戦国期武田水軍向井氏について(鈴木かほる氏より)

投稿日:2000年1月1日 更新日:

はじめに

徳川氏麾下(きか)以前の向井氏に関する史料は少なく、僅かに『甲陽軍艦(こうようぐんかん)』と戦記物『法条九代後記』等にみるだけである。従ってその発祥地をはじめ、足跡についても不明な点が多い。
このたび、幸いにも向井本家当主・辰郎(1)氏に伝授された新出『清和源氏向系図』を入手したので、これを機に同系図の向祖長宗から九代目忠勝までの全文を紹介することを主眼として、若干の考察を加えてみたい。

新出『清和源氏向系図』について

新出『清和源氏向系図』(以下『本系図』と略す)は、徳川幕府が『寛永諸家系図伝』(以下『寛永譜』と略す)編纂のため、大名旗本に家譜を書き上げさせた際の基資料となったものと思わせるものである。
清和天皇から書き綴られ、貞享二年(1686)五月に書き改めたとし、以後、書き継がれ、文政四年(1821)十二月の十六代正通の記事で終わっている。各々の事績の間に老中よりの向井文書が書写挿入され、これらは当然ながら『寛永譜』『寛政重修諸家譜』(以下『寛政譜』と略す)『譜牒余録』の向井書上げと一致し『甲陽軍艦』『徳川御実記』『通航一覧』とも逐一符号する。しかも記述が詳細であり、且つ初見記事も多いのである。
まず『本向系図』をあげ、既知の諸向井系図と比較してみる。因みに仁木義長以前の人物は、『尊卑分脈』と一致している。

伊賀国向庄出自説

『本向系図』によれば、向祖発祥地(苗字の地・本貫地)は伊賀国向庄としている。この記述は寛文五年(一六六五)、向井正興が祖々父正重供養のため建立した碑文(2)と同文であり、同碑銘は『駿国雑志(3)』にも記されてる。この伊賀国向庄は、現三重県鈴鹿郡関町大字加太(かぶと)向井と比定される。因みに二代長興が賜った「美濃国山中庄」とは、現岐阜県不破郡関ヶ原町大字山中と比定比定できよう。
伊賀国向庄は中世、関一族鹿加太(かぶと)の居城、加太(鹿加太)城の山麓を流れる鈴鹿川支流加太川沿いにあり、地名は城の向かいにあることに由来する。伊賀、近江、伊勢三国の境に位置することから、鈴鹿関廃止後も要衝とされ、中世においても関が置かれ続けた地である。

『勢陽五鈴遺響(4)』鈴鹿郡巻乃四によれば
加太ノ内向村
醍醐天皇延長中所撰ノ本ニ載テ 伊賀国に属スル
カ如シ 然レトモ残編杜撰ノ書ナレハ善本ヲ得テ
校正スベシ 応永元年古巻文ニ鹿伏(かぶと)或
賀太(かぶと)填(うずめ)タリ(略)
とあり、加太向村は、延長年間(九二三~九三一)伊賀国内として意識されたようである。

室町期の記録『応仁別記』をみると、応仁二年九月の足利義視上洛の途次に、「伊賀仁木参上賀太(かぶと)御一献申(5)」とあり、この記事は当時、鈴鹿郡賀太が伊賀国に属し、仁木氏が賀太の自館に義視を招き接待した、と解される。
中世にあっては伊勢国周辺の国境、郡境は曖昧であり太閤検地以降、確定したという経緯がある。
仁木義長は建武三年(一三三六)、足利尊氏が鎌倉を発し九州へ下向以来供奉し、兄頼章と共に尊氏側として転戦し、伊賀、伊勢、遠江、志摩国の守護職を得ている。

以下、佐藤進一氏の研究(6)「伊賀国」を要約すれば、義長は貞和三年(一三四七)正月前後より九月頃まで伊賀国守護職に在任し、観応二年(一三五一)六月以降より同三年八月までの間に、遠江国と伊賀国の守護職を細川伊予守と交替で就任している。その後も幕府は再三に亘り、伊賀国平柿庄領家職の遵行を命じ、義長はその都度、守護代に施行している。また、延文元年(一三五六)十月十九日の御教書符案(7)では、伊賀国名張郡凶徒を「厳密可令退治」と、義長に命じている。義詮の執事細川清氏が幕府に叛し、貞治元年(一三六二)七月、讃岐に細川頼之と戦って敗死した後も義長は三度、伊賀国守護職として現れる。延文五年(正平十五年一三六〇)七月、畠山国清の詭謀にかかり没落するまで、義長は伊賀と三河国の守護を在職していた、と推されている。
伊勢国守護職は応永三年(一三九六)七月、義長の子満長から満長の異母兄弟、義員(土橋)に改替(8)以降、仁木氏の在職はみられないが、伊賀国においては南北朝内乱が終熄した以降も仁木国行、貞長、実名不詳の仁木某が補任(9)されている。伊勢周辺における守護職の改替は頻繁であったものの、「伊賀国四郡者仁木家の領地也(10)」とみられていたのである。

向祖長宗が伊賀国向庄を賜ったとされる応永初め、幕府は守護家牽制のためか、地を分割し在地武士に領有させている。この頃の伊賀、伊勢国周辺では、守護職といっても在地武士への指揮権はなく、専ら将軍への協力に依存することにより、将軍から付与された権限を以て経営を維持する守護(11)がほとんどであり、従って、伊勢国周辺では守護領国制が発展せず、在地武士が独立的にそれぞれの小領に割拠していた状況にあった。むろん、仁木氏も同様であり、一族長宗に伊賀国加太向井が本貫地として分割され与えられた可能性は、周囲の情勢から考え合わせても、充分ある。『荘園志料』には「伊賀国向庄」はみえないが、向庄は現在、大字名として残ることからも小規模であったろうし、向井氏は系図の体裁を考慮し「庄」と記したのであろう。

向井氏発祥地について初めて論じたのは、管見では志賀重昴博士である。同氏は『人生地理学』(12)のなかで、根拠を示すことなく紀伊国牟婁郡尾鷲向井浦(三重県北牟婁郡尾鷲市向井)と初めて断定し、その後、大西生氏(13)が伊賀国向庄の地を検討することなく、志賀博士に同調した。以後、向井氏を語る上において殆どの研究者(14)がこれを引き、『三重県史(15)』をはじめ地元刊行物(16)にさえ引用され、今日の通説のようになっている。しかし、その根拠はない(17)。

現尾鷲市向井は大化二年(六四六)の国郡制定では志摩国英虞(あご)郡に属し(18)、『和名類聚鈔』(九三八)においての英虞郡域であったとされる。『神鳳鈔(19)』では志摩国答志郡内の伊勢神宮御厨として「中井須山、南浜、焼野(やけの)、村嶋、比志加(ひじか)、佐和、須賀利(すかり)」が記され、この地はそれぞれ中井浦、南浦、矢ノ浜村、向井、九木浦、須賀利浦と比定(20)されている。つまり、現尾鷲郷内では『慶長高目録(21)』にみる「向村一五一石余」が向村の初見である。

中世においては、本貫地を苗字とする場合が多い事実を考えれば、向祖が村嶋に拠ったとすれば、村嶋姓を称するのが自然である。それに、この尾鷲市向井遺跡からは昭和五十二年と同五十六年の発掘調査結果(22)をみても、縄文早期の遺跡、遺物の発見のみであり、向井氏とは何一つ接点がない。尾鷲市向井説は完全に否定してよい。
では何故『寛永譜』に「向勢州田丸住焉」と書かれたのであろうか。この勢州田丸は、古代から伊勢国度会郡内にあり延元元年(一三三六)、北畠親房が南朝の拠点として築いた(23)玉丸(たまる)山城があった。十六世紀以降、田丸と書くようになった現三重県度会郡玉城(たまき)町田丸城跡である。

玉丸山城は、康永元年(興国三年一三四二)八月二十八日北朝の将、高土佐守師秋や仁木義長によって陥落(24)されたが、元中九年(一三九二)の南北朝合一後は再び北畠氏領有となり、応永年間後半には北畠の臣、愛州伊予守忠行が国司家三大将の一として城に入った(25)。北畠氏が在地領主を掌握していくなかで、愛州氏は守護(26)として向井氏、小浜氏など、周辺の熊野水軍を統率していったと推される。『本向系図』には四代長春が北畠教倶(のりとも)に従属した記述があり、この長春以前、向井氏は「伊賀国向庄」から玉丸山城の辺に移住し、そのため『寛永譜』に田丸に向かって住焉と書かれたと推される。ここで注意すべきは『寛政譜』の段階において「田丸の向かひに居住するが故に向井と号す」と、あたかも苗字の地のように誤読されていることである。

『寛永譜』のいう「勢州田丸」と、『寛政譜』の「伊勢国度会郡の向井」とは、前後の文面からも同地であるから、『寛政譜』編纂当時、伊勢国度会郡田丸に向井と称す地が存在したことになる。現在、田丸城跡一.五キロメートル北に度会郡玉城町岡村小字向井と称す一画があるが、そこが向井邸があったことに由来する小字名であろうか。
向井氏が北畠水軍を経たことは、資料のないまま志賀重昴博士の前掲書以降語られてきたことである。向井氏は長晴の頃より、勢州玉丸山城、愛州氏のもとで、のちに頭角を表す海戦のイロハを学び培っていったと推される。

武田水軍として

『本向系図』によれば、七代正重のとき駿河持舟(用宗)城主朝比奈駿河守の招きにより、今川氏被官となったとある。向井氏が今川水軍を経たことは唯一、武田光弘著『向一族(27)』のなかにあるが、残念ながら出典がない。しかし、北畠氏の勢力下であった伊勢大湊は、古くから関東への海上交通が開け、吉野朝以来、駿河湾における海運は今川氏の制下にあった。伊丹大隅守康直も永禄元年(一五五八)今川義元に仕え(28)、岡部忠兵衛直規(29)(のちの土屋氏)もまたそうである事実を思えば、、向井氏も彼らと接触する中で駿河へ移住し、今川氏被官となった可能性がある。後考を要すが、一応ここに指摘しておきたい。
正重が元亀三年(一五七二)二月、武田水軍として招かれた文書も初見である。小濱景隆も同年の五月、武田氏に帰属(30)し、『甲陽軍艦』品第三十九には、すでに元亀三年夏秋に清水の船手衆としての向井らの名がみえる。また正重が天正五年六月、勝頼から賜った直判の感状も初見であり、賜った経緯は寛永・寛政両系譜に記すところでる。
また小濱景隆の武田水軍としての知行史料は既知だが、向井氏のそれも興味深い。天正七年九月十九日、正重、正行(政勝)父子が持舟城で戦死したことは『武徳大成記』他で明らかであり、『甲陽軍艦』には、正重嫡子正綱が家督相続を許された記述がある。
また天正七年卯月二十五日付、勝頼の正綱宛感状も初見である。これは正綱らが北条軍と沼津千本松原沖において船戦し、敵船を乗取った功によるものであり、正綱と同月日に小濱氏にも発せられ(31)ている。右の船戦の様子は戦記物『鎌倉九代後記』にも伝え、『甲陽軍艦』品第五十五には春日惣次郎の書付として詳細に記され、その中の「勝頼公御感状を向井兵庫に下さる」としているのがこれである。

徳川水軍として

武田氏滅亡三か月後の天正十年六月、正綱は食禄二百俵を以て徳川氏被官となり翌月、北條水軍と対戦し、早くも八月十四日感状を賜った。このとき本多重次は正綱を伴い伊豆国へ赴いたが、阿部善九郎正勝、本多弥太郎正信、大久保新十郎忠康(のちの忠隣)の三人は、家康と共に甲州の新府にいた。家康の意を受けて発せられたことは確かである。
家康の関東入国と共に、正綱は船手四人衆の一として相模国三浦郡三崎へ移住することになる。正綱三十四歳、忠勝八歳である。邸は後北条氏の旧三崎城(北條山宝蔵山)であり、三浦郡内知行地は三崎二町谷村(32)のみが確認できる。
正綱が三浦郡移住の際、伴った「向井五左衛門、同権兵衛、同権七郎」は、『本向系図』にみる正重養子正行(実父長谷川長久)の子息二人と孫である。

①正重(伊賀守)┬政勝(実某氏男天正七年没伊兵衛正行)─権十郎正盛(慶長四年二六歳没)

正重─正綱(兵庫頭)

正重─政勝─五左衛門政良(寛永九年五十七歳没)─権十郎政直(正保元年没)─
─半十郎(万治三年没)─千之助正友(元禄六年没)─万之助(元禄十一年没)─
─鍋之助(養子享保十一年没)─半七郎(養子寛保二年出奔絶ゆ)
『寛永譜』『寛政譜』より作成

②政勝(伊兵衛)─権兵衛政家(元和五年四十二歳没)─権十郎某(寛永二十一年正保元年没)─  ─半十郎(万治三年没)─千之助(元禄五年没)─政春(万之助宇右衛門元禄十年没)─
─隅之助(鍋カ頼母享保十一年没)─半七郎(兼次郎実本田市正正方二男)─断絶

政勝─権兵衛政家─忠重(御手洗家重養子)
『断家譜』巻十五(向井)

右系図①には権兵衛の名はなく、系図②には権七郎の名はみえないが、『本向系図』によれば、正綱妻は長谷川長久娘のほか、早死した正行娘がいる。つまり正綱にとって五左衛門と権兵衛は義弟であり甥でもある。彼らは与力渡辺五郎作組みに入るが、彼らの墓が走水番所に近い覚永寺にあるのは、御番として走水に居住したからと推される。向井家と長谷川家との縁戚関係は三代に亘っており、『寛永譜』(四)には長久は生国大和とあるから、両家の関係は駿河国以前からかも知れない。

長谷川長憲┬長久─┬長盛
│     ├長綱─────────女    ┌正俊
│     ├長次(五男)          ∥    ├忠宗
│     ├────────女   ∥───├長保
│     └正行(長男政勝)─女∥   ∥    └正元
└女                ∥∥─忠勝    ┌正方
∥──────────正綱   ∥───├正興
正重                   中田氏   └正次
諸向井系図及び向井氏墓銘より作成

実は『本向系図』に、マニラのスペイン船が慶長年中、上総大多喜に漂着したという興味深い記事がある。これを将監忠勝が仰せに応じ接待し、帰国させたというのである。『通航一覧(33)』によれば「慶長六丑年秋同国(呂宋)の船上総国大多喜浦に漂着す、十月六日本多佐渡守正信に命ぜられ正信より印書を授けしめ給ひ、かつ唐船御船及び食物等を賜はりて同九甲辰年六月二日帰帆す(同十一年六月十五日同国の船相模三浦浦賀に入津し、書儀を献して此事を謝し奉る事は入津并王書御返簡并献上の條にあり)」とあり、『當代記』巻四同年七月条にも呂宋船浦賀入津の記事をのせている。その本多正信よりの印書の日付が、次の印書とピタリと一致するのである。

今度到上総国令着岸輩水主梶取不残加比丹任下知、呂宋江召具可有渡海候、於難渋者可及言上候、恐々謹言
慶長六、十月六日 本多佐渡守正信印
世連郎寿安恵須氣羅(セレラシュアンエスケラ)
『増訂異国日記抄(34)』

村上直二郎博士は、「慶長六年」は誤りで、慶長十四年九月三日、元フィリピン総督ドン・ロドリコ・ビベロが上総国岩和田沖で難船した際の司令官宛印書としながらも、慶長年録の渡海朱印状と人名が合わないと註譯を加えているものである。しかし、これは慶長六年の大多喜浦漂着のスペイン人宛の印書であることは明らかである。
家康は慶長三年十一月(35)、スペイン商船の浦賀誘致交渉をし、マニラ総督に対し、「旅寓商人船中資材、何可豪奪乎(略)或遇賊船、或漂逆風、縦雖檣傾楫摧 到弊邦則安心矣(36)」と、日本のどの港に漂着しても積荷を没収しないという、故豊臣秀吉との外交政策との違いを明示している。難船を海神の祟りとして積荷を没収することは、日本古来からの仕来りである。家康はこれを破り、スペインとの国交回復を優先したのである。
マニラからメキシコ(当時スペイン領)に赴くスペイン船の上総漂着は、慶長十四年のロドリコ・ビベロが岩和田沖で難船し、このとき三浦按針造船の一二〇トン船が提供され、鉱夫招聘のための交渉船として帰国させたことは知られるが(37)、慶長六年漂着のことは論じられていない。しかも慶長六年に彼らに提供された唐船とは、もう一艘の三浦按針建造船であったことが前掲『通航一覧』で判る。

(略)同九年六月二日船にとり乗て浅草川を出航し、リョサウ(呂宋)国へ渡海す、伊豆の国に作らしめ給ふ唐船は浅草川に徒に朽果ぬへきとこそ思ふ處に、呂宋のものとも有難き御慈みにあひたり

家康は秀吉死後、メキシコより画期的な金銀精錬法(アマルガム法)導入に執念を燃やし、浦賀を、そのための寄港地として海港したのだが、それにしても、三浦按針に造らせた船は二艘とも、三浦按針の母国イギリスとの貿易のためではなく、スペイン人に提供された事実に、家康の鉱山新技術導入にかけた(38)浦賀貿易に対する鋭意を、ここに再確認することができた。
また『本向系図』寛永九年八月十八日付の、伊豆山中より官船安宅船建造用材の伐採許可証も初見であり、寛永十年七月二十六日付老中の書簡は安宅船の船体完成を示すものであり、文中「船之絵」とは艤装をするにあたり、秀忠に意見を窺うための絵図であろう。将監忠勝が三浦郡三崎屋敷内に寛永十年建立した碑は、この安宅船船体成就を記念したものなのである。

最後に

家譜類は近世に至って軍記物を参考に整理作成されたものが殆どである。しかし、中央資料に表れない史実解明の助けとなり得る場合が大である。『本向系図』の中世部分を史料批判することは、もはや不可能に近く、今後も期待薄であるから、ここに紹介できたことは嬉しい。
なお最後に資料提供くださった向井本家当主・辰郎氏をはじめ、三重県慥柄の向井由紀子氏、東京都深川陽岳寺の向井眞幸住職、静岡県興津清見寺の五十嵐興道住職、現地踏査の際、ご教示賜った長谷克久氏、北畠弘道氏、古文書解読にお助け戴いた鈴木亀二氏に対しお礼申しあげたい。

平成10年3月神奈川地域史研究 第16号抜粋

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