講談 文殊九助(二代目 悟軒圓玉師より)

投稿日:2001年1月1日 更新日:

このお話の著作権は、悟道軒圓玉師にあります。師の許可を得て掲載したものです。
声を出して読まれることをお勧めいたします。
悟道軒 圓玉師 は交通事故により現在重度身体障害者として川越にて暮らしております。
永 六輔氏によりラジオ等でその活動が紹介されました。
現在も演目は減りましたが活動いたしております。
どうぞ機会がありましたら講演の機会を創っていただければ幸いです。

講談 文殊九助(二代目 悟軒圓玉師より)

ええ、いにしえより、東の佐倉宗五郎、西の「文殊九助」と、犬打つ三才の童にまで其の名を知られたる義民の伝、張り扇を叩きながら虚実とり交ぜ申し上げましょう。なお、月、日は旧暦ですから、今日とはーケ月から二ケ月のずれのあることを御承知おき下さい。

頃は安永から天明の時代、田沼意次が老中として権勢をふるい、賄路の公行しておりました俗にいう田沼時代のことであります。世情騒然として、安永元年の江戸大火、諸国の風水害、続く疫病。そして天明の二年、九州、瀬戸内地方の大凶荒に始まる「天明の大飢饉」は、各地で木の芽草の根、猫や犬、果ては死にかけな者を殺して人肉を食らうという、地獄の様相を見せておりました。
江戸でも諸物価は高騰し、天明七年、深川六間堀の米屋が「打ちこわし」に襲われたのを始めとし、暴利をむさぼっていた大店が数千軒も打ち砕かれました。
一方、農村では各地に一揆が続発し、庶民は困窮しておりましたが、田沼政権は強力な策もなく、ただ政権延命工作に腐心するのみでありました。
さて、山城国伏見の奉行小堀和泉守は、近江国小室において一万三千六百石。小さい大名ではありますが先祖の小堀遠州は遠州流茶道の祖であり、また家康の作事奉行として、名古屋城、大阪城、二条城の工事を担当したほどの人でした。
ところが当代の政方は、政治向きのことはトンとかえりみようともしません。
外出中、きりょうの良い娘が目につきます。
「あれに居る娘は何者であるか、名を尋ねよ」
早速に家来が娘の跡をつけて親元を確かめますると、相当の支度金を与えて側女に召し抱えます。するとこの女が、
「ネェ、と、の、さ、まァ」
てんで鼻声一つで、髪結い職人の兄を与力に取り立ててもらい、財満平八郎という侍になった。これに味をしめてまた
「ウツフン」

今度は、大阪から人気役者を呼んで、奉行屋敷の中で芝居を演らせた。この役者も侍に取り立てて市場吉兵衛、町会所取締の役に付けました。
実に恐ろしいのは、女の鼻声であります。
きのうまでの職人、役者が大小を差して侍になったんですから、嬉しくってしようがない。お役大事と務めに精を出せば良さそうなもんだが、そこが凡人、仕方のないもんで肩で風を切って伏見の町を歩き廻り、ささいな事に難くせをつけて暴威をふるい、賄路でも贈れば曲った事も見逃すという有様ですから、伏見の町人こそいい災難でございます。
真実お家の為を思う忠臣は御前を遠ざけられ、あえて諌言する者はお手討にされてしまいます。誰れしもおのれの身はかわいいので、意見をする者も居なくなってしまいました。
それをいい事に政方は臣をはべらせて勧楽のかぎりをつくしておりますから、勝手元が不足してまいります。
江戸時代の伏見は、大阪との船便の発着で大層にぎわいまして、豊かな町でございました。
しかし奉行の小堀政方は、驕奢にふけって浪費を続けておりますから懐はいつもピイピイ。足りなくなると伏見の町人へ、五百両だ、千両だと、たびたび御用金を仰せ付ける。無暴な御政道に伏見の人々の困惑は深まるばかりでしたが、そんな事はおかまいなし。
ある日の事、家来の市場吉兵衛を召して、
「町人どもより五百両の金子を調達致せ」
「ハハツ、かしこまりましたが、これまでの用金二千両を町人共へ返済しておりません。この上、用金を申し付けましては、苦情をとなえ京都所司代へでも訴えぬものでもありません」
「ではどう致す?」
「町人共が自発的に金子を差し出すよう取りはからいますれば、万事お任せを……」
元が役者ですから筋書を作るのはお手のもの、ありもしない事をでっち上げまして町年寄役連中を呼び出しました。
「一同まがり出でたか。ほかでもないが近々、京都所司代久世出雲守様ご案内によって公家方ご巡見がある。ついては新町七丁の間の悪路を三日の間に直さねばならん。本来なれば町方で致さねばならんところであるが、できかねるとあれば、上の威勢をもって多くの人夫を集めて工事をしてやるがどうじゃ」
急に三日間で直せといわれても無理だ。それをやってくれるというのですから喜んで南の町年寄、丸屋九兵衛が、
「申し上げます。私共の手では、三日や五日ではとても出来ません。お上様にて遊ばして下されば誠に有難く、お礼申し上げます」
「コレコレ、お礼申すだけでは済まんぞ。上にも限りあるお手元であるから、その方達も金子を差出すように。算当では、五百両を下らず千両を上らず、三日の間に上納せよ」
そうそう世の中にうまい話はないもんで、一杯くわされたと気がついた町年寄連中、がヤガヤ……。
するとそれまで黙って様子をみておりましたのが北の町の取締りをしている文殊九助、
「マア皆さん、ちょいとお待ちなさい。お役人様へうかがいます。それでは三日の間に手前どもで道普請ができますれば、ご用金は納めずともよろしゅうございますか」
「もちろんの事じゃ」
「それでは明日より三日の間に、七丁の道、見事に普請致します」
「九助、請合って万一できぬとあれば処分いたすぞ」
「ハイ、永年の間年寄役を勤めて参りました文殊九助、この首にかえましても必ず仕上げてごらんに入れます」
と、心配顔の他の年寄役を代表して請書を差し出しました。
さあ九助を始めとする年寄役の連中、新町七丁の間の一軒一軒を
「さて、今度こういう事になったが、総出でやれば出来ない事はなかろう。どうか骨を折ってもらいたい」
と、説いて廻りました。今迄も御用金、御用金で難渋している所へ、この先そんな事を□実にして、また金を取り立てられてはたまらないと、子供達まで繰り出して道普請を始めました。
すると新町ばかりでない、他の町からも、
「それ、手伝いに行け」
と続々と集まってまいりまして、かがり火を焚いて昼夜兼行。三日間といわれたのを一日で完成してしまいました。
役人の方じゃ、
「どうせ期限内には出来ないだろう。その時には、それを口実に大金を取り上げよう」
という積りだったのがアテが外れたものですから
「文殊九助という奴は不届きの者」
どっちが不届き者だが判からない。
おりあらば目に物みせてくれんと狙っております内に天明の四年とはなりました。
この年、政方は江戸へ出府しなければならないことになりました。ところが例によって金がない。千五百両を集めようというので町年寄一同を奉行所へ集めた。
総代の文殊九助を始め十五人が集まってまいりますと財満平八郎、市場吉兵衛の両人、
「年寄役一同よく来た。本日呼出したのは他でもないが、当小堀家の祖、遠江守政一様は、かって伏見城作事奉行を務め、永くこの地においでになったお方である。その方達もこの伏見に代々住まう草分けであれば、当家の御恩をこうむったこともあろう」
「へへェ」
一同が頭をさげている中で、今年六十一歳になる丸屋九兵衛が、
「エー申し上げます。先祖伝来の書き物を見ましても、小堀様から格別にご恩をこうむった覚えはございません。築城のおりも別にこれといって下された物もなし……」
ずいふん色気の無い爺ィだと思ったが、金を取る都合がありますから、平八郎はグッとこらえて、
「ァー、実はこのたび、お上が江戸へまがりこすについて、路用が莫大に入用である。そこで迷惑ながら一同へ御用金を仰せ付けられる。かかる時世であるから多分の金子ではない、いささかであるから承知してもらいたい」
これを聞いて伊兵衛、
「ただいま承りますると、いささかであるから承知してくれと仰せになりますが、お上におかれましては、いささかと思しめしても、納めまする方では大変でございます。百姓は泥まみれになって田畑の仕事をし、商人はわずかな利を得まして家の者を養っております。その中でたとえ一文たりともみだりに納めることはできません」
「だまれ。総代は文殊九助ではないか。九助か返答せんのにその方が口を開くのは無礼であろう。上役人を何と心得る。」
「何とも心得ませんでハイ、人の形をしているだけで……」
「かたち……無礼者!」
九助か割って入りまして
「コレコレ伊兵衛さん」
「申し上げます。どうもこの伊兵衛は年寄のようではございません。どうか手前の白髪頭に免じてお許し下さいまし。
「伊兵衛さん、お前さんもそうだ、お役人様の申し渡しを聞いてから腹を立てるが良い」
「それまで待っていられませんから……」
「控えろと申すに……九助、このたびの御用金は、一軒前わずかに十五匁である」
なにしろ当時は女中の給金が年六分という時代ですから庶民にとって一分は大金でございます。
「何でございますか、それは我々年寄役が納めまするだけでございますか」
「コリャコリャ、年寄役といったところがわずか四十人ではないか。一人前十五匁づつ納めたところでいくらでもあるまい。そうでない、伏見御城下町大百姓を問わず、一軒前十五匁を納めるのじゃ」
といわせも果てず伊兵衛が、
「それは相成りません。総代の九助か何と申すか存じませんが、年行事をつとめまするこめ伊兵衛は応ずる訳に相成りません。
一軒で出しますのが十五匁ゆえ、何でもないとの思し召しでございましょうが、集まりますと千五百両の大金でございます。これまでの御用金もお返しもなし、この上十五匁はおろか一匁でも、町の者へ御用金を申付けることは年行事として相成りません」
「だまれ!九助の返答のない先に口外致すとは、我々をあなどりおるか」
「あなどる訳ではございませんが、馬鹿にしている」
「同じ事だ」
にわかに活気立ちましたが九助は落着いて
「マア皆の衆、しずまって下され。不肖ながら私のような者でも総代となっているからは、とにかくこの場は任せて下され。エー、お役人様へ申し上げます」
「何だ」
「御用金の額も、員数も分りましてございまするが、納める納めないの事は今日即答を致すわけに相成りませんから、恐れ入りますが三日間ご猶予を願います」
と、役所を出まして菩提寺へ参りますと、伏見の年寄役四十数人が集まりまして相談を始めました。
それを聞きつけてやってまいりましたのは医者の水島幸庵、
「皆さん、えらい事になりましたな。町年寄役でもない私が、おせっかいなようだが、このたびの御用金は沙汰やみになるように殿様にお願いしてみましょう。
この幸庵、伏見に住んで四代目、町の人々の難義をこのまま見てはいられません。明日殿様のお脈拝診のおりに嘆願致しましょう」
翌日のこと奉行屋敷へまいりました幸庵、政方の病室に入りますと、ゾーンと酒の勾いがします。
「オオ幸庵か、予の病いを充分に診察致しくれい」
「ハハッ」
側へすすみましたが、脈もとらずにジッと政方の顔を見ておりましたが
「エー、およそ判りましてございます。公の御病気には黄金湯を用いまするのが第一……」
「ウハハハハ、幸庵、そちゃ名医じゃ。いかにもそちの申す通り黄金の湯が第一じゃ。このたびは充分に用いなければならん」
「これはしたり。公が当伏見奉行にお成り遊ばしてよりこのかた、町人百姓一同ことごとく困窮し、病人で申せば衰えるばかり。この上黄金湯をお求めになりますれば、民の疲弊はいかばかりか、この上の御用金はご沙汰やみを願わしゅう……」
「控えろ、幸庵。わが先祖、小堀遠江守様は、この伏見の旧領主である。されば予が伏見の領民にいかほど用金を申し付けるとも苦しからず。医者は医者の勤めを致せばそれでよろしい」
「これはいかなことを、医は仁術と申し、人を助けるのは医者の常でございます。伏見の領民一同の難渋の様子は正に大病、見捨てておけませぬ。このたびの御用金、なにとぞご沙汰やみ願わしゅう存じます」
「ムム、言わせておけば推参者めか、斬り捨てい!」
「ハハッ」
返事と共に財開平八郎がいきなり斬ってかかった。パッと左に体をかわしましたが、もとより剣術の心得もない。続く二の太刀に右の肩口をザックリ。
「ウーム、おのれ和泉守、小堀の家は三年とは繁盛させぬ。必らず家断絶させるぞ」
ハッタとにらみ付ければ、政方
「無礼者め」
自身の刀の鞘を払ってツカツカとそれへ進むと、幸庵の首を打ち落してしまいました。
さあ、頼りにしていた幸庵が殺されてしまっては万事休す。ひそかに集まりました文殊九助、丸屋九兵衛、麹屋伝兵衛、焼塩屋権兵衛、柴屋伊兵衛、板屋市右衛門、伏見屋清左衛門の七人は、相談の結果「伏見奉行お役替え」お奉行様を他の人と替えて下さいと、幕府へ直訴することを決めました。
天明五年初夏、江戸表の様子をさぐる為に九兵衛は一人で出府し、下調べを済ませて伏見へ戻りました。
充分に仕度をして江戸へ出府するのは九助、九兵衛、伝兵衛の三人。あとの四人は直訴が万一失敗した時の後陣として残る事になりました。
天明五年七月三日、水盃で家族と別れた三人は、役人の目をくらます為にバラバラに江戸へ向かいます。伝兵衛は旅の途中で病を発し、ようようのことで馬喰町の旅蝋屋にたどり着きました。
ところが、この秘密の計画が漏れて、伏見からの追手の役人に追われた三人は、深川陽岳寺へ逃げ込みました。
陽岳寺八世の住職照道和尚は、元は侍で義気に富んだ人でしたから三人を匿まった上、医者を呼んで伝兵衛の病気の手当てまでしてくれたのです。
江戸の秋も深まった九月十六日、病床の伝兵衛を照道和尚に頼んだ文殊九助と丸屋九兵衛の両人、木綿の着物に小倉の帯、手甲、脚絆に草鞋がけ、めざすは寺社奉行、松平伯耆守の屋敷でございます。
門前近くの天水樋の蔭にかくれた二人は、江戸城から下ってくる伯耆守の行列を、息をつめて待ち受けております。
やがて二時半頃、
「寄れェ、寄れェ」
制止の声とともに行列が門前に近付いて来た。物蔭からバラバラツと飛び出した二人
「恐れながらお願いの者でございますッ。山城国伏見の町人文殊九助と申します者、一大事を願い奉ります。お取り上げを願います」
「同じく丸屋九兵衛でございます。お取り上げを願います」
「さがれさがれ。差越し訴えは相ならん。願いあればその筋の役人へ願い出ろ。さがれさがれ」
ドーンと胸を突かれてバッタリ倒れた九助、訴状をかざしながら、
「お願いでございます。伏見人民一同の命にかかわる一大事、なにとぞお取り上げ願わしゅう……」
血を吐くようなその声が駕籠の内へ届いたのか
「取り上げつかわせ」
鶴の一声に駕籠わきの侍が九助の差出す訴状を受取ると、何事もなかったかのように行列は静かに門の内に入って行きます。
残された二人は侍に引立てられ、その夜は屋敷内に留め置かれました。
直訴は天下の法度ですから重罪で、理由を問わず伝馬町牢送りとなるところでありますが、情けによって公事宿(地方から訴訟の為に出て来た人の泊る宿)近江屋甚兵衛方へお預けの身となったのです。
一方、照道和尚の慈悲の衣にかくまわれ、陽岳寺の奥の一室に寝ついておりました伝兵衛は、直訴の願書が首尾よくお取り上げになったと知らされると、安心して気がゆるんだものか病が一層重くなりました。
天明五年十一月十一日、臨終の近づいた伝兵衛は、
「和尚様、私の病はとても全快は難かしかろうと思います。捨てる生命は惜しくはございませんが、此度の願いが叶うものやら叶わぬものやら、それを見ずには死ねませぬ。死んでも成仏できませぬ」
「そうじゃ、よう申された伝兵衛殿。病は気からというではないか。気を丈夫に持って一日も早く快くなることじゃ」
と、励まし介抱致しましたが、その日の夕刻、故郷を遠く離れた江戸の空の下、筑波おろしに吹き散らされる枯葉と共に冥土へ旅立って行ったのでした。
さて、寺社奉行松平伯耆守は訴状に記された小堀政方の虐政数十ケ条について調べてみると、少しの違いもない事が判明致しました。
しかし幕閣の主流派である田沼意次は、政方の父政峯によって出世の糸口をつけて貰ったという縁故がある。うっかり持ち出しては握りつぶされる恐れがあるので、充分に調査をした上で反主流派の幕閣に根まわしをしたのです。
十二月五日、龍の口の評定所(最高裁判所にあたる)に呼び出されました九助、九兵衛の二人。正面には老中松平周防守、若年寄安藤対島守、太田備巾守、寺社奉行松平伯耆守、町奉行山村信濃守、いずれも麻上下の折り目正しく着座しますと、ひとひざ進み出た伯耆守が、
「山城国伏見下板橋二丁目住、文殊九助、同国同所京町七丁目住、丸屋九兵衛、面を上げィ」
「ハ ハァ」
「両人の者訴うる所、上、格別の思し召しをもってこれを採り上げ吟味致す。よって願い書附ならびに追い願い書を改めて差し出すべし。なお、両人宿預けの義は今日よりお許しと相なり、帰国勝手たるべし」
「……ウ、ウ、ウワァ」
二人は声をあげて泣き伏しました。もとより命は無いものと覚悟をしていたのですから無理もありません。
有難くお受けした二人は、宙を飛ぶようにして陽岳寺へまいりまして、今は故き伝兵衛の墓に詣で、あらためて涙にくれたのです。
早速、伏見の人々に手紙を認ため、その夜は宿の主人の心づくしの祝いの膳をかこみました。
照道和尚の心づかいで、万一をおもんぱかった二人は、陽岳寺中で半月ばかり疲れを休めておりましたが、十二月二十七日
「和尚様、永々と有難うございました。こんな大事を無事遂げられましたのは、和尚棟のお蔭でございます。伏見の人民一同、このご恩は末世末代まで忘れは致しませぬ。有難うございました」
と、厚く礼をのべて故郷伏見へ向かいました。
その頃、伏見の町では奉行小堀政方が、江戸屋敷からの急飛脚によって、文殊九助達が幕府へ直訴した事を知り
「こりゃァいかん」
と、まるで手の平を返したように、住民に対する懐柔策を取り始めたのでございます。
減税、豪邸工事の中止、義民の同志達に対する閉居を解き、密偵を廃止、次々とまるで泥縄でもなうように善政をうち出しましたが、すでに手遅れでした。
幕府から派遣された役人は密かに実状を調べて報告しましたから
「ただちに出府せよ」
との奉書によって政方の一行が、天明五年十二月二十六日江戸へ着きますと、即刻、奉行職を解任されてしまいました。
一方、暮れに江戸を発った九助と九兵衛は翌天明六年一月十四日、伏見の住民数干の歓喜の声に迎えられて無事に帰り着きました。
「九兵衛さん、皆の衆がこんなに喜こんでくれるとはのう。私ァ半年前にこの伏見を出立した時は、生きて再びこの土地を踏めるとは夢にも思わなんだ。もうこれで、いつ死んでも思い残す事はない」
「ほんに九助さん、冥土へ良いみやげ話ができましたのう。それにつけても伝兵衛さんがこの様子を見たらどんなに……」
伏見の人々が数年ぶりにおだやかな正月を喜こんでいた所へ、新奉行久留島信濃守が着任したのは二十日のことでした。
「御用! 神妙にせい」
二十五日の早朝、九助の家に役人が踏み込んで来ました。
「こ、これは乱暴な、何のおとがめでございます」
「グズグズ言うな。出る所へ出て申し上げいッ」
奉行所へ引ったてられたのは、江戸から戻ったばかりの九助、九兵衛ばかりではありませんでした。
小堀政方と結託して不正を働き、私腹を肥やした商人や博徒、武士まで含めて百八十余人もおりました。
新奉行信濃守は、
「先の訴状につき、願出たる町人ども、及び係わりの者ども、厳しく糾明せよとの江戸表よりの御沙汰である」
と、六人を京都町奉行所の別牢に移して吟味にとりかかりました。
訴状の九十三項目について、ひとつひとつ証人を呼び出し、証拠を集めて調べて行くのですから遅々としてはかどりません。
冬の京の牢内はしんしんと底冷えがし、夏は蒸し風呂のような暑さです。おまけにただでさえ食事が粗末なところへ、諸国の飢饉で食物も満足に与えられません。
いずれも高齢の義民達は気力で生き抜いておりましたがはひどく、二冬を越した天明七年九月十九日、伏見屋清左衛門が牢内で死亡、続いて同月二十二日柴屋伊兵衛、十月二十日板屋市右衛門、十一月四日焼塩屋権兵衛と、いずれも餓死同様のありさまでした。
残るは九助、九兵衛の二人だけとなってしまいました。
師走に入ると江戸表で再吟味の為、関係者は小堀方の罪人も含め、すべて江戸へ護送されることになったのでございます。
ところが、小堀の家臣が牢役人に賄路を使って牢内の食物に少しづつ毒を入れていたのを九助と九兵衛は知らずに食していたから、毒が廻ってすっかり衰弱しておりました。
二人が唐丸籠に押込められて京を発ちますと、街道のあちらに三人、こちらに五人と並んだ 伏見の人々は、
「命の親様、九助さま、九兵衛さまァ、どうぞご無事で、きっと帰って来て下されやァ」
と、手を合せて涙ながらに見送りました。
寒中ふきさらしの東海道を下り、江戸へ着いたのは暮もおしつまった二十八日でした。さっそく翌日から龍の口評定所で吟味が始まりましたが、九助は枕もあがらぬ重体で白州へ出る事ができません。九兵衛は願人側のただ一人として出廷しましたが、これとて他人の肩を借りなければ歩くこともかなわぬ有様でした。
連日の調べの内にその年も暮れ、明けて天明の八年正月三日、神田の公事宿の一間で九助は、羽子つきの子供達の声を遠くに聴きながら息を引き取りました。
一人残された九兵衛は、這うようにして出延し、孤軍奮闘していましたが、同じく二十三日、調べ中の白州でとうとう精根つきて絶命してしまい、二人の亡骸は照道和尚が引き取り、陽岳寺の故伝兵衛の隣に葬られました。
こうして原告の死に絶えたこの訴訟は、同年五月六日、四年目にしてようやく結審をみました。
小堀和泉守政方は領地没収、家改易、その身柄は小田原の大久保家にお預け。その他は死罪、遠島、追放、過料に処せられ、また再調べにあたった京都町奉行、伏見奉行も吟味遅滞をきびしくとがめられました。
時はうつり人は変って百年目、明治二十年、東京の新富座では、伏見義民を劇化して「文殊智恵義民功」(もんじゅのちえぎみんのいさお)の題で上演され、この前後には、「文殊九助実記」 「天明騒動 伏見義民伝」という実録本も出版されております。
永々と申し上げました伏見義民伝も、まずこの辺でお了いと致します。

義民の心(陽岳眞幸)

天明五年十一月十一日、陽岳寺の一室にて伏見義民の一人麹屋伝兵衛が病死してより、昭和60年で二百年目に当りました。不恩義にも当寺の伏見義民之墓が伏見義民顕彰会、神谷喜太郎氏、山下登氏、岡本勲氏、小高きく氏、悟道軒円玉氏、向井宗直先住職他の寄附により再建され、五月の山門大施餓鬼会には、はるばる京都伏見より御香宮宮司三木善則師が下記に記す三条実美公、勝海舟翁直筆の掛軸を里帰りと称し供覧せられました。また伏見義民三名の御遺骨を火葬場にて茶毘にふし、八月十三日伏見へ分骨いたしました。大変不思議な縁とおもいました。
義民とは、自分を捨てて公衆、正義のために一身をささげるという意味ですが、これはまさしく菩薩の行と違いません。いつの時代にもこの志は忘れてはいけません。陽岳寺と京都伏見は現在でも固く結ばれています。210年も前のお話ですが、これは事実です。私達の内なる義民の心を喚起し、遠く散った義民達の冥福を祈ります。
願わくはこの功徳をもって、普くー切に及ぼし、我等と衆生と皆共に仏道を成ぜんことを。

(伏見義民の碑、三條 實美公、題字 勝 海舟翁 撰並書)

明治二十年月日 海舟散人 誌

いにし天明の頃、此伏見のさと司どれる某とかや奢つよく、私多かりければ、酷吏、ねぢけ人等、時を得、其私を助け、政あらぬ方にみだれ行き、民其たづきを失ひ、歎きのさぎり深くして、拂はむすべなかりしに、里人文殊九助ぬし、才賢く、志實やかにて、思を潜め、もろ人の為に身の難をかへり見ず同じ志の友、丸屋九兵衛、麹屋傳兵衛、柴屋伊兵衛、焼塩屋権兵衛、板屋市右衛門、伏見屋清左衛門等と密に謀、心思を一にし、万苦をしのぎ、いくかへりか、江戸に出で、歎き訴ふる所あり。終に此真心貫きて、呉竹の伏見の里人の為に、直なる道ふみ開き其の苦厄を拂らひたりしに、此事半にして傳兵衛ぬしは病に死、九助ぬしは事果し後、天明八とせ正月三日、九兵衛ぬしは同じき二十三日、江戸の旅寝の露と消えぬ。今哉其歿後百とせを経ぬ、此里人道を慕ひ、義にいさみ、ももとせも、猶一日のここちして其なきたまを祭り、其いさをを世々に傳へむとす。嗚呼むかしもいまも鬼いばら、よもぎはことに茂りやすし、九助ぬしの如きは、そをかり拂う、よき利鎌といはむか。

明治三十年五月 従五位近藤芳介 誌

此の石碑は、いにし明治の二十年山城国伏見の里人相挙り相謀りて、其の里なる御香宮の境内に建たりしを、今度又これを陽岳寺内に重ねてものせんとす。其の理由はいかにと云ふに、伏見は文殊主の生国にして此処は某遺骸を納めたる地なればなり。哀ぬしの如きはやがて終始を全ふしたるものならむかし
心さし立てし始めを貫きて 終を見るも貴かりけり

-天明伏見義民伝, 陽岳寺コンテンツ

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