足らなかったように思う。
その意味で、私は学生達を前にした大学での講義には、この点の違いを必ず話します」と。これら義人たちは、自分を捨てて公衆、正義の為に一身を捧げた。これこそまさしく菩薩の行ではなかったか。

今や、かつての日本人の美徳とした義理・人情が薄れ、利権主義、個人主義がはびこる世の中にあっては、弱きを助け、強きをくじく男だてという真の侠客的人間の何と少ないことかとつい思いたくもなる。それだけ時代が変わり、価値感が変わったのであろうか。 今どき、人の為に事を成すということには多少抵抗あることとしても、してもらったことに対して素直に、恩義を感じるとか感謝の念を持てる人間が何と少なくなったことか。

学校教育に携わる者として、このことを痛切に感じる次第である。今日の青少年に対しては、この人情というか、思いやりというか、和の大切さというか、助け合って事を成すということを学び取ってもらうべく、我々大人が、家庭や教育の場で指導し、子々孫々にとって何が大切かを教えてやらねばならないのではないか。それにしても、「人がやったから、自分もやる」という自己の無い青少年が今日何と多いことか。

前本学園長藤原弘道先生が、青少年への提言として、「現実の自己を調節して、いかなる場合にも、自分の命をかけてたよりうる自己を形成してこそ尊いのである。つまり、河ものにも犯されないが実の自己を見出し、そこによりどころを求め、そこに腹を据え、腰を落着けることによって、はじめて、他を思いやる気持ち、奉仕する気持ち、ものに感謝する気持ちがもてる」とされているが、まさしくそこに、正しく、明るく、仲よく、和やかな人間像を見るのではないか。

二百年前の伏見義民だけでなく、その前後するもっと多くの、歴史に埋れた義民といわれた人達が命を掛けてまで、世の為、人の為に尽した精神が、時代、社会の違う現代人の我々に、真のあるべき人間性、人間愛、社会に役立つ現代人とは何かという教訓として少なからずも教えてくれているのではないか。義民祭が二百年も続けられてきた理由は、この点にあるのではないか。

昔、自由民権運動華かかりし頃、時に明治二十年、伏見町民が義民の事績を忘れがちなのに心を痛めた地元の有志が御香宮境内に記念碑建設を企画し、たまたま伏見に立ち寄った勝海舟が碑文を書き、それを聞いた三条実美公が題字に腕を振るったという。このニュースは当時のマスコミに紹介され、劇化、講談まで演じられ、かつては府下南部笠置に到るまで、義民祭(毎年五月十八日)が町中で、教育の場でも盛大に行なわれた時代もあったが、戦後、時代の世相が変わり、価値感が変わる中で、地元青少年にも忘れさられようとしている昨今である。

ここで、伏見義民慰雲祭二百回を迎える年に当り、関係各位にお礼を申し上げたい。御香宮伏見義民顕彰会並びに、かつての寺田屋事件において、地元町人で大黒寺の檀家総代でもあった関係から、傷ついた薩摩義士をサラシに巻き、遺骸を大黒寺に埋葬したという縁のみで、深い人間愛から数代にわたり、百年も続いて先きの「合同追慕慰霊法要」の事実上の主催者である伏見の斎藤家にはしみじみ心を動かされ、頭が下がる思いです。
天明当時、同じ京町筋の一丁目で、井筒屋という呉服商であって、現、斎藤酒造。御子息が教え子と聞き、つくづく縁の深さに驚いた次第。
昔から良く仏縁という言葉を聞きますが、義民碑との奇遇にはじまり、縁ある人との出会い、正しく先祖の引き合わせによってこの拙稿が書けたのだと思うばかりです。

最後に、この拙稿の発表の機会を与えて下さった本学園長並びに本学園学芸研究会並びに図書館関係者各位をはじめとして、御世話になった京都歴史資料館の川嶋将生・宇野日出生の御両氏、平安博物館の西井芳子氏、高槻市役所文書課資料室の富井康夫氏、資料提供の御協力を頂いた御香宮宮司三木善則氏、東京深川陽岳寺住職向井真幸氏、伏見稲荷称宜鳥井南正紀氏、黒谷瑞泉院往職井上昌一氏、丸屋染工株式会社山本陽一郎氏、平田(焼塩屋)薫蔵氏、東方山西教寺住職堀川憲慧氏、日高イト氏、梅本勉氏。また、特に激励と御協力を頂いた本学園の田原法信、石田浄の御両氏をはじめ松下雅文氏、藤井哲朗氏、奥田歓信氏、以上諸兄各位の御厚情に対し、ここに深く謝意を表します。

本作品は昭和63年3月31日東山学園研究紀要第33集別冊記載を筆者の石橋昇三郎教諭の承認を得て本ホームページに掲載するものである。

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